よき隣人

妻高 あきひと

よき隣人

 その侍が禅林寺に現れたのは、桜のつぼみが顔を出し始めたころだった。

遅霜の下りた朝のこと、小僧の一念が山門の階段を掃いていると、もやのかかる裏手の細道を歩いてくる侍に気づいた。


寺は江戸の町が近くに見える小高い丘にあるが、左右は野原で後ろは墓地と竹藪しかない。

侍はどこから現れ、どこへ行くのかと一念が見ていると、細道から参道に出て向きを変え、山門に向かってきた。

侍も箒を持っている一念に気づき、微笑み気味に言った。


「掃除か、ご苦労じゃな。わしは萩野と申すが和尚殿はおられるか。こちらの無縁仏に線香を上げ、弔いをしたいのじゃが」

「おはようございます。小僧の一念ともうします。和尚は本堂にておつとめしておりますのでご案内いたします」

「おう、有難い」


ゆるい石階段を少し上がるとすぐ前が本堂だ。

一念が本堂の階段を数段上がって本堂に入ると、すぐに和尚の百海が出てきた。

後ろを一念がついてくる。

百海は数珠を手にしながら荻野に近づき顔を見た。

色白で若い侍らしく清々しい顔をしている。


「おはようございます。よくおいでなされました。無縁仏の回向に参られたとか、有難きこと、ご苦労様にございます」

「荻野と申す、突然のことで申し訳ない。無縁で葬られた者の中に知り合いがおっての、やっと来れた」


「左様でございますか、無縁堂は外からも行けますが、あちらは寺の者の通用口ですので、本堂からお上がりくだされ」

荻野は百海とともに本堂で手を合わせ、渡り廊下を通って無縁堂に入った。


「少々古くてあちらこちら雨漏りします。なにせ手が回りませぬで」

「いや、構わぬ、守って頂けるだけでも有難い」


無縁堂に入ると柵の前には仏壇がしつらえられて地蔵が置かれ、柵の向こうには小さく砕かれた人骨が天井近くまで山のように積まれている。

荻野はその光景におどろく様子もない。

百海は荻野に尋ねた。

「無縁で葬られたお方のお名前はお分かりでしょうか」

「ああ、その者は和記弥一郎と申す」


百海は一瞬おどろいたが顔には出さない。

「和記様といえば、昨年お骨をこちらに移したお方ですが、すでに砕いており、もはや区別もつきませぬ。秋にはまとめて墓地に埋める予定にございます」

荻野はうなづくと線香を立てて手を合わせ、般若心経を唱え始めた。


経が終わると懐から分厚い紙包みを出し、地蔵の前の賽銭箱の上に置いた。

「これは少ないが収めてくれ」

包みはかなり重そうだ。

「これはこれは恐れいります」


百海は荻野に尋ねた。

「荻野様は和記様に御縁のお方で」

「和記と同じお家に仕えておる。あのときは国元にいて動きも取れず、最近になってやっと落ち着いてきた。和記もどこぞの谷にでも捨てられるとこじゃったが、お引き取りいただき感謝に堪えぬ。御礼申し上げたい」


「いいえ、めっそうな、礼には及びませぬ、本堂にお茶をご用意しておりますが、お時間はございますか」

「そうじゃの、せっかくの機会じゃ、そうさせて頂こう」

荻野が歩く後ろを百海がついて行く。


百海の目が自然と荻野の背中を見ている。

すると荻野の襟の上から奇妙なものが垂れている。

よくよく見ると首の皮だ。

首から剥がれて垂れている。

荻野の歩きに合わせて皮が揺れている。


普通なら薬でもつけそうなものだが、そのような跡はない。

痛みも無さそうで、本人も気づいていないようだ。

どうしようか迷ったが、荻野に声をかけた。

「荻野様、首の後ろの皮がめくれております。襟からのぞいておりますゆえ少々目につきまする。当寺に塗り薬がございますが」


荻野はギクっとしたようにおどろくと、肩越しに手を回して皮をピリッとめくって取って懐にいれた。

百海はおどろいた。

荻野が言う。

「しばらく前から皮がめくれての、痛くもないのでほっておる」

だが皮を無理にめくれば血が滲むはずだが、血も出ていない。

百海は思った。

(痛くもないのか、奇妙な御仁じゃ)


