僕と黒兎のマスターと

ナリミ トウタ

僕と黒兎のマスターと

引っ越して半年、新しい生活になんとか慣れてきた。


大学進学を機に上京して、大学から徒歩15分ほどのアパートに部屋を借りることが出来た。


元々、学生街というのもあり、駅に近いながら安く借りることが出来たことと新生活に浮かれていた。


しかし、世間でいう大学で遊ぶという生活はなかなか出来なかった。毎週、毎週、課題に追われ、講評をして疲弊しながらも新しく作品を作り出す日々だった。


教材費を買うためにアルバイトもはじめた。両親には先行投資として学費はまかなってもらえる恵まれた環境だから、今までの恩を返せるように勉強に打ち込んだ。




「今日も、もやしかな……でもキノコも安いし、ささ身なら……無理か」




だが、全てが順風満帆とは言えない。大学の課題は締め切りの期間がギリギリで真剣に打ち込む分、アルバイトの時間は週3回4時間と月に1回日曜日に8時間だった。


片っ端から授業を受けていたせいもあって月曜から土曜まで入れていたため、時間の確保が難しくなっていた。


そんな僕でも雇ってくれる理解ある今の店長がいてくれて本当に恵まれていたが、アルバイト代から生活費や画材代が引かれるため節約するために食費を削った。


飲み会にはいけないし、肉もなかなか食べられない。コンビニで売られているサラダの真空パックに包まれた1個約300円のチキンなんて今の僕には高級品だった。


それを毎日昼食に食べている友人のチキンを羨ましそうに見てしまうのは仕方がない。




いつかみんながアッというような絵を描いて絵だけで食べていける人間になってやることが目標だ。そのためのに今のひもじい思いなんて耐えられる……耐えるぞ……。




今日もささ身は諦めて、キノコをたくさん買った。よーし、夕飯はキノコのバター焼きだ。


会計を済ませてスーパーを出たときに声を掛けられた。




「すみません、ちょっとよろしいですか」


「はい?」




振り向いてもいなかった。空耳だろうか。




「あの、こちらです」




キョロキョロしていると声がまたした。声に導かれるまま下を向いた。




「僕のことですか?」


「そうですよ。あなたのことです」




下には赤い目が愛らしいピンした長い耳が特徴の黒い兎がいた。……僕は疲れているのだろうか。あんまり寝てないし。




「大丈夫です。あなたの見ていることは現実ですよ」


「僕の心を読んだのですか……兎が……」


「私は兎なので心は読めませんよ。あなたが口に出していただけです」




思わず口に手を当てた。今までこのウサギが人語を話していたから話しかけられるままに話していたが、兎相手に話すなんて痛いやつ過ぎないか……。




「あら、マスターこんなところで奇遇ね」




は?マスター?


僕に話しかけてきた黒兎に白い日傘を差した上品そうなおばさんがそう呼んで話しかけた。




「実はこの若者に話がありまして……」


「まあ、そうなの?ごめんなさい。お邪魔しちゃったわね」


「いいえ、むしろ助かりました。彼は混乱してるようなので……」




おばさんは黒兎がこのコンクリートに囲まれた道にいても驚くことはなく、自然とそこにいるのは当然かのように話していた。何で?




