超人ニーチェと神の死んだ世界
亞泉真泉(あいすみません)
第2話 影はいかなる時も、惨めにそして執拗に光を追い続ける
前回までのあらすじ
1960年、プロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン(現在のドイツ連邦共和国ザクセン=アンハルト州)で暮らすフリードリヒ・ニーチェは妹の誕生日を祝おうとしたところを謎の怪人たちに襲われた。
ニーチェの妹、エリーザベトは怪人により意識を失う。
妹を助けようと応戦するも、絶体絶命のニーチェ兄妹。
あわやというところで光り輝くきらびやかな服装をした美青年が現れ、怪人たちを凄まじい技で倒した。
そしてその男はこう名乗った。
「この私はリスト。超絶技巧、超人フランツ・リストだ」
☆
フリードリッヒ・ニーチェは、フランツ・リストを名乗る男性を
恐ろしく長身で端正な顔立ち、そして見たこともないほど大きな手。
ピアノを嗜んでいるニーチェにとって、リストのコンソレーションは毎日のように弾いている楽曲だ。
この時代において、最高の音楽家であることは間違いない。
そのフランツ・リストがなぜ?
フランツ・リストは40代、おそらく50歳近いはずだが、その姿は青年のように溌剌としている。
そしてなにより服装がやや古く、レースや刺繍がふんだんに施されたロココ調。
色合いも歌劇の道化役のように狂ったものだった。
もし彼が本物のフランツ・リストだとしたらとんでもないことである。
このような片田舎に単身で、しかも演奏をするわけでもなく怪人を倒しに来るだなんて考えられない。
しかし彼を本物のフランツ・リストだと信じたい気持ちは深まっていく。
黙っていてもそこから溢れ出る雰囲気が常人のものではないからだ。
彼は、世界を股にかけ王侯貴族や社交界の間でももてはやされた天才音楽家ならではの庶民とはまったく違う佇まいを帯びていた。
リストは辺りを見回して言った。
「港はこっちか?」
「港? 海ですか? 全然違いますが」
「少し迷ったか。それもよかろう」
迷うも何も、海からは見当違いに離れた場所だ。
村の中には海を一度も見たことのない者もいる。
しかしこれは天の采配か。
フリードリッヒ・ニーチェもまた、自らを凡百の庶民であるとは思ってはいなかった。
今はまだ誰にも知られてはいないが、鋭い洞察力、深い思考力、そして飛び抜けた行動力、それはリストと同様に天才と冠されてもおかしくはないと自負している。
つまらぬ片田舎で無名のまま埋もれていくことはないと思ってはいたが、ようやくこの機会がやってきた。
自分の将来は音楽家か文学者かと迷っていたが、これがニーチェが世界に羽ばたく契機となるかも知れない。
あのフランツ・リストと肩を並べる巨人になる瞬間が今なのだ。
ニーチェの名が百年後にはリストよりも有名になっていてもおかしくはない。
ただ、どうしても
興奮を抑え、憧れなどおくびにも出さず、対等な立場の人間であることを自らの心に言い聞かせる。
「リストさん。この異常な怪人は何者ですか?」
「この者どもは畜群と呼ばれるもの。ある人物に操られている怪人だ」
「ある人物というのは一体何者なんですか?」
リストは一瞬だけ目を細める。
彼の放つ綺羅びやかな光が収まり、あのとんでもない色合いの服ではなくなっていた。
だたし、Vゾーンの大きく開いたベストに装飾過多なクラヴァットと、かなり豪奢で洒落者であることを伺わせる装いだ。
「キミは?」
「フリードリヒ・ニーチェと申します。襲われたエリーザベトの兄です」
「フリードリヒ……。フリッツか。ここにあるピアノは誰のものだ?」
「ボクのです」
「音楽の徒か。突然このフランツ・リストが現れてさぞ動転してるのだろうな。時にそういう者もいる。なに、緊張しなくていい。この私を崇拝しておかしな言動を取る者にも慣れている」
ニーチェはリストに心の内を読まれたようで焦ったが、それを悟らないように眉間に力を込めて平静に尋ねる。
「ある人物とは誰なんですか?」
リストは口の両端を持ち上げてゆっくりと頷く。
「どうだ? ひとつこのフランツ・リストのために弾いてみてくれないか?」
