収まるべき鞘
「しかし、お前は色々と使えるな。気に入ったぞ」
気に入られても困ります、お客様。
悪寒を覚えて一歩離れようとした瞬間、機先を制する形で左手を掴まれる。離せ離せ。
ちなみに偽装夫婦生活を演出するところの小道具であった指輪は、さっき返した。
いつまでも嵌めたままだと呪われそうだったし。
「このまま本格的に組んで『灰銀』と『水銀』の名を裏社会に広めるのも、悪くない」
冗談。馬鹿も休み休み言え。
俺は波風少ない平穏な人生を送りたいの。刺激の摂取量なんて一日あたり小さじ一杯で十分。それ以上は健康に差し障る。
「……不満か?」
大いに不満ですとも。寧ろ不満しかありませんとも。
無感情に凝視しようと無駄だぞ、そういう手合いはハガネで慣れてる。
空腹時こっちが何か食い物を持ってたら、ひたすら見てくるからな。
そして十割方、無言の要求に堪え兼ね、献上に至る。
全敗じゃねぇか。
「では選べ」
出た、お決まりのダルモン節。いい加減、一択クイズには屈しないぞ。
日頃は風見鶏を決め込んでいようと、抗うべき時はノーと言える男が俺だ。
負けるものか、断じて!
「私のものに
選べ、と繰り返される。
おかしいな。一択どころか、どっちを選んでも同じ結末な気が。
斯くなる上は、だんまり作戦で乗り切るしか。
「十秒以内に答えなければ、無理矢理を希望と判断する」
退路と考える時間を同時に取り上げるの、大人気ない。
と言うか無理矢理って、アンタ俺をどうするつもりだよ。もし拷問とかなら、耐えに耐え抜いて八秒前後だぞ。
旺盛な想像力が齎す凄惨な未来予想図に青褪める中、刻々と迫る刻限。
逃げようにも、いつの間にか左腕を絡め取られ動けず。切り離し自在なトカゲの尻尾が羨ましい。
「時間切れだ。お望み通り、存分に躾けてやろう」
望んでない望んでない、望んでないったら望んでない。
ぶんぶん首を横に振る俺の意向など一切無視、口の端を吊り上げるダルモン。
死ぬほど怖い。
ああ、拝啓オフクロ様、ついでにオヤジ殿。不肖の息子が異世界で奴隷階級に落ちそうです。
かれこれ二ヶ月以上、連絡も寄越さないで悪いね。アーメン。
「……なんてな」
――へ?
諦めの境地に達し、世を儚んでいたら、呆気なく解放される。
どったの先生。
「冗談だ。お前には借りがある、二度も窮地を救われた。仇で返す真似はしない」
マジでか。さっきの口振り、とても冗談とは思えなかったけど。
いずれにせよ善行は積んどくもんだな。儲け。
「傍に置いておきたいのは事実だが……チッ。そっちも時間切れか」
苛立たしげな舌打ち。
それに少し遅れて、微かな
朝陽とは逆方向、未だ薄暗い西の空。
米粒程度の赤い小さな点が、相当な速度で此方へと近付いていた。
――え、まさか……ピヨ丸!?
「ここ数日、ピスケス領内をワイバーンが飛び回ってるとの噂は届いていた。もう少し猶予はあると踏んでたが……」
再度、舌打ち。
「あの距離では既に捕捉されたな。私一人なら兎も角、お前を連れての逃走は不可能。手詰まりだ」
よほどハガネに会いたくないのか、握り締めた拳が震えてる。
確かに敵対は避けたいよね、あの猛獣ロリ。
…………。
しかしアイツら、俺のこと探してくれてたんだ。
てっきり、そのうち帰ってくるだろ、みたいなスタンスで捨て置かれてるものとばかり。
「私は姿を眩ます。お前は、ひとまず仲間の元へ帰れ」
了解ボス、そんな命令なら大歓迎です。
ひとまずってのが気になるとこだけども。
徐々に羽ばたきの音が大きくなる中、努めて従順に頷く俺。
すると、ダルモンの不機嫌指数が少し上がった。解せぬ。
「……嬉しそうだな。まあいい、どうせ短い別れだ」
不吉な台詞を残すなよ。立つ鳥跡を濁さず、さっさと逃げろや。
などと考えてたら、胸倉を掴まれ、勢い良く引き寄せられた。
――っづぁ!?
「遠からず、また会いに行く」
血が流れるほど強く、首筋を噛まれた。
痛みに身を強張らせた一瞬、転ばない程度、突き飛ばされる。
「
たたらを踏む最中、耳元で囁かれ。直後の僅かな間、唇に冷たくも柔らかい感触が添う。
数拍置いて我へと返り、周囲を見渡すけれど、ダルモンの姿は煙も同然に消えていた。
どちらに逃げたのかさえ分からない見事な隠形。まるで狐につままれたかのよう。
残ったのは、熱すら伴う首の痛み。
そして――口元を拭った手の甲に薄く広がる、赤いルージュだけだった。
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