「はじめてだと驚いちゃうわよね。私は由上美智子というの。あなたは……この近くの美大の学生さんね」


「え、何でわかったんですか?」




由上さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべて自分の頬を指さした。




「ここに、青い絵の具がついているわ。気付かないうちに付けてしまったのね」


「おや、本当だ」


「あら、マスター気づかなかったの?」


「私はこの通り小さいからね。見えなかったよ」


「そうだったわね」




くすくすと笑う由上さんとマスターと呼ばれる黒兎は僕を微笑ましそうに見ていた。


頬に手を伸ばしたら手にフタロブルーの絵具が付いた。本当だ。




「ほら、これで顔や手を拭いて」


「ありがとうございます……」




由上さんはウエットティッシュを差し出してくれたお言葉に甘えて顔まで拭いておこう。




「あなたに用がある黒兎はこの先にあるカフェを経営しているの。だから私も含めて、ここら辺に住んでいる人はみんなマスターと呼んでいるのよ」


「はじめまして。君もマスターと呼んでくれると嬉しいよ」


「マスターってあだ名ですよね。じゃあ本名は……」


「わからない方がミステリアスで面白いだろう?」




兎って、ウインクするんだ……。


そもそも普通の兎と違って2本足で歩いているみたいだし、カフェを経営しているみたいだから珈琲も淹れるのか……。衛生面とか大丈夫なのか。




「君は杉山さんの経営するアンティークショップでアルバイトしている鷹山 優也くんで合っているよね?」


「そうですけど……さっきも用があると言っていましたけど、どういうご用件でしょうか?」


「実は君に絵を描いてもらいたくて……」


「まあ!素敵ね」


「僕を……?僕で良いのですか?」


「ええ、是非お願いしたい」


「でも、何で……」




そう、僕はまだ無名の学生で、コンクールにもSNSにも自分の作品をまだ発信していない。


それなのに、何故僕に。美大に通う学生に頼むならいっぱいいるのに……。




「鷹山くん、杉山さんに絵を描いたのだってね。その絵を杉山さんに自慢させられてね。その絵を見て私も是非、カフェに合う絵を鷹山くんに描いてもらいたいと杉山さんを通してお願いするところ、ちょうど君を見て声を掛けたんだ」




そういえば、フルタイムで入った日の休憩時間で何気なく描いていた絵を杉山さんが気に入ってあげたのだっけ。ちゃんとしたものを描くっていうのに、これが良いって譲らなくて入口に飾られたままになっている絵を思い出した。


マスターが杉山さんが嬉しそうに優秀な子だと写真を見せて自慢してくれたんだ。と兎だから表情の変化なんてわからないけど穏やかに笑っているようだった。


僕の知らないところでそんな会話がされていたなんて照れ臭いけど嬉しくなった。




「では、仕事を受けてくれる気になったらカフェ、ラパンに来てほしい」




言うだけ言って黒兎は僕の前から遠ざかっていった。


兎なのに狐につままれた気分だ。




「あれ、由上さんはマスターとお話はいいんですか?」


「たまたま声を掛けただけだからいいのよ。それにカフェに行けばマスターにいつでも会えるもの」


「そうなんですか」


「ふふふ。ラパンはあの路地を行って右に曲がったところにあるわ。また会いましょう」




由上さんは軽く僕に手を振って白い日傘を背にして帰っていた。


こんな学生街にあんなに上品な人が住んでいるなんて思わなかったな。


明日、誰かにラパンについて聞いてみようかな。










「ラパン?ああ、マスターがいるとこね。地元なら知って当たり前だぞ」


「そんなに有名なの?」


「黒兎なんて、ここじゃマスターだけだしな」




ここでも、さも当然とでもいうように返された。僕がおかしいのか。


いや、そもそも人語を話す兎が何羽もいたら、生物学の考え方がひっくり返りそうだ。




「マスターがどうかしたのか?」


「実は……」




昨日あったあらましを友人たちに話した。




「へえ、マスターがね。受けたらいいんじゃないか?将来絵で食っていくって鷹山良く言っているし、売れっ子画家になるための一歩だろ」


「そーそー。マスター顔が広いし、あわよくば宣伝してもらえるかもよ?」




「仕事は…受けるつもりだけど。僕が聞きたいのは、マスターって何者なんだってことだよ。普通兎がこんなところにいないだろ」


「何者って言われてもな……マスターはマスターだし」


「そうだよな……言われてみればって感じだけど、昔からマスターはカフェを営んでいたし、兎なのは当たり前っていうかな……考えたことなかったわ」


「それはどうなの?」


「しょうがないだろ。小さい頃からそうだ。って言われればそうとしか思わなかったんだよ」


「確かに、一理ある」


「だろ?まあ、鷹山は上京組だから珍しいって思うのは仕方ないし。それこそ杉山さんに聞いたらいいだろ?」


「何で?」


「杉山さんはマスターと親友だって周知の事実だからな」




思わぬ伏兵がいた。


そういえば、昨日言っていたな。「杉山さん自慢された」って。あれって、客として日常会話を楽しんでいるという意味じゃなくて友人として話を楽しんでいるってことだったのか。


