2019.11.2
真っ暗な中、クラウスは溺れそうになりながら無我夢中で泳ぎ続けていた。プールは好き、海も好き。でも、真っ暗は嫌い。先の見えない、自分がどこにいるのか、立っているのか、動いているのかすらわからない、そんな暗闇は嫌い。怖い。怖い怖い。怖いと痛いは嫌だ。クラはいまどこにいるの。
『──のみんなは、この冬は何か予定あるのかな?』
『はい!クリスマスにサプライズでプレゼントをしたいなって』
『リーダー、それサプライズになってないよ』
『あ……』
『はは、じゃあクリスマスステージに出るんだね!これは楽しみだ!クラウスくんはハーフだし、今までクリスマスって特別なことしてきたのかな?』
『え』
『たしか、お父さんがドイツだっけ? ドイツのクリスマスってどういう感じなんだろう?』
『ク、クラ……』
『クラ?』
『クラ、わかんない』
『え? クラウスくんってそういうキャラだっけ?』
『あっ、えっと──』
「クラ!」
母の呼ぶ声で飛び起きた。
「あれ……クラ……」
見知った部屋だ。よくわからない生き物のぬいぐるみが散りばめられた、自分の部屋。レッスン室じゃない。安堵に、眉が寄せられる。
「大丈夫? うなされてたよ」
「ママ……」
着物をしっかりと着込んだ母は、クラウスの前に膝をつき、その手をそっと握り締めた。
「……クラ。アイドル、辞める?」
「な、なんで」
「ママが知らないと思う? 最近のクラ、全然楽しそうじゃないよ」
「うっ……」
思い出しては、涙が滲む。先日の収録はさんざんだった。うっかり出てしまった一人称、言葉。終わってからトレーナーに雷を落とされ、ユニットのイメージに合わないからと企画も降板させられた。クラウス自身を誰も求めてやいなかった。
「ママ、クラ……クラ……」
「だいじょうぶ。ね、クラ。クラが楽しいことをしよう? クラが嬉しいことをしよう? クラが笑ってないと、ママもパパも苦しいな」
「ママぁ……」
零れる涙が止まらない。あんなに楽しかったのに、ワクワクしていたのに、今はもう怖いとしか思えない。自分が喋るのも、みんなに拒絶されるのも。嗚咽を上げて泣き出す我が子を抱きしめ、母は背中を撫でた。
「クラ、よく頑張ったね」
「クラ……アイドル、すきなのに。ママがすきなアイドル、だいすきなのに」
「うん」
「アイドル、……こわく、なっちゃったぁ……」
「うん、よく言えました」
しゃくり上げた声を、ひっくり返る声を怒る人はここにはいない。母にしがみつき、クラウスは顔中を涙で濡らした。
「クラ、パパのお寿司食べよう? 美味しいもの食べて、これからまたクラの好きなもの探そう? ね?」
「うん、うん……」
グズグズの顔を母の着物で拭いて、鳴り始めるお腹にふたりで笑った。
休日の昼前はまだ店も混んでいない。まばらに座る人を避け、クラウスは奥の座敷に上がり込んだ。
「ママもここで食べよっかな」
「おみせは?」
「まだひと少ないから大丈夫!」
母は隣の建物できもの屋を営んでいる。時折寿司屋に顔を出しては、配膳の手伝いをしている。それはクラウスも同じだ。たすき掛けした袖を捲り、母はメニューを手にルンルンと身を乗り出す。マグロ、サーモン、カキ、ズワイガニ。
「どうせならカニ行っちゃいましょっか!」
「クラ、イカもたべたい!」
「よおし、決まり! パパー!」
母がカウンターに駆けていくのを見届け、クラウスはぐっと両足を伸ばした。両親が切り盛りをするこの寿司屋は、ドイツ人の父が寿司を握る。最初は外人寿司職人だとはやし立てられていたが、今では常連も多く、人種の違いを気にする客はいない。ハーフだなんだと、言われることも日常ではそうそうないのだ。と、奥から父の「あいよー!」という声が響いた。滑らかに活きの良い、元気な声だ。
「ふふ、ねえクラ。あそこのお客さんもイカを注文したんですって。しかも塩辛」
「しおから?」
「お酒のおつまみでよく出るのよ。でもあの子、高校生じゃないかな」
座敷から覗き込めば、色黒の少年がカウンターで塩辛をかき込んでいた。隣に座る父親だろうか、男に呆れられながら。
「お前……寿司屋来て塩辛食うやつがあるか」
「おとんこそ、昼間から寿司とかなに、宝くじでも当たった?」
「日頃からいいもん食っとかないと、お前がアイドルとしてデカくなったとき困るだろ」
「ゲホッ、おれ、まだユニットもないし、事務所すら決まってないのに!」
「お前言ってたじゃないか、めっせ? の鷺なんたらが同じ学校にいたって。入れてもらえばいいじゃんか」
「バッカ! メッセは有名なんだぞ! あの三人でメッセだっつの!」
「親に向かってバカとはなんだ!」
「アッツ! 茶! お茶かかる!」
「大将! こいつにサビたっぷりで!」
「あっ、このクソ親父……!」
ずいぶん賑やかな親子だ。思わず顔が綻ぶのを感じて、クラは母に向き直った。
「ママ! あのこ、あのこもアイドルだって!」
「ふふ」
「クラ、あのことあそびたい!」
「うん、行ってらっしゃい」
「うん!」
ドタドタと走り出すクラウスを見送り、母は溢れ出す笑みを止められないでいた。
「どわああああああ!? な、なんだああああ!?」
ドシン、響く尻もち、宙を舞う塩辛。
無邪気に笑うクラウスの声に、寿司屋は笑顔で包まれる。天真爛漫、それが彼の一番の魅力。このことに気づく誰かはもうすぐそばにいるだろう。
彼らがハヤブサを名乗るようになるのは、そう遠くない未来のお話。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます