雪解け
重い足取りで日が沈んでいく景色を眺めながら小屋まで戻る。
ドアを開けた瞬間――聞き慣れた声が耳朶を打った。
「おかえり、遅かったじゃない」
「た、ただいま」
ミアの出迎えに、ユルグは彼女を直視出来ずに後ろ手でドアを閉めた。
「頼まれた物が見つからなくて。買えなかった物は後日、調達してくるよ」
「急ぎの物でもないし、後でも大丈夫だからね」
それよりもこっち、とミアはユルグの手を取ると両手で包み込んだ。
「なんで手袋してないのよ。物凄く冷たいじゃない」
「……忘れてたんだ」
「ユルグはもう少し自分の身体、労った方が良いと思うなあ。身体は傷だらけだし、すーぐ怪我して帰ってくるし」
何の気無しの愚痴がぐさぐさと突き刺さる。
もみもみと冷え切った手を揉みながら、ミアは尚も続ける。
「待ってる私は気が気じゃないんだからね」
「……善処するよ」
「そうやって口だけなの、私知ってるんだから」
はああ、と盛大な溜息を吐くミアに苦笑を浮かべていると、手を包んでいた両手が離れていく。
「どう? 少しは暖かくなった?」
「……うん、そうだな」
「おかげで私は冷え冷えですよ!」
じゃれつくように両手で頬を挟まれる。もちろん、そんなことをされても温度は感じない。触られている感覚はあるが、それだけだ。
「……ううん。何か考え事でもしてる?」
冷たさに驚くでもなく無表情を貫いていると、そんなユルグを見てミアは眉を寄せた。心此処に在らず、とでも思われたのだろう。
全くの解釈違いなのだが……今はそれに合わせておこう。
「少し」
「ええ、なんだろ。待ってね……今考えてるから」
唸り声を上げるミアを余所に、ユルグは背負っていた背嚢を降ろしてテーブルに乗せる。
「今日の晩ご飯なんだろうな!」
「フィノじゃないんだから……それに、俺はそんなに食い意地は張ってない」
「美味しいって言って食べてくれるのはとっても健全だと思うけどなあ」
言われてみれば、フィノは飯を食うと必ずと言って良いほどに美味しいと言ってくれる。
それでも少し前に初まずいをもらってしまったわけだが……ミアにしてみれば、その一言はとても嬉しいことなんだろう。
「これ」
と言って、背嚢から取り出したのは街で買ってきた馴鹿肉のブロックだ。それを二つ分、テーブルの上に置くとミアは怪訝そうな顔をする。
「なんだか頼んだのよりも多いような気がするんだけど」
「おまけしてもらったんだ」
「なんだ。やっぱりご飯のことじゃない」
やれやれと溜息を吐くと、ミアは肉塊を攫って台所へと向かった。
けれどすぐに戻ってきてテーブルの椅子を引くとそこにユルグを座らせる。
「これ飲んで待っててね」
「ああ、ありがとう」
「火傷しないように!」
昨日と同じ忠告をしてミアは再び台所へと消えていく。
淹れてもらったお茶はいつものようにほかほかと湯気を上げている。しかし、器に触れても何も感じない。
口を付けて飲む。味覚もなければ温度も感じない。熱くても痛みも感じないのならば、美味かろうが不味かろうがただの液体である。
かろうじて匂いは感じるが……それにしたって侘しいものだ。
煌々と燃え盛る暖炉の火を見つめながらお茶を啜っていると、背中を冷や汗が伝った。
微かな寒気を感じた瞬間。再び湧き上がってくる吐き気に、奥歯を噛みしめて耐える。手に持っていたマグが力の抜けた手中から零れ落ちて、テーブルに染みを作っていく。けれどそれを気にしている余裕もない。
ゴン、と額を机上に打ち付けて必死に堪えていると、物音を聞きつけたミアが傍に寄ってくる気配がした。
「ど、どうしたの!?」
「……っ、なん、もない」
なんとか喉奥から声を絞り出す。今にも息絶えそうなユルグの有様にミアが何を思っているか。考えなくても分かってしまう。
……とにかく、この場から早く逃げなければ。
彼女の眼差しに晒されてユルグが一番に思ったことはそれだった。
けれど、腕にも足にも力が入らない。かろうじて軽く動かせる程度で、身体を支えて動ける状態にはないのだ。