この後、バイトあるしラパンの場所を改めて確認するために杉山さん聞いてみよう。










杉山 聡さんは30代前半の髪を無造作に伸ばして一括りしている男性で、曾お爺さんの代から営んでいるアンティークショップを今は1人で営んでいる。


アンティークショップを営む杉山さんの店には人はあまり来ない。


値段が高いというのもあるけど、外観がおしゃれではあるけどお店っぽくないからたどり着けるお客さん自体が少ないのが原因だと僕は考えている。


そんなお客さんたちはオンラインショップを利用してくれているため、店が潰れるということは当分ない。そのため、仕事内容は主にオンラインショップの注文確認と梱包作業とその他雑用がメインだった。


「マスターについて?」


「友人から杉山さんがマスターと仲がいいって聞いて……」


「仲がいい、仲がいいね、まあ他の人よりな」


「だから、教えてもらいたくて……」


「ああ。成程。前に鷹山くんの絵を見せたときに良い反応していたしな……大方、絵の仕事の依頼されたんだろ?」


「そうなんです。よくわかりましたね」


「そりゃあ、マスターとは付き合いが長いからね。曾爺さんの頃からの付き合いさ」


「え!?あのマスターって一体何歳なんですか!?兎の寿命軽く超えてますよね!?」


「落ち着けって。今は客も梱包もひと段落したし、休憩ついでに話してやる」




杉山さんに手招きされるままお店の居住スペースに入った。




「じゃあ、とりあえずいつもの椅子に座っておいて」




そう言って杉山さんは一旦、店の方に戻っていった。


台所はこっちなのに……でも、お気に入りの珈琲はサイフォンごと店の方に置いているんだっけ?だったらお店で良かったのに……。






「長い話になるし、他人に聞かれてもまずいからな」




髪を一括りにした男はオープンの札をクローズに返し、店の中に消えた。








「悪い。悪い。珈琲が店の方に置いているの忘れてた」




杉山さんが愛用している黒猫が描かれたマグカップを片手に大型のバラエティーパックのクッキーの缶を持って戻ってきた。




「杉山さんって割と抜けてますよね」


「まあ、手厳しいこと言うなって。ほら、近所のおばちゃんからもらった菓子でも食べてろ」


「ありがとうございます。いただきます」




手に取ったのは苺ジャムが中心に流し込まれたクッキーだった。バターの柔らかな甘みと苺の甘酸っぱい味が広がった。


珈琲の苦みが苦手で飲めない僕のために冷蔵庫からパックのオレンジジュースを引っ張り出してコップに注いでくれた。




「で、マスターのことだったな」


「そうです。何でみんな兎がいるのを変に思わないのですか?何故マスターは人語を話せるのですか?」


「変か。そうだよな。外から来たお前には不思議に映るだろうな」




杉山さんは珈琲を口に運びながら、どこか遠くを見つめて寂しそうだった。




「マスターは兎だけどさ、昔は人間だったらしい」


「らしい?」


「そ。爺さんから聞いた話なんだが、マスターは魔女の呪いで兎の姿に変えられたって話なんだ」


「呪いですか……そもそも、魔女なんて現代にいるのですか?」


「確かに疑わしい話だが、マスターを見ていると嘘とは言えないだろ?鷹山くんが言うように、こんなところに人語を話す兎が存在するなんて変だ。他にもいるなんて話は聞かないし、カフェを商う兎なんて余計に珍しい。あと、人間に当てはめても、いつ死んでもおかしくない歳だ。兎ならとっくの昔にぽっくり逝っても不思議じゃない」


「そうですね。ご都合主義感満載の話ですが、一理ありますね」


「だろ?普通ならこんな話は信じないし、俺もマスターは兎だって小さい頃から教えられていたから、そうだって考えていたけど、今は死んだ爺さんが寝物語ついでに話してくれたんだ」








