第2話

 基本的にあたしは学校がつまらなくて、もっと言えば人生ってこんなにもつまらなくて、先がないものなのかなと思っていた人間だった。目に映るものは灰色に見えるっていうのは比喩表現ではなく、本当にそう見えることもあるんだなと思わされた。

 けれど、きみといる間だけは、画像処理ソフトで色合いをビビッドにしたみたいに、何もかもが鮮やかに映った(きみはそれを聞いて「安い小説みたいな表現だね」ってあたしをディスったよね。今でも覚えてる)。



 きみの好きなところはどこか……と誰かに問われても、あたしは明快な答えを出すことができない。そもそも、そんな芸能レポーターみたいなことを一般人のあたしに訊くこと自体がお門違いだし、あたしのこの気持ちを採点したり、評価を下す権利が、あたし以外誰にあるというのだろう。


 それに、きみはあたしにだけ、その心のドアを開いてくれている……ということをはっきりと感じる。普段は固く閉ざされたそれは、あたしの存在を鍵として、まるで自動ドアを通るみたいに開かれる。

 きみが呟く言葉の端々に「これはきみにしか言わないけれど」という枕詞が増えていったことで、それは少しずつ確信へと変わっていった。




***




 ある日の放課後。いつものように、きみは「これはきみにだけ伝えておく」という前置きを、服のボタンを留めるときみたいに何気なく、口にした。



「なにを?」

「……僕は、もう治ることのない病気にかかっている。そして、残された時間は、もうあまり多くない」



 きみは複雑な顔をしたけれど、あたしはそれを聞いてすぐに思わず、あはは、と笑い飛ばしてしまった。きみのようにリアリズムに溢れた人間が、そんな突拍子もない冗談を飛ばす日がやってくるなんて。はじめは、そんな気持ちでいたのだ。



 すると、きみはポケットからスマートフォンを取り出し、何度か指を滑らせると、あたしに向かってそれを差し出してくる。ディスプレイに表示されたウェブブラウザには、どこかの病院の偉そうな先生が、きみのかかっている病気について説明しているページが開かれていた。

 最初は身じろぎもしなかったのに、読み終えるころには、あたしの指はアルコール中毒者みたいに、小刻みに震えていた。



 症状は急速に進行して、一度始まってしまうとそれを止める術は現代の医学ではまだ確立されていない。発症してからの余命は、およそ一〇〇日。

 昨日病院にかかったら、発症が確認されたと言われたんだ。

 そんなきみの言葉が、あたしに追い打ちをかけた。



「……タチの悪い冗談、やめてくんない」



 あたしはそう言って、きみにスマートフォンを突っ返した。しかしきみはそれを受け取らないで、あたしの手を両手で包み込むように握る。ガシャン、とスマートフォンが床に落ちた。それにも構わず、きみの瞳は、あたしをまっすぐに見据えていた。



「これが冗談を言っている人間の手だと、きみは思うかい」



 きみの手は、あたしのそれと同じように、細かく震えていたし、ぐっしょりと汗ばんでいた。

 きみ自身も、そう遠くない日に、自分の命の灯が消えることを恐れているんだ。これは残酷だけれど本当のことなのだ……と、あたしは一瞬のうちに悟った。



 こんなときこそ、あたしはいつもみたいに、明るく振る舞うべきだったのかもしれなかった。けれど、できなかった。笑い声をあげようと思った唇の隙間からは、噛み締めすぎてくったくたになったような言葉しか出てこない。



「……どうしてよ」

「なにが?」

「どうしてきみが、そんな目に遭わなきゃなんないの。きみよりも早く死んだほうがいい人間なんて、世の中にたくさんいるのに」

「神様は、そこまで平等じゃなかったらしいね」



 きみはまだ、あたしの手を握っていた。きみはあまり自分からあたしに触れてこなかったから、それ自体は本当はとても嬉しいはずなのに、今はそのことをちっとも喜べない。きみが舌を噛み切りそうな名前の病魔に侵されていて、それが遠くない未来に、きみをあたしから取り上げてしまう……ということがわかってしまったからだ。

 神様とかいうやつは、ろくでもないやつだ。ひどいやつだ。昨日、あたしのバイト先のコンビニでポイントカードを投げてよこしてきたじじいの方が、きみよりも早く死ぬべき人間だと思うのに。



 きみは唇を薄く開いた。



「ずっと前から、病気にかかっていることはわかっていた。誰にも言わないつもりだった。でも、きみにだけは真実を伝えるべきだと思ったから、言った」

「どうして?」

「きみは、案外寂しがりやだっていうことを、僕はよくわかってるから」



 そう思うなら、生きてみせてよ。そんな病気ぶっとばしてやるって、嘘でもいいから言ってみせてよ。



 結局それは、言語と知覚できる形であたしの唇から滑り出ることはなかった。代わりに出てきたのはただの嗚咽おえつと、壊れた蛇口みたいにあふれ出る涙だった。


 きみは少し困ったような笑顔で、ただ黙ってあたしの肩を抱いてくれていた。

 ふつう逆なんだよな。

 本当に、いやになるよ。肝心なところで、あたしは弱い。

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