そんな中、ふいに脳裏にマモンの言葉が思い起こされる。
――逃げるな、と彼は言った。逃げずに向き合え、と。
頭では分かっている。けれど、どうしても拒絶してしまうのだ。ミアに全てを打ち明けるのが、死ぬことよりも恐ろしい。
マモンの言葉を否定したのはそのためだ。ユルグが長く生きられないと知ったら、彼女はどんな顔をするのか。それを想像してしまうと何も言えなくなってしまう。
恐怖に足が竦んで、楽な方へと逃げることしか出来ないのだ。
だから、こんな醜態を晒している。
それでも無理に立ち上がろうとしたユルグを留めるように、背中をミアが優しく摩ってくれた。
それを黙って受け入れていると、直後聞こえた声に――
「やっぱり、どこか悪いの?」
ユルグは息苦しさも忘れて顔を上げていた。
「……しっていたのか」
今までミアには隠せていると思っていた。疑いをかけられないように誤魔化していたし、それらしい素振りも見せなかった。
実際彼女の態度には変わったところなど見られなかったのだ。
今のことだって、少し体調が悪いと言いくるめてしまえばなんとかなると思っていた。
けれど彼女が発した言葉を聞いて、それは無理であるのだと悟った。
「ううん……私は何も知らなかった。だってあなた、何も言ってくれないんだもの。でも、エルが今のユルグはどう考えてもおかしいって。だからちゃんと見守っていた方が良いって言ってたから、きっと何か隠してるんだろうなとは思ってた。でもユルグはそれを言いたがらないから、知られたくない事だろうと思って今まで聞かなかったんだけどね……こんなの見ちゃったらそうも言ってられないよ」
「はっ……そう、だよな」
次第に落ち着いてきたのを見計らって、ユルグは掠れ声で答える。
それを見てミアはユルグの傍へと椅子を引いてそれに座ると、まっすぐにこちらを見据えた。
「前あなたに、秘密にしていること、ぜんぶ話してって言ったよね」
「……うん」
「あの時と今は状況も違う。それでもまだ話せない?」
「……っ、聞いたらミアは絶対に悲しむ。だから」
「だから言えないって? どう感じるかは私が決めることでしょ」
「……それは」
正論を返されて、ユルグは言葉に詰まった。
俯くユルグに、ミアは手を伸ばして膝上で丸められた拳に触れる。
「どうしてそんなことを言うのか、分からない訳じゃないよ。でも……秘密にされる方が、私は悲しい」
「聞いたら絶対に後悔する」
「知らない方が後悔する」
頑なに、ミアは譲らなかった。
真剣に目を見つめて……その訴えに、ユルグはやっと決心をする。
「…………わかった。秘密にしていたこと、すべて話す」
うろうろと視線を彷徨わせた後、出した答えにミアは無言で頷いた。
パチパチと暖炉の炎が爆ぜる音が木霊する。
限りなく静寂に近い室内で、ユルグの声だけがやけに大きく響いた。
今まであったこと、すべて……勇者と魔王のこと。ユルグを取り巻く状況。
そして……長くは生きられないこと。
それをユルグの口から聞いた瞬間。ミアは触れていた拳を握りしめた。
暖炉の炎を見つめていたユルグの視線は、そっと隣に居るミアに移っていく。
どんな表情をしているのか。確かめなければと思ったのだ。
けれどユルグの予想と反して、ミアに動揺した素振りは見受けられなかった。
「……二年前かな。故郷に帰ってきたとき、ユルグ言ってたでしょう? いつ帰ってくるかも、生きて戻ってくるかも分からないって。私はそれを聞くまで、そんなこと一度も考えたことなかったの」
ミアは突然、昔話をし始めた。何を話したいのか。分からないまま、ユルグは耳を傾ける。
「でもそれが分かった瞬間、ものすごく怖くなった。別れたきりもう会えないこともあるんだって……だから、少しだけ覚悟はしてたんだ。もしかしたら私の知らないところで死んじゃうかもしれない。これが最後の会話になるかもしれないって。……無事に帰ってきてねって言って送り出すけど、頭の隅ではそんなことを考えてた。だから……だから、あなたがどこか知らない場所で死んで、帰って来なかったら。私はずっと後悔していたと思う」