俺は爺さんの話す話が好きで、いつも話の続きをせがんでいた。


ある日爺さんは、マスターについて教えると言って話してくれた。




「これは、僕の父さん、聡から見て曽お爺ちゃんから聞いた話だ。昔、ある男がいた。彼はカフェでアルバイトをしている学生だった。そんな彼には将来を誓い合う女性がいた。絵描きを志している近所の女学生だった。彼女は彼がアルバイトしているカフェでクリームソーダを飲みながら彼の勤務が終わるのを待っていた」




普段とは違うテイストの話だったが、話を聞いている時は幸せな話なんだろうなとわくわくして聞いていた。




「彼らを町のみんなは微笑ましく見守っていた。いずれ幸せになる若い2人の人生をみんなが良い知らせを待っていた。あの日までは」




いつも笑顔で話をしてくれる爺さんの顔に影が差した。その時は、苦い顔で何かを話そうとする爺さんが何となく怖かったことを今でも覚えている。




「ある日、白いワンピースをひらひらとさせた美しい女が彼のアルバイトしているカフェに来店してきた女がいた。女は彼を一目で気に入ったようで、何日も通って、顔見知りになり、親しく話す仲にまでなった。そうしていくうちに、「僕の婚約者です」と。彼は女が彼を好きなことを知らず、友人の一人として彼女を女に紹介した。女は彼に婚約者がいることを、はじめから知っていた。知っていて、彼に近づいて、いつか自分に振り向いてもらえると信じ、毎日努力していたのだ。でも、どんなに女が美しくとも彼は婚約者だけを愛していた」




ここまで聞くと、人魚姫の童話に似ていた。声を奪われたまま王子に真実を話せず、冷たい海に1人で還った姫の話。きっと彼は物語の王子のように女の気持ちを知らないまま愛する婚約者と幸せになるのだろうと思った。




「女は打ちのめされてもカフェに通い続けた。彼をまだ諦められなかったのだ。そうして時が経ち、彼と彼女は結婚した。女は遠くから2人を見続けた。彼はいい会社に就職し、彼女は小さな絵画教室開いて子供たちに絵を教えていた。2人の幸せな姿を目にしても女は彼を諦められなかった。女は弱ったフリをして彼に迫った」でも彼は女を拒絶した。「僕には愛する妻がいて、もうすぐ子供も生まれるんだ」と告げられた女は泣き崩れた」




「あの2人の綻びを見つけて、自分が彼女の代わりに入り込もうと機会を伺っていたのに、女が慎重におちおちと手をこまねいている間に、自分が幸せを崩す機会を失っていた。いや、初めからそんな機会なんてなかったかもしれない。女は悲しみが怒りに変わった。その美しさ故に男に好かれていたが、本当に欲しいものが手に入らなかったことが女には屈辱的だったのだろうな」




「だから、女は去る彼に向けて呪いを掛けた」




爺さんの優しい落ち着いた声があんなにおっかなく聞こえたのは後にも先にもあの1度きりだ。呪いなんてパワーワードが出たせいもあるかもしれないけどな。




「女は魔女だった。今の今まで誰にも気づかれず、ずっと人間として紛れて生活していた。魔女は人間としての生活を捨てて彼に呪いを掛けた。彼に呪いを掛けた魔女はもう彼や彼女、町には一切姿を見せなくなったという。呪いを受けた彼は1羽の黒兎の姿になった。驚いた彼は家に急いで帰った。妻は無事だった。でも、妻は彼が人間であったことを忘れて元々、自分の夫は兎だったと思い込んでいた。町の色んな人に尋ねても人間だった彼をだれ1人知る者は居なかった。みんな彼は初めから兎であったと口を揃えて言った。兎にされた彼は自分が人間であったことを思い出せても人間であった頃の姿も、年齢も、名前もすらも思い出せなかった」


「つまり、どういうこと?」


「魔女はな、きっと兎にするだけでは気が済まなかった。自分が愛した人間の頃の彼を自分だけのものにしたくて人間だった彼の姿の記憶を持つみんなの記憶さえも奪ってしまったのだよ」


「どうして魔女は自分を好きになるような魔法を掛けなかったの?」


「きっと、それは虚しいことだと気づいていたんだよ」


「むなしい?」


「それは本当の好きじゃないからね」


「本当の好き」


「そう。はじめは自分を愛してくれることが嬉しくて仕方ないだろう。でもね、年月を重ねていくうちに気づくんだよ。彼は自らの意思で好きになってくれたわけではないことを。魔法で好きにさせてもな、所詮は自分が作った偽物の感情でしかない。それを魔女は良く理解していたんだよ。だからこそ、彼との思い出を自分だけが持っていたかったんだ」


「僕にはわからないよ」


「そうだね。聡には早かったかな。彼は兎の姿に変えられてから会社は辞めることになった。魔女の魔法は町の中だけで、町から離れた会社では兎の姿は酷く目立ち、かつての同僚たちに追いかけられ、酷い目にあいそうになった。そうして、兎は町からは出ず、かつてアルバイトしていた店を任されてカフェを開いているんだよ」










「というのが、爺さんから聞いたマスターの話」


「何と言いますか、とても苦労したのですね」


「そうだな。マスターについて話すと爺さんが言っていた時、俺はまだおとぎ話だと思っていたよ。曾爺さんのアルバムを見つけて、これが本当の話なのだと確信した」




杉山さんは箪笥の引き出しから古い本を取り出した。


開いたページには目元が杉山さん似た若い男の人が写っていた。その隣にいる男性の顔は手前に咲いている花に隠されて見えなかった。あるカフェの前で映る男女の写真にも、何かの集まりの集合写真にも似たような顔が何かしらの花で隠されている男性の写真がそのページには何枚かあった。




「これが俺の曾爺さん。その隣にいるのがマスターだ」


「これが?」


「そう。かつて人間だった頃のマスター。曾爺さんと年も近かったし、カフェを建設する時にアンティーク家具をいくつか発注したのが俺の店だ。その付き合いをきっかけに曾爺さんとマスターは友人になった。それで家にいくつか写真が残っていたんだ」


「全部花で顔が見えないですね。何故花なのでしょうか」


「それは誰もわからない。あんなえげつない呪いを掛けたわりには花で飾るなんて気味が悪い」




そう言われてしまうと不自然な位置に咲く花たちが意思を持って彼を隠していることがありありと、うかがえた。それほどまでに彼を隠したかったのか。


最後は怒りに任せて掛けてしまった呪いなのかもしれない。でも、一途に彼を思っていた魔女は呪いを掛けるまではただの1人の人間に恋をする普通の女の子だったのだ。




「そうでしょうか?僕には少しだけ可愛らしく思いますけど……」


「可愛い花で騙されているだけじゃないか?」


「話を聞くと怖い魔女だなとは思いますけど、本当にマスターのこと好きだったんですね」


「人じゃなくて、魔女な。まあ、それは事実だ。でも呪いに関しては爺さんと俺は考えが違うな」


「何故です?」


「魔女はその呪い以外の魔法の解き方を知らなかった」


「そんなことあります?」


「よくあるだろ。“真実の愛”ってやつ」


「あれは王子様のキスでよく目が覚めていたり、お姫様のキスとかで元の姿に戻ったりしませんか?あ、」


「一般的にはな。それで呪いは解ける話は多い。でもそれは王子様やお姫様に限らない。狩人だったり、母親のように姫を見守り続けた妖精だったり。それだけ解呪の定義は曖昧ってことでもあるし、判定が厳しいってことだ」


「だから、正しい呪いの解き方を知らないから掛けようとしなかった」


「解き方を知らなければ呪いを永遠のものにするために邪魔をしなきゃいけないしな。知らなければ対策をすることも出来ない。だから自分を直接好きにさせる魔法は掛けられなかったといえる」