リストは問いには答えずに大仰に両手を広げてニーチェを伺った。
ここで逡巡してはいけない。
ニーチェは表情を固定したままピアノの前に座る。
心臓が早鐘を打つが、それを悟られる前に奥歯を食いしばりピアノを奏でた。
もちろん日頃から弾いているコンソレーションだ。
緊張の中で弾ききったコンソレーションは、我ながら及第点を与えられる出来栄えだった。
リストは目を瞑って頷く。
「まさにこの私のコンソレーションだな。この曲の素晴らしさをよく理解している。フリッツ、さてはキミはこの私の大ファンだな? 特別にフランツと呼んでも構わないぞ」
内心ニーチェはリストの言葉に踊りだしそうだった。
しかし、ここで隙を見せるわけにはいかない。
あくまでリストとは対等でありたい。
ニーチェはまったくリストのことなど気にもかけない風をよそおい話をすすめる。
「謎の人物とは何者なのですか? リストさん」
リストは真顔になり、咳払いをひとつして語り始めた。
「畜群を生み出しているのはルサンチマンという人物だ。何者であるのか、男なのか女なのか、年齢も国もわからない。畜群が厄介なのは病を媒介していくのだ。畜群と触れ合った者の中で運の悪い者は、死人のように気力がなくなりやがて命を落とす。畜群どもは絶望を振りまき世界を暗くしていく。そして最も忌むべき行為は若い女性を攫っていくことだ」
そう言ってリストは倒れた畜群の懐からガラス板を取り出す。
そのガラス板には、畜群の写し絵が描かれていた。
「微細な絵ですね」
「見たことないかね? 写真というものだ。ルサンチマンはこれで畜群を生み出す。そしてその畜群を倒すためには、超人にならねばならない。それよりフリッツ、先程のコンソレーションだが、少し指導をしてあげようか?」
「結構です、リストさん。それより超人というのは……」
「なるほど。キミが自分に自信がなくて、この私の指導など恐れ多いと感じてしまうのはわかる。しかし遠慮をすることはない。確かにこのリストの指導を受けたいという者は世界中にいるが、そんなことは気にしなくていい。特別にフランツと呼ぶことを許そう」
「超人というのは何なのですか? リストさん」
リストは一瞬目を見開いてニーチェを見た。
しかしすぐに真顔に戻ると話を続けた。
「超人というのは、人を超えた存在。ルサンチマンや畜群と戦う力を持った者。この世にはそういう者がいるのだ。この私のように」
この畜群に再びエリーザベトが襲われたら、手の打ちようがない。
ニーチェの知らない間に世界がそんな状況に陥っていたとは。
「いったいどうやったら超人になれるんですか?」
「この私は天才なので考える前にできてしまった。恐らく創造性を持って、高潔な魂と、超絶なる技術、そしてなによりもそれらを持ちつつも更に高みを目指す精神などがあれば、自ずとなれるものだろう」
「具体的には?」
「具体的と言われても困るな。天才ならなれる。天才でなければ恐らく無理であろう」
「どうやったらなるのかわからないんですか?」
「このリストにわからないことなどない! キミのためにあえて具体的なことを言わずにいておいてあげているのだ」
リストがそう言ったとき、妹エリーザベトがむせながら悶え転がった。
「エリーザベト! 大丈夫か?」
「いけない。畜群の病に罹ったかも知れん」
「どうすれば?」
「ルサンチマンを倒すしか妹さんを苦しみから開放する手はない。なに、すぐに命に関わるということはないからそう悲観するな。この私が近いうちにルサンチマンを打ち倒してみせよう。大活躍を祈ってくれたまえ。ではさらばだ、フリッツ! 海はこっちだな」
ニーチェは踵を返すリストのフロックコートの裾を掴んだ。
リストは振り返りニーチェの目を見つめた。
「どうした、フリッツ。まだなにか?」
「海はこっちです」
「そうか。共についてくるとでも言うのかと思ったが、天才でもない限り過酷な旅となるだろうからそれは無理か」
「ボクは道がわかります。あと、天才……かも知れませんよ」
リストは破顔すると答えた。
「それもよかろう」
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