彼女の内情の吐露は、ユルグにとって酷く新鮮なものだった。
心配をかけまいと努めて明るく振る舞っていたのは、ユルグだけではない。ミアも同じだったのだ。
「私に何が出来るわけじゃないけど、それでも目の前で死なれるよりもそれはもっと、ずっと辛いことなの。だから、私の我儘を押し付けることになるけど……長く生きられないなら、私に後悔させる生き方はしないで」
「な、……なんだよそれ」
ミアの告白に、ユルグは呆気に取られてしまった。
けれど……少しして気づいてしまう。
きっと彼女はユルグの願いを分かっていて、こんなことを言い出したのだ。
大事な事をわざと隠していたことも、突き放すような言動も。すべてミアを想ってのことだと、知っていたのだ。
だから、こんな……退路を塞いで逃げられないようなことを言う。
そして、こんなことを言われてしまったら。ユルグには最早為す術は無いのだ。
「……ミアは、それで幸せになれるのか?」
それがユルグの唯一の望みだ。意を決して尋ねると、彼女はきょとんと目を円くした。
「なに言ってるのよ。これからそうなるんじゃない」
「でも、俺はずっと傍には居られない」
「だから他に好きな人見つけて、幸せになって欲しいって? はあ……ユルグ、なんにも分かってないんだから。あなたが私から離れていったら独りになっちゃうでしょ。孤独なままじゃ、幸せになれないの!」
諭すように言って、ミアは椅子から立ち上がった。
そうして、向かい合うようにユルグの膝上に乗り上げる。腕を頭の後ろへ回して、至近距離から見つめる眼差しと目を合わせる。
「これからたくさん愛し合って、幸せになる。それじゃ不満なの?」
「不満は、ないけど」
「あなたは私の為に生きてくれるんでしょ? だったら、それで良いじゃない」
それに答える前に、柔らかな口付けがされる。食むようなそれに応じて舌を差し出すと絡め取られる。
満足したところで離れていった彼女の表情は、蕩けてしまいそうなほどに幸せそうに見えた。
そうして――愛してる、と彼女は言った。心の底から愛しげに、愛を囁くのだ。
それを見て、聞いて。嬉しくないわけがない。
言葉で答える代わりにこちらからキスをすると、ミアははにかんだ笑みをみせた。
気が済んだのか。やんわりと回していた腕を解くと、ユルグの手を取る。
「後悔しない生き方をするって言ったけど」
「うん」
「まずは子作りだよね」
「……え?」
聞こえた声に、一瞬耳を疑う。
……いま、子作りって言ったのか?
固まったままでいるユルグの腕を引いて、ミアは立ち上がるとそのまま引きずるように隣の部屋の寝室までまっすぐに向かっていく。
そうして、あれよあれよという間にユルグはベッドに腰掛けていた。
目の前には立ち尽くしてこちらを見据える幼馴染みの姿。
「ま、まって……まってくれ!」
「なによ」
「幾ら何でも急すぎるだろ! こ、こういうことはもっと手順を踏んで」
「そんなことしてたら、子供の顔見る前にあなた死んじゃうじゃない」
「……いや、流石にそれは」
「無いとも言い切れないでしょ? 昨日だって何もなかったし」
溜息交じりのミアの発言にユルグは顔を赤らめた。
「や……っ、やっぱり分かってたんじゃないか!」
「当たり前よ! ユルグよりは鈍くないですぅ!」
不機嫌そうな顔をして反論すると、彼女は一歩踏み出した。
「大丈夫。格好悪くても笑わないから」
そう言って、のし掛かるように押し倒すと意地の悪い笑みを浮かべる。
「もっと自分の身体を大切にした方がいい!」
「それ、ユルグだけには言われたくないなあ」
「うっ……」
「それで、やるの? やらないの?」
目を見つめて真剣に尋ねてくる。
それに最早腹を括るしかないと悟ったユルグは、無言で頷くのだった。
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