空飛ぶ生き物

古川

1


 世界が沈むと知った時、少女は、それなら夢を語ってしまうのにちょうどいいと思った。


 行ってみたい場所がある、と言ってみた。それから、丘の方を指さした。

 少年は、少女のそれを聞くと嬉しそうに笑った。それから少女の腕を掴んで立たせると、いいよ行こう、と言った。


 少女は歩行器の助けなしには歩くことができなかった。生まれた時からのその不自由は、彼女にとってはすっかり馴染んだ不便さであったが、時々その重さに引きずられるような気持ちになることがあった。

 でもそれも、少年と特別に仲良くなった日から変わった。役立たずな足を投げ出して道端で泣いていたその日、自転車で通りかかった彼が、歩行器の車輪部分に挟まった小石を木の枝で弾き出し、あっと言う間に修理してみせた。

 少女がお礼を言うよりも早く、差し出されたリンゴ。少年は得意げに笑うと、自分の分のリンゴを美味しそうに齧った。


 彼にかかれば、あらゆる重さはあっという間に無効となった。それは彼が風のように自由な心を持っていたからだったし、太陽のように何もかもを照らし出せる明るさを持っていたからだった。またそれ以上に力持ちでもあった彼は、彼女を軽々と抱え上げて自転車の荷台に乗せ、広い外へと連れ出すのだった。


 いろいろな所へ行った。繁った葉をかき分けた先に咲いていた、たくさんの花のにおいをかいで回ったり、流れ着いた木でできた入り江に座って、光る水面を手のひらで掬ったりした。

 少女にとって彼との冒険は、いつでもとびきり楽しかった。まるで自分まで走り回っているかのような、飛んで跳ねているような気持ちになった。

 願うよりも先に与えられるたくさんの希望に目がくらむ日々だった。連れられて辿り着く場所で、少年と笑いあって過ごせるだけで、少女の心はもう十分だと思うほどに満ち足りた。だから、心の中に小さく灯るその夢を口にするのはあまりにも欲張りなことに思えて、そっと奥の方にしまったままにしていた。

 でも、世界が沈むというのなら、最後にそれを口にしてみたいと思った。


 到着した丘の上、少女は少年の背中から降りた。そして遥か上の方、空の水色が濃くなる地点を指さして、あそこ、と言った。

 少年の驚いた顔を見た時、それがあんまりにも予想通りの顔だったので、少女は笑ってしまった。


 彼は数秒間考えた後、気球なら行ける、と言った。それから目を輝かせて、湧き上がってくる言葉に彼自身が急かされるように喋り出した。

 空気。熱。膨張。浮力。言いながら、地面に木で丸を描き、そこへ何本も線を走らせる。少女はそれを黙って聞いた。

 

 少年はいつも、たくさんのことを話して聞かせてくれた。水が世界を巡る順序、花が時間を計測する方法、風向きと季節の関係、光の中の色の数、月と太陽が辿る経路。不思議に規則的でありながら、驚くほどの奇跡に満ちているらしいこの世界を、彼はいつも目を輝かせて楽しそうに語った。わかったりわからなかったりしたけれど、少女はそれを聞くのがとても好きだった。


 地面の上に、いくつもの丸が描かれていく。内部を熱する炎と、ぶら下がる箱。風船の中身は熱い空気で満たされ、密度を手放す代わりに浮き上がる力を得て、空へのぼる。

 ぼんやりと仕組みを理解すると、少女にはそれが生き物のように見えた。燃焼する命を抱えてたっぷりと膨らむ、空飛ぶ生き物。


 少年は力強く言う。行けるよ、と。

 だから少女は思う。行けるんだ、と。


 その時、音が聞こえた。それはすぐに振動に変わる。それから、衝撃に変わる。

 跳ね上げられたのか突き落とされたのかわからない力が全身を打って声さえ上げ損ねる。

 沈むんだ、と少女は思った。

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