第2話 春夏秋冬

みゃお。




 かすれたような鳴き声が、津軽春夏[(つがるはるな)の胸元からこぼれる。




「ハル姉……また、拾ってきたのか」


 閔莝はうんざりしたような、顔をした。




「まだ生まれたばかり。雨の中母猫を探したんだけど、見つからなくてね。みて、ぶるぶる震えてる」




 春夏が抱える毛布の先から、子猫の顔が覗く、雨に濡れたのか、毛先が湿っている。今回抱き抱えてきた子猫は真っ白だった。オッドアイというのか、右目がブルーで左目がグリーンだ。




「みんちゃん、悪いんだけど、スキムミルクをスポイトに入れてちょうだい」


「はいはい、わかったよ」




 閔莝はリビングから春夏の部屋に入り、部屋の隅にある猫砂やキャットフードなどが小さくまとめられた棚からスキムミルクのパックを取り、キッチンに移動した。 


 コップに粉を入れ水道水に混ぜる。そこからスポイトでスキムミルクを吸い出し、それを春夏に渡す。




「ありがと」




 春夏は子猫を抱き抱えたまで、子猫にスポイトを近づけた。


 子猫はぴちゃぴちゃと小さな舌を出して、ミルクを舐める。




「今回はいつまでここに置いておくの?」


「うーん、この子、まだ生後2ヶ月経ってる感じもしないし、しばらくうちでみてから、シェルターに預けようと思う」




 シェルターとは、春夏がボランティアで参加している保護猫を育てて里親を探す、NPO法人「キャットシェルター」のことだ。




 春夏は獣医大学に通う大学生で将来獣医を目指しているが、課外活動で里親探し施設のボランティアをしている。




 野良猫や捨て猫なんて、日本全国に五万といるし、次々拾ってきてもきりがないのだけれど、春夏は「目の前の命は数字じゃない」とかなんとか言って、ことあるごとに猫を拾ってくる。




 最終的にはどの猫もシェルターに預けるから、うちが猫だらけになることはないのだけれど。




 春夏の部屋には保護猫のためのミルクやキャットフード、猫砂などが常備されている。その量は結構なもので、まるでちょっとしたペットショップだ。




「この子、なかなかの美少年だよ」




 可愛い顔してるけど、オスなのか、と閔莝は思った。






 あのときの白猫が来てから1ヶ月もたたないうちに、春夏は白猫を育てられなくなった。


 それだけじゃない。


 父さんも母さんも死んだ。




 この白猫が来てからの1ヶ月は津軽家にとっては激動と言ってもいい日々で、閔莝はこの猫が化け猫であるかのよう思えて憎んだことさえあった。




 しかし、猫に罪はない。




 すべては猫に名前もつけるまもなく起こってしまったが、その後、この白猫の名前は閔莝がつけた。




 名前は、アキト。


 秋冬と書いて、アキトだ。




 姉のハルナが春夏、だから、残されたこいつは、秋冬でアキトと名づけた。毛並みも雪のようで、これもアキトらしいと思った。




 アキトは結局、シェルターに預けることもなく、そこまま閔莝が今も育てている。






■■■






 このドアの前に立つと、いつもアキトの顔を思い出す。アキトとは毎日顔を合わせているのに、おかしな感じだ。




 ドアの前で目を閉じて深呼吸。




 元気にドアを開ける。




「ハル姉、来たぞー」


 閔莝は、ベットに横たわる春夏に陽気に声をかけた。




「また物理で赤点取っちゃったよお。今度の追試だめだったら留年するかもだってさあ」




 何も応えない春夏に続ける。




「でも学校と仕事の両立は大変なんだよ。俺は国家公務員だろ。高校生が国家公務員になるのもいろいろ大変なんだよ。わかるだろ? ハル姉、ハル姉……」




 春夏のそばまで歩み寄った閔莝は春菜の肩に右手を添える。




 しばらく沈黙したのち、閔莝はまた笑顔を作り直して、左手で布団を端を取った。




「布団ずれてるよ。もう寒くなってきてるんだからさ。ちゃんとかぶらないと風邪ひくよ。ハル姉は相変わらず、俺がいないと自分のことはなんもできないんだからなあ」




 両手で布団を取り、肩の上まで布団をあげた。




 春夏は目を閉じたまま仰向けに横たわったままである。




 布団に覆われた右手から伸びるチューブが点滴に繋がっている。


 もうずっと意識を失ったままがゆえに、栄養はここから取っているのだ。




 春夏が意識を失ってからもう一年以上たっていた。




 いまの春夏は遷延性意識障害、いわゆる植物人間とみなされているが、その原因は不明だといわれている。




 春夏の脳に壊死は損壊は見られず、入院当初は原因不明の昏睡状態とみなされていた。


 しかし、数ヶ月経っても意識が戻らず、生理的反応もなんら得られないことから、現時点では脳に損傷は確認できないものの、どこかにそれが生じている遷延性意識障害に準じる状態とされている。