荻野と百海が本堂に戻ってきた。

本陣には九尺ばかりの阿弥陀像が鎮座し、その右に少し小さな勢至菩薩、同じく左に観音菩薩が阿弥陀に仕えている。

そばの机に荻野と百海が向き合って座った。


すぐに一念が茶と茶菓子を盆にのせてやってきて荻野の前に出した。

「おお、これは申し訳ない」

「いやいや構いませぬ、お口にあうやらどうやら分かりませぬが」

一念はニコニコしながら二人から少し離れて座った。


風は無いのに、線香の煙が本堂を泳ぐように回っていく。

しばし沈黙が続いた。

百海は荻野の手元を見ていて、荻野は茶と茶菓子を見たままで手を出さない。

一念は普通とは違う空気を感じた。


百海が口を開いた。

「あれからおよそ八年経ちましてございます。和記様を最初に見たときはおどろきました。尋常なお姿ではございませんでしたから」

「普通の死に方ではなかったからの」


そして荻野は顔を天井に向けて軽く息を吸うと言った。

「和尚に和記の話しをしたくなった、実を言うと誰かに聞いてほしかったのじゃが、そのような者もおらず、今日に至った。押し付けがましかろうが、聞いてくれるか」

「はい、お聞きかせ願いまする」


一念が言った。

「和尚様、庫裡にて用事がありますので、失礼いたします。ご用があれば声をかけてください」

百海がうなづくと荻野が言った。

「一念じゃったかの、すまんの」

一念が本堂を出て行った。


                 荻野の話し


 「和尚は和記の死にざまについてどこまでご存じか」

「はい、江戸のお屋敷で少なからぬ金が紛失し、当時その見張り番をされておられた和記様に疑いがかかり、厳しき調べが行われた後、白状されたと聞いております。和記様は即時に斬首、ご一家も死罪となったと聞き及んでおります。ただ噂ですので、虚実混じりでどこまで本当なのやら分かりませぬが」


「それは一番肝心なところが違う。拙者が一番詳しいでの、事実はこうじゃ」

荻野が話し始めたが、百海に荻野の真剣さが伝わってきた。


「ことの起こりは幕府からの普請の指図じゃった。掘割りに架ける橋じゃから相応の金が要る。わがお家にとっては幕府の命であり下手をすればお家の浮沈にもかかわる。それで国元の年貢の米を質にして米問屋から金を工面し、江戸屋敷の奥のひと間に置いた。

金は仕分けして六十ばかりの袋に分けて入れられ、それぞれに通しの番号と金額が書かれ、勘定方の印がつけられておった。

それを見張り役が交代で守っておった。和記もその見張り役の一人じゃった。


ところが作事に入る直前に調べたところ、その袋が一つ無くなり、他の二十数袋からもかなりの金が抜かれていたことが分かった。誰の仕業か、すぐに探索が始まったが中々分からない。事態が変わったのは探索が始まって四日過ぎたときじゃった。


 その日の夕刻、家老がみなを江戸屋敷の広間に呼んだ。ご重役や勘定方など主な者がそろい、広間の真ん中には袋が置かれていた。

袋は無くなっていた袋じゃった。


家老がその袋を指さし言った。

「これは奪われた袋じゃ、通しの番号も印も合っておる。昨日わしの屋敷に投げ文があり、本日朝これを奪ったと思われる者の屋敷を探させたところ、すぐに天井裏で見つかった。黒岩、話せ」


黒岩は和記の同輩で家も隣同士で隣人でもあった。

その黒岩が立ち上がり、大声で言った。

「本日朝にその者の屋敷を探索したところ、天井裏からこの袋が出てきた。金は一文たりとも残ってはおらぬ。その屋敷の主は誰か、お家の金を奪ったのは誰か、そこにおる和記弥一郎じゃ」

と和記を指差した。


和記はおどろき、烈火のごとくに怒って黒岩に抗議した。

「何をもって拙者を盗人にするか、事と次第では朋輩といえど許さぬぞ」

黒岩が言った。

「ご家老の屋敷への投げ文を知った探索方もまさか和記がと思ったものの、疑われておるなら晴らしてやらねばならぬということで本日朝に和記の出仕と入れ違いに家探しに入った。すると文の通り、天井裏より空の袋一つが見つかった」

「何をおのれは」

と和記が言いかけると家老が手を突き出して和記を止め、黒岩に”続けろ”とばかりにあごをしゃくって指図した。


「見張り役の和記なら様子も知っておる。隙を見て少しづつ懐に入れて持ち出していたのであろう。見ただけでは分からぬように積み上げた下の袋から少しづつ抜き出していたようじゃ、そのせいで露見が遅れた」

