第6話 ふつうのひとの騙し方
「あやめ、皆に名前で呼ばれるような子になりなさい」
とうさま、私にはそれは随分と難しいことです。人と仲良くなるのが怖いのです。
「周りの皆がお前を名前で呼んでくれれば、お前を護ってくれる場所になるからね」
かあさま、ごめんなさい。いつ鬼に囚われるかも分からない私にとって、多くの友人と共に過ごすことはとても怖いことです。
「「血に負けそうな時は、皆に引き戻してもらうんだよ」」
とうさま、かあさま、私……
「あやめ! 正気に戻って!!!」
ばづん!
久しぶりに電源が入った電化製品みたいな音がして、私は一気に現実に引き戻された。目に見える景色が一変している。状況が、よくわからない。
相変わらず飢えている。
とてもひどく乾いている。
でも大丈夫、目の前のアレから漂ういい匂い。
これさえ飲み干してしまえばきっと潤う。
くらくらする頭でぐるぐると考える。
このとても芳しい匂いは、
(そうだ、御薬袋さんだ! あの人に
「あやめ さん! いま、戻ってきてるよね?! あやめ さん、返事して!」
私、どうしたんだろう。あの人に
「御薬袋さん、私、いったい……」
「そう、御薬袋、あたしだよ! 戻ってきたね、あやめ!」
私の肩を揺すりながら何度も名前を呼んでくれる御薬袋さん。御薬袋さんが私の名前を呼んでくれる度に引き戻されるけど、血を求める私の
「ごめんなさい、私、まだ全然、元通りじゃない。
今でもあなたの血、欲しくてほしくてたまらない」
彼女が息を飲み込む音が聞こえる。当然だと思う。彼女を害するかも知れない、私はそういったのだから。動悸で胸が苦しくて屋上の床に蹲ってしまう。自分の影に閉じこもる。彼女には、はやく、立ち去ってほしかった。
「あやめさん、そんなに苦しいんだね。私に出来ること、ある?」
「はやく、どこか安全なところへ逃げて、お願い。
もう分かったでしょ? 私、吸血鬼なのよ?
あなたの血を啜りたがってる鬼なのよ?」
のん気な彼女にいらいらする。いっそ、もう本当にこの衝動に身を任せて楽になってしまいたくなる。彼女の血のために人間をやめてしまおう、そう思えてくる。それほどの芳しい香りを漂わせてること、彼女はきっと知らないんだろう。本当にいらいらする。
「ちがうよ、あやめ さん。キミは鬼なんかじゃない。あたしの一番新しいお友達」
私はうずくまる身体を彼女に助け起こされる。山の端に隠れた太陽が放つ最後の残照に照らされた御薬袋さんの顔はひどく優しげだった。
「うそよ、私にはそんな資格なんてない。あなたを傷つけてしまったもの」
御薬袋さんの目元には涙の跡が見える。記憶は定かではないけど、彼女に涙を流させたのは絶対に私だ。彼女の側にそんな私がいられるはずもない。
「嘘じゃないよ。だいたい、お友達になろうってキミから言ってくれたのに」
ひどいよ、と拗ねる御薬袋さん。彼女の手にはどこから取り出したのか安全ピンが握られていた。
「いい? よく聞いて。これからやることは、お手当だからね。
普通の人が、普通の人のためにする、普通の行動なんだからね」
やたらと”普通”を強調する御薬袋さん。飢えに苛まれてくらくらする私の頭に、それはするりと滑り込んでくる。
御薬袋さんの手にした安全ピン、彼女の人差指の先に当てられる。
そして、その柔らかな指の腹に深く潜り込んだ
「御薬袋さん、何を?!」
今までとは比べ物にもならない、芳醇な香り。それを一息胸に満たしただけで、ぞくぞくと体が震える。私が欲しかったものは、やっぱりこれだったんだ、そう身体がわからされてしまう。
「血、血が…… あぁあっ、血がっ!」
目の前に差し出された彼女の人差し指、その腹から、じわりと朱い珠が
浮き出てくる。どんどんと大きくなるそれから目が、離せない。
「あいたた、あやめさん、あたし、怪我しちゃった」
彼女はおどけた様子で私の前に指を突きつけてくる。芳醇な血の香り、甘く揺蕩う匂いを強烈に放つ指先。瞬き一つできなくなった目が乾く。ごくりと、喉が勝手に鳴る。
「だめ、御薬袋さんダメよ。そんなもの、近づけないで!」
うそだ、欲しいに決まってる。あの指先にむしゃぶりつきたい。血が止まるまでずっとしゃぶっていたい。乾きが満たされる期待で身体が歓喜に震えている。でもそれを満たしたら今までの私が無くなってしまう。
「あやめ、さっきも言ったよね?
これはお手当だから、普通の人が当たり前にすることだよ」
子供をあやすような御薬袋さんと、子供のように駄々をこねる私。
「だって怖いの! 恐ろしいの!
それを飲んでしまったら私、
もう元の自分ではいられなくなってしまう!」
私は血なんて欲しくない、そう彼女に訴える。でも、耐え難い乾きにさらされた身体が、アレがほしいって駄々をこねてる。本当は欲しくてたまらないのに、だけど受け入れられない。自分の中の矛盾を自分で解決できない。
ぱたり……
差し出された指先で朱い珠が崩れて床に落ちる。それはコンクリートの染みになった。珠が落ちるのがスローモーションのコマ送りみたいにはっきり見えた。
もったいない。そう思ってしまった。
涙が、出てくる。彼女がどんなに大丈夫と言ってくれても、私は鬼なのだ。じわりと広がる昏い影に取り込まれてゆく私の心を、諭すような彼女のささやきが引き戻してくれる。
「鬼じゃない普通の高校生のあやめが、血なんか飲むわけないもの。
ふつうの人がするように、怪我をした友達の傷をちょっと舐めて綺麗にするだけ」
「お手当なら、いいの? それ、本当に舐めていいの?」
騙されてる。私は彼女に唆されようとしてる。唆されて身体を苛む飢えから逃れようとしている。こんなのは言い換えだ。子供だましの手口だ。それでも、それが分かっているからこそ、期待を込めて聞き返してしまう。
御薬袋さんのくるくると良く表情の変わる瞳を見つめる。
そこに浮かんでるのは、恐れでも嫌悪でもない、ちょっと悪戯っぽい色
言葉にしてもらわなくても、答えがわかってしまう
私の舌先がおずおずと震えながら差し出されていく
「あやめ、私の指、綺麗にしてくれないかな?」
精一杯差し伸べた物欲しげな舌先に、指先から溢れる朱い珠が一粒堕ちた。
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