第4話 往き遭うふたり
ようやく血が止まった口元から私はハンカチを離した。間違っても血が目に触れないように、汚れた面を内側に折りたたんで丁寧に鞄にしまい込む。思い切りひっぱたかれた頬の熱もすっかり冷めた。もうそろそろ人に見られても問題ない頃合いだろう。
やっと家に帰れる。私がほっと一息ついたときだった。
ダンッ! バンッ!
唐突に響く大きな音。その音に視線を一気に持っていかれてしまった。たてつけの悪い屋上の扉が勢いよく開かれている。せっかく朱に染まる周囲を見ないように、床に映る自分の影法師だけを見ていたというのに。私の目は捉えてしまった。
ああ、これはダメ。なんてことだろう。
竹の箒を抱えて、のそのそと歩いてくる女生徒が一人。
残照がその全身を赤黒く染め上げてしまっている。
こんな素敵な黄昏時に、
他の誰の目もないところで、
血の色に染め上げられた女の子なんて、
目の毒以外の何物でもない。
体の奥底から湧き上がってくる、耐え難い
(でてこないで、ひっこんでいて。鬼の力なんて、必要ないんだから)
口元を抑えて、お腹の底からせり上がってくる欲望を、必死に飲み下す。いつもの様にこうやって黒い世界に閉じこもっていればやり過ごせるはず。けれど本当にそうだろうか? のん気に近づいてくるあの女生徒の姿が脳裏から離れない。理不尽なほどにあの女生徒に惹かれ、かつてない
(視ては、いけない)
気持ち短めのスカートから覗く健康的な両脚が紅赤に照らされていた。あの柔らかそうな太ももの下にはどんな瑞々しい色が隠れているのだろう。それを想像して、私の体は熱を帯びてしまう。体温が上がってくるのがわかる。
(あれを、視ては、いけない)
冬服の長い袖からちょこんとはみ出た細い手首と小さな手、それが茜に染まっていた。袖口から覗く筋張った肉からはどんな鮮やかな色が吹き出すのだろう。それを想像する私の息は、忙しげになっていく。はぁはぁと上気した自分の呼吸が耳障りだ。
(あれを、そんな風に、視ては、いけない)
セーラーの襟元から覗く首筋が深紅で濡れていた。あのむき出しのうなじ、あの柔らかそうな肉はどんな感触だろう? その食感を妄想する私の唇から、あとから溢れてくる唾液がこぼれそう。それを飲み下す音が思ったよりも響いてしまう。あの子に聞こえていないか心配だ。
(あれを、そんな風に、
そして何より私に気づかず童謡を口ずさむ愛嬌のある顔。あれはクラスメイトの
密かに親近感を覚えていたはずのクラスメイトですら、今の私は美味しそうな血袋だとしか感じられない。ああ、あの子の血を吸い尽す時、あの子はどんな顔でを見せてくれるのだろう。どんな声を聞かせてくれるのだろう。それを想像するだけで、お腹の奥が戦慄いてしまう。背筋をぞくぞくと震えが駆け上る。
血を、吸いたい。
彼女の血を、味わいたい。
あの白い首筋にかぶりついて、滴る鮮血を舐め啜りたい。
鬼頭の一族は鬼の血を引く一族だ。
かつては並外れた力を示したというその血も
今ではすっかり薄まってしまった。
けれどもこれだけはしっかり残った吸血衝動。
それが今、私を苦しめている血の宿痾だった。
返りたかった。こんな渇きを知らなかった子供の頃に。
帰りたかった。黄昏時を恐れずに無邪気に駆け回れた子供の頃に。
還りたかった。血を連想する全てを怖れなかった子供の頃に。
だからなのだろう。
いつの間にか私は、彼女が謳う童謡を一緒になって謡っていた。
「よあけのばんに」
あの子に牙を突き立てたならきっと芳醇で甘露な味わいを得ることが出来るに違いない。そんな予感が私の中にあった。彼女が一歩一歩近づいてくる度にそれは確信に変わっていく。なんの根拠もないというのに、それがわかってしまう。だめだ、こんな本能に身を任せてはいけない。それなのに、あの子の首筋に牙を突き立てる感触を想像するだけで、体が火照り昂ぶってしまう。
「つるとかめが すべった」
私は人だ。
人は人を喰ったりはしない。
人であるからには、あの子を喰らってはいけない。
そう願って、そう言い聞かせて、
この何の代償もない宿痾と、今まで闘ってきたというのに。
なんでこんなに、あなたに惹かれてしまうの?!
どうしてこんなに、貴方の血で乾きを満たしたいと思ってしまうの?!
あぁ、一つとして分からないのに、一つだけ判ってしまう事がある。
鬼頭 あやめ は 御薬袋 透子 を欲している
「うしろの しょうめん 」
「
彼女のくりっとした可愛らしい瞳が、私の欲望に濁った瞳を真っ直ぐに見ていた。
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