家老が黒岩から話しを取って続けた。

「わしも迂闊じゃった、袋を縛った紐に紙縒り(こより)を付け、開ければ分かるようにしておくべきじゃった。まさかお家の者がとは夢にも思わなんだ。後悔先に立たずじゃ、絶対に許せぬ」


座の一同の眼が和記に向いている。

黒岩が言った。

「和記よ、悪事はもはや露見しておる。素直にすればお家には情けもある。観念せよ」


和記は黒岩に向かって怒鳴った。

「拙者がなぜお家の金を盗らねばならぬ。そもそもわしが盗ったなら天井裏に隠すような子供だましはせぬ。それに文を投げ込んだのは誰か、わしはそこまで金に困ってはおらぬ」


黒岩が返した。

「誰が文を投げ込んだかはどうでもよい、貴様の家の天井裏から袋が出てきたことが問題なのじゃ。それにそこもとはご家老の娘御との縁組が決まっておろう。そのために金が必要でもあろう」


和記は当然ながらひるまない。

「そのためにお家の金を盗るほど腐ってはおらぬ。それに拙者が出仕したのと入れ違いに家探しとは実に奇妙なことじゃ。家探しのとき、拙者をはめるために誰かが袋を天井裏に置いたのであろう」


黒岩が一瞬たじろぐと、合わせるように家老が口をはさんだ。

「和記が怒るのももっともじゃが、黒岩の言うことも分かる。和記よ、このままではおぬしも疑いをかけられたままということになり、わしも困る。文を投げ込んだのは誰か、調べもしておる。いずれにせよ袋が出てきた以上は仕方がない。そちの疑いも晴らさねばならぬ、よってその身を探索方に預けるゆえ、少々我慢せい」


和記は口惜しさで泣いていたが、周りに身の潔白を明かさねばと言われ、江戸屋敷の一番奥の物置で調べを受けることになった。

ところが和記の取り調べは過酷を極め、最後は拷問になった。

一方で家老の家に文を投げ込んだ者の調べは全くされなかった。

和記ははめられた、という噂が流れ始めたころ、家老が和記の様子を見に物置にやってきた。


家老の前で黒岩が和記の耳元に小さくささやいた。

「ご家老に何か訴えることはあるか」

和記は痛みとおぼろな意識の中で小さくうなづいた。


それを黒岩は見逃さなかった。

「ご家老、和記は罪を認めてござる。こやつの仕業でござる」

和記はうなづいて白状したということにされた。

そのとき和記も一家も命運がつきた。

即刻に上意であると告げられその日のうちに首を斬られた。これが真実じゃ」


「和記様はやはりはめられたので」

「そういうことじゃ。じゃが悪事はいずれ浮いて来る」


百海がふと見ると、荻野は茶にも茶菓子にも手をつけていない。

「茶と菓子はお口に合いませぬか」

「いや、今はよい」

荻野は少し歪んだ口で微笑み、話しを続ける。


「和記が亡くなって一年ほど過ぎたころ、和記と縁組するはずじゃった家老の娘が黒岩の嫁になった。その婚儀は殿までお越しになるほど派手での、あのケチの家老がそこまで銭を使うはずもなく、黒岩はいつの間に金を貯めていたのかと噂になった。

それだけではない。黒岩は博打好きで以前から浅草辺りの賭場に出入りし、博徒にも借金していたという」


「派手な婚儀に賭場に博徒に借金でございますか」

「じゃがの、家老の娘との婚儀の半年前、つまり和記が亡くなった半年後に黒岩は博徒に借金をまとめて返したという」

「その金はご家老が」

「普通はそう考えるのが筋じゃが、黒岩が自身で出したという。あの金はどこから、という噂が拡がり、ひょっとしてお家の金を奪ったのは、ということになった」


「それはそうでしょうな。すると和記様をはめたのはやはり黒岩殿だったと」

「じゃがの、もう相手は家老の娘婿でうっかりとしたことは言えぬ。

家老の家には男児がおらず、黒岩がいずれは家老の跡を継ぐことになる。誰ももう和記のことは表立って口にもせぬ、気の毒じゃがの」


「さようでございましたか。和記様もご不運なことでございますな。でそのご家老様もその噂はお耳にしておられるのでございましょ」

「ああ、知っておるよ・・」

荻野は一瞬口ごもった。

「まさか黒岩殿とご家老はグルだったと」


「そうとしか思えぬよ。和記が疑われた投げ文はそもそも家老の門内に投げ込まれておった。黒岩が広間で和記を詰問したとき間に割って入り、和記を探索方に預けさせたのも家老じゃ、和記が口を割ったように見せかけたときも家老がおった」


「しかしそれだけでは」

「うん、証拠は無い。しかし戦の無い今の世では、幕府でさえ金で苦労しておる。

どこの家中もみなそうじゃ。

家老も出入りの商人から借金をしておったが、家老もその借金を黒岩と同じころに返した。どう工面をつけたのか、不明じゃ。家の財を始末したとも言われておるが、どうもそのような気配もないという。やはり黒岩とぐるで和記に罪をかぶせて金を奪ったのじゃろうとわしは思うておる。何よりも黒岩も見張り役じゃったからの」


「お話しを聞けば辻褄は合いまするな。和記様のお気の毒なことじゃ。お侍様の世界もどうしてどうして町民の世界よりも恐ろしゅうございますな」

「侍はの、戦あっての侍よ、戦が無くばあとは”武士は食わねど高楊枝”じゃ。見栄を張るしかなく、見栄には銭が要るのよ」


百海は言った。

「それにしても荻野様は一部始終をよくご存じでございますな」

「いや、和記が気の毒でな、あれこれ尋ね聞いているうちにこうなった。

ちと話がなごうなったが、和尚に聞いてもらって少し気が晴れたわ。礼を言う」

荻野は笑いながら頭を下げた。


そして荻野は真顔になって言った。

「ところで、その黒岩じゃが秩父に行った帰り、和記の様子を見に明日ここに寄るはずじゃ。悪人は悪事の先行きを気にするからの。そのとき黒岩に会いたいゆえ、明日もう一度参る」

「黒岩殿の予定もよくご存じでございますな」

荻野は黙っている。


「今日はこれで帰る。明日また来る」

「荻野様はお宅はどの辺りでございますか」

荻野はまた黙った。


百海が見送ると、荻野は山門を出て、裏手の方へ向きを変えて細道に消えた。

(やはり奇妙じゃな、後をつけても無礼じゃし)

庫裡に行くと一念が風呂を沸かしている。

「荻野様はお帰りになりましたか」

「ああ、明日またおいでになるが、裏手の細道を帰っていったが」


一念が怪訝な顔で言った。

「おいでになられたときも裏手からでした。でも裏手は墓地と竹藪だけですが」

百海が一念に言った。

「風呂の火はわしが見ておく、無縁堂の賽銭箱の上に荻野様のお布施が載っておる。あれを持ってきてくれんか」

一念は火吹き竹を百海に渡すと無縁堂に走った。


「和尚様、これすごく軽いですけど」

百海が手に取ると確かに軽い。

「わしの思うた通りか、中は・・ おやまあ葉っぱではないか」

一念が言った。

「狸でございますよ、狸が化けたのじゃ荻野様は」


百海は真面目な顔で言った。

「いや、狸ではないぞ、これは。和記様が寺に運ばれてきたときは首と胴が離れており、それもかなり傷んでおったからの、和記様の顔はよく分からなんだ。しかし先ほどの荻野様を見ていてどこか和記様に似ておる気もしていた。そう、あれはおそらく和記弥一郎様じゃろう。裏へ消えたのは墓地に戻ったのではないか」


「あの方は・・・ 明日またおいでになると、すると墓地から来られるので・・」

「ああ、来られる、必ず来られる」


              黒岩


 その日、青空が広がる参道を黒岩が従者を従えてやってきた。

馬に乗り、徒士一人と足軽三人を従えている。

黒岩は馬に乗ったまま山門を過ぎ、階段を上がり境内まで入ってきた。

百海があわてて走った。

「お侍様、ここは下馬してくだされ、馬上はなりませぬ」

「面倒じゃの、たかが和記のことで、クソッ」

(身なりは立派じゃが中身はひどいもんじゃ)