 ただ、客観的な脳に障害がどこに見られないことから、遷延性意識障害専門の治療病院には転院されることはなく、最初に運ばれた国立病院の個室に入院したままである。




 一年以上もの間、個室で入院していれば、その入院費も相当なものとなるが、治療費はDefが負担してくれている。




 Defは警視庁警備局に属する非公式部隊であるから、いわば国が費用を持ってくれているようなものだ。




 国の費用ということで、春夏の治療は税金があてられているということだが、高校生の閔莝には、それがどのような手続きを経て可能となっているのかはよくわからない。




 ひとついえることは、春夏の唯一の親族である閔莝には病院からいっさいの請求はなく、学業と仕事(?)を両立する生活を送れているということだ。




 病院にも医師にも報告されてはいないが、閔莝は春夏の昏睡の原因がわかっている。




 春夏は邪徒の仕掛けた硬度超催眠に沈められているのだ。




 かつて、動画配信サイトを経由して閔莝と春夏は邪徒の硬度超催眠を浴びた。




 この催眠を受けた人間の反応は3つにわかれる。 




 ひとつは、秘めた悪意が増幅され、人間の心を失い獣に堕ちてしまうこと。




 もうひとつが、心に秘めた善意がそれに抵抗し、体に拒絶反応を起こすこと。




 最後が無反応。ただ、この場合は、そのときはなんの反応もなくても、後になんらかの悪影響が発生することがDefの調査によってわかっている。


 早ければ数日後、遅い場合は半年後に症状が起こる場合も確認されている。




 閔莝と春夏に生じたのが2番目の反応だった。




 閔莝は駆けつけたDefの技師による中和催眠により、意識を取り戻すことができたが、春夏に施術は間に合わなかった。




 後に、この拒絶反応は、死という最悪の結末につながるとが圧倒的に多いと聞かされたことから、命を失わなかったことだけは幸いだったが、その結果がいまの植物状態である。




 Defによれば、春夏の回復の可能性は限りなくゼロに近いという。




 春夏は現在、聴覚、視覚、意識、すべてが失われている状態である。




 催眠は言葉と意識が必須であり、催眠の言葉を受け取る聴覚、そしてその内容を認識する意識がなければ、催眠にかけることはできない。これは催眠を解く場合でも同じである。




 催眠は催眠をかけた催眠術師(Defでは、所属メンバーのこの術師たちを技士と呼ぶ)にしか解くことができないことも、催眠の大原則のひとつとされるが、催眠をかけるのと同様、解くことに対しても言葉と意識は必須である。




 また、催眠には軟度催眠と硬度催眠というものがあり、言葉の通り硬度催眠のほうが、その催眠の効果は強度で、硬度が高まれば高まるほど、その強度は高まることになる。




 春夏が邪徒にかけられた催眠は硬度催眠で、かつ、聴覚と意識が奪われた現在、その催眠はもはやかけた邪徒本人でさえ解くことはできない。




 これが春夏の意識回復の可能性がほぼない、と言われる理由である。




 一般に遷延性意識障害が脳の障害であるということはすでに述べたが、この場合でも回復する例はある。植物状態から回復し、その後のリハビリを治療などで、社会に復帰した例は少なくない。




 原因不明の昏睡状態にあった人が意識を回復した例もある。




 それが人間のもつ治癒力である。




 しかし、春夏の場合はその可能性も低い。




 それは、もともと健常な春夏の意識が、硬度催眠によって、強制的に抑えられてしまっているからだ。




 ただ、普通の催眠ならば、時の経過とともにその効果が薄れていくものだが、邪徒の使う催眠の効果は半永久的に途切れることはない。




 がゆえに、彼らの用いる催眠は超催眠と言われるのだ。




 もちろん、Defの技士たちの使う催眠も超催眠である。




 閔莝はDefはすでに春夏の回復をあきらめているだろうことは、感じている。




ーーーお姉さんのことは生涯心配しなくていいから。




 Defの管理官のひとりが閔莝に話した言葉を閔莝は忘れない。


 慰めのつもりだったのだろうが、閔莝にとっては死刑宣告にも近いような言葉だった。




 閔莝は春夏のベットそばのチェアーで30分ほど腰掛け、春夏にいつものように取り止めのない日常の話したあと、立ち上がり、




「ハル姉、早く帰ってこいよ。アキトも待ってんだからさ」




いつもと同じ言葉を最後に病室を後にした。




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