「なるほど……マスターや町の人たちの様子が他と違うのは分かりますけど、呪いはどうしたら解けるのでしょうね」


「わかったら、マスターは今の今まで兎じゃないし、きっと奥さんと一緒の墓に入っていたよ」


「それは、そうですね」


「何がえげつないか、わかっただろ?自分は死ねないまま100年、大切な人たちの死をもうずっと見送り続けているんだ」




杉山さんは忌々しそうにこぼした。




「さあ、長くなったけど、休憩は終わり。持ち場に戻った戻った」




杉山さんは、さっきとは打って変わっていつもの気さくなお兄さんに戻っていた。


飲み込んだオレンジジュースはぬるく、味は分からなかった。


それから閉店時間の19時になり、店を閉め僕はアパートに帰った。




「今、仕事帰りかい?」


「あ、マスター」




黒兎のマスターが初めて会った時のように僕の足元にいた。


アパートの帰り道を歩いていたと思っていたけど、いつの間にか知らない路地裏の道を歩いていた。さっきのスケールの大きい話を聞いて思っていたよりも動揺していたのかもしれない。




「そうだよ。おや?顔色が悪いね。店が終わっているけどココアなら出せるよ。おいで」




開けられた扉からは珈琲のいい香りがした。


珈琲を飲むのは苦手だけど、この香ばしい香りは好きだ。




「はい。今日は暑かったからアイスココアだよ」


「ありがとうございます」


「ついでに材料も余っているしナポリタンを作ろう。良かったら食べて行ってくれ」


「でも、お金はなくて……」


「今日はサービスだよ。1人だけの食事はどうも寂しくてね。付き合って欲しいんだ。どうしてもお礼をしたいのなら、他の上京した友達やSNSでカフェの宣伝でもしてくれれば嬉しいな」


「それでいいのなら、お言葉に甘えて……」


「交渉は成立だね。嫌いな食べ物はあるかい?」


「ないです」


「了解」




マスターはあの足、手か?を器用に動かして野菜を切っていた。


僕から見たら本当に普通の兎に見えた。




カウンターから見渡すと、杉山さんが言っていたようにアンティークの家具がそこら中にあり、電話は黒電話をだった。回線を繋げば今でも使えると聞いたことあるし、この電話もそうなのだろう。


ふと目に入ったのは1つの写真立てだった。優しそうな顔で微笑む白髪の老女の写真だった。




「ああ。その写真はね、私の妻だよ」


「奥さん、優しそうな人ですね」


「君は驚かないのだね。兎が人間の夫だなんて」




あ、やば。昨日あんなに驚いた後でこれはまずいな。




「いや、いいんだよ。君が杉山さんの元で働いているのだから、いずれわかることだ」


「すみませんでした」


「いや、何も謝ることは無い。それだけ私に興味を持ってくれたってことだろう?」




ケチャップでコーティングされた野菜たちを慣れた手つきで炒めていく。




「あの、絵の仕事、受けさせてください」


「本当かい?」



明るい声を出したマスターに申し訳ない気持ちになった。

受ける気ではいたけど、なんだかこの空気に耐えられなくて、話題を変えるために口に出してしまった。




「はい。どういったものを描いたらいいでしょうか?」


「君がこのカフェに合うと思う絵を好きなように描いてほしい」


「好きな、ですか。他に何か要望はありますか?」


「いいや。すべて君にお任せしよう。お願いしてもいいかい?」


「もちろんです」


「期限は君が美大を卒業するまで」


「え……?そんなに長くですか?」


「君にはこのカフェや僕のことを良く知ってから描いてもらいたいと思っていてね。年月を重ねるだけわかるだろう。しかし、君はいずれ自分の故郷に帰ってしまうかもしれないだろう?」


「それは……」




ないとは言い切れない。卒業した後の拠点はまだ決まっていないのだ。




「ね?だから、じっくりと君の眼を通して考えてくれないだろうか」


「わかりました。引き受けます」


「ありがとう。さあ、ナポリタンだ。遠慮なく食べてくれ」


「いただきます」




オレンジ色のパスタは甘く、コクがあり、どこか懐かしい味がした。


マスターは器用にフォークを使ってナポリタンを食べていた。




100年、大切な人たちに置いて行かれて、ずっとひとりぼっち。かつて住んでいた町の形は変わり、人々も変わり、自分だけがいつまでも変わらずにそこにいる。




それを今は感じさせないマスターは強い人なのだろう。でも、奥さんの写真、古いものに囲まれたこのカフェはマスターが人間だった頃の名残が詰まっているようで甘いはずのアイスココアが少しだけしょっぱく感じた。



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