百海はすぐに黒岩を知った。


 「拙者、殿のお使いで無縁仏に会いに参った黒岩と申す。ここの無縁堂に当家の者であった和記弥一郎がおろう」

「はい、すでにお骨になられております」

「奴はお家の金を奪った不忠者じゃが、もう仏ゆえ線香でも上げようかと思うて来た。無縁堂に案内せい」


命令口調で百海は気分が悪い。

普通なら本堂から案内するのだが、通用口に連れていった。

一念も百海の後ろについて入る。


黒岩が無縁堂を見て笑った。

「何じゃここは、まるで小屋ではないか。屋根瓦もずれて、割れた瓦もあり、雨漏りもしているのじゃろう」

百海は黙っている。


黒岩は無縁堂に入った途端立ち止まった。

「これは」

と骨の山を見て絶句した。


「みな無縁仏の骨にございます。すでにどれが和記様の骨やら分かりませぬ。これは弔いを続け、この秋にはまとめて墓地に埋め、それで最後となります」

黒岩が言った。

「和記もここが最後の家か、罪人じゃでの、当然じゃろう」


百海が見ていると、黒岩は賽銭箱に銭を入れるふりをした。

(わずかな賽銭すら惜しいのか、こやつは)

和記は黒岩に罪人にされたのだと百海は確信した。


黒岩は線香も上げず、手さえも合わせず、くるっと向き直すとそのまま出口に向かった。

百海は思った。

(荻野様いや和記弥一郎様、どこにおいでか、黒岩殿が帰られるぞ)


 そのとき、突然天井から声が下りてきた。

「おいっ黒岩」

黒岩はビクッとおどろき天井を見上げた。

百海と一念も見上げた。

人の顔が天井一面に広がり、その顔がゆっくりと渦をまいている。

誰の顔か、百海も一念も分かった。

昨日会った荻野いや和記の顔だった。


黒岩がぶるぶると震え始め、天井を見ながら怒鳴った。

「貴様、まだ成仏もせずに徘徊しておるのか、おいっ坊主、供の者を呼べ、すぐじゃ、すぐ呼べ」

百海と一念は何かに背中を押されるように外に出た。


そして徒士と足軽に叫んだ。

「黒岩様の様子が変じゃ、すぐに来いとのおおせじゃ」

馬守りの足軽一人を残して三人が納骨堂に飛び込んだ。

すぐに足軽が二人、真っ青な顔で震えながら飛び出てきた。

一人は気を失って昏倒し、一人はそのまま大声で何やら叫びながら参道を走って町のほうへ逃げた。


中で徒士の叫び声が聞こえる。

刀を振り回しているようだ。

じきに徒士はふらふらになりながら転がり出てきた。

手に持った刀はひん曲がり、口から泡を吹いて後ろにどっと倒れた。


残るは黒岩だけだが、静かだ。

一念は百海の袖を持って般若心経を唱えている。

静かなまま、少しばかり過ぎた。


山門から地元の百姓が七八人ばかり血相を変えて入ってきた。

逃げた足軽の様子を見て何事かとなったらしい。

転がっている徒士と足軽を見ておどろきながら尋ねた。

「何がありましたか」


「ああ、後で話すで、みなも一念もついてきてくれ」

無縁堂に入り、天井を見るとすでに和記の顔は消えていた。

黒岩は床に転がり、よだれを垂らし、目を見開いたまま何か言っている。

百海は座りしゃがんで黒岩の口に耳を近づけた。

かすかに聞こえる。

「わしを殺さんでくれ、わしだけではない、ご家老もじゃ、ご家・・・」

と言い、少し間をおいて

「と、と、と・・・・」

と言いながらそこで声がかすれ、聞こえなくなった。


百海が

「和記様のことは、やはり謀(はかりごと)じゃったのじゃな」

と言うと黒岩の鼻と口から血がたらたらと流れて出た。

目玉が宙を彷徨っているように回っている。


百海は天井に向かって叫んだ。

「和記様、どこにおられる、今のことはお聞きなされたか」

返事はない。

百姓たちと黒岩を抱えて外に運び出した。

黒岩はよだれを垂らして目を開けたままだ。


 これをどうするか、代官所に届ければ幕府の耳にも入り、厄介なことになる。

なら江戸の屋敷に誰かをやって知らせねばならない。

思案していたら逃げた足軽が参道を走って戻ってくる。

後ろには黒岩の家中と思われる役人と医師らしき者が足軽に荷車を引かせてやってきた。

みなで十二三人ばかりいる。


上役らしき役人がすぐに百海に尋ねた。

「和尚、無縁堂の中で何か見られたか、あるいは何か聞かれたか。

百海は答えた。

「『おい黒岩』という声を聞き、天井に現れた顔も見ましたが、他には何も。すぐに外に出されましたので」


役人は重ねて問うた。

「黒岩と言うた顔に覚えがあるか、それとも」

昨日、荻野様と申されるお侍が参られましたが、その方のお顔にございました」

「荻野のう、荻野か、う~ん、昨日その侍から何か聞いたか」


百海は下手に隠してはまずいと思い、昨日荻野から聞いた話を全て話した。

役人は黙って聞いていた。

「荻野様をご存じで」

役人は苦笑いしながら言った。

「よう知っておるよ、今でも思い出す。荻野は和記の旧名じゃ、和記には男児がいなかったので荻野から養子にいったのじゃ。それにしても面妖で怪奇なことじゃ。

そなたの言葉が嘘でないことは分かる。これは和記の仇討ちじゃろうの。

今になってのう、骨が地の上にあるうちに仇を取りたかったのかの。

しかし厄介じゃなこれは。このような話しなぞ誰も信じまい」


役人は重ねて百海に尋ねた。

「黒岩は家老の他に誰かの名前か何か言うたか」

「いえ何も耳にしてはおりませぬ」

「左様か、ならばよい」

百海はそれ以上を聞いているはずだと役人は思っている様子だが、それ以上は何も訊かなかった。


黒岩が荷車に乗せられて蓆がかけられた。

身体は震え、眼は相変わらず宙を彷徨い、血は止まったが口からは泡を吹き始めた。

泡にときたま血が混じる。


役人が医師を見ると、医師は首を横に振り、右手の人差し指で頭のあたりでくるくると回した。

百海も一念も村の者もみな分かった。

黒岩は狂った。


役人が言った。

「こやつ、家老の跡目を狙って娘を手にしたものの最後は狂うたか。愚か者め」

すると医師が言った。

「そなたも息子を婿にと狙っておったろう」

役人が言い返した。

「貴様も息子をと狙っておったではないか、わしが知らぬと思うたか」

二人は外聞もなく声をそろえて大声で笑った。


(なんじゃこれは、和記殿はどこじゃ、知らぬ顔か、ああ、せんないことじゃ)

百海はあきれながら役人に尋ねた。

「して黒岩殿はこの先どうなるので」

「頭が壊れておるでの、医師にも治せぬし、下手人が怨霊ではどうしようもない。おそらくご家老に縁を切られ、実家で死ぬまで座敷牢か、無理やり切腹じゃろう」

陽が傾くころ役人たちは黒岩を荷車に乗せて屋敷に帰っていった。


             その日の夜

 

本堂の賽銭箱を始末していた一念が巾着を持ってきた。

「和尚様、賽銭箱の上にこのようなものが」

見ると巾着の中に小判混じりで大層な銭が入っている。

中に見事な達筆で書き付けがあり、こうあった。


「禅林寺殿 昨日は布施を葉で代用して申し訳なかった。この巾着は黒岩のものでござる。黒岩の懐を当てにしておったが、やはり持っておった。そちらの賽銭箱にいれておくので布施にしていただきたい。巾着はすぐに燃やしてくれ。


もう一つ、やり残しをすませねばならぬ。

その後は墓地住まいじゃ。墓地はよい。

隣り合う者たちも静かで、騙しも姦計も無い。

何よりも静かで墓地の住人ほど良き隣人はおらぬ。

百海殿と一念殿の良き日々が続くことを願っておる。

世話にあいなった、礼を言う。   

                            和記弥一郎」



               後日談

             

 無縁堂の屋根瓦が新しくなっている。

「屋根を梅雨前に葺き替えてもろうて助かりました」

百海の声が響く。


職人と後片付けをしている瓦屋が百海に世間話をするように言った。

「しばらく前にここで騒動を起こした侍のお家の殿様じゃが、騒ぎの翌日に江戸城の詰めの間で気が狂うて騒ぎになったそうです。家臣があわてて殿様のお世継ぎを決めて幕府にお伺いを出したものの、家老とその娘も狂うており、当地では奇妙な病が流行っておると幕府に断じられ、お家は取りつぶしになるようです」


「さようか、流行り病か、お武家も大変じゃな」

と言いながら思った。

(家老の上がおったのか、やり残しとはそのことだったのじゃな)

そばで一念が空を見上げると一滴二滴、落ちてきた。

梅雨の始まりか。



















































「ここの住み心地はどうじゃ、おどろかせておいて住み心地もあるまいが」

「人家もまばらで安気でございます。何よりも裏手が墓地でこれほど安心できる隣人はおりませぬ。静かで平和でござります。ま、今日はちと違いましたが」

ハハハ、そうじゃのと斎藤は笑いながら宴鬼を見た。

笑うとまた一層不気味な顔になった。



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よき隣人 妻高 あきひと @kuromame2010

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