第十章

『邂逅(一)』

 泉安鎮せんあんちんに逗留して八日目の朝、拓飛タクヒ凰華オウカは崑崙山脈のどこかにあるという白虎派の総本山を目指して出立する事にした。


 凰華が荷物をまとめていると、その様子を見ていた拓飛が呆れたように声を掛ける。


「おい、まだかよ! なんで女ってヤツは、こうも身支度が遅っせえんだ?」

「いいでしょ、女の子には色々あるの!」


 ————結局、凰華の用意が出来たのは四半刻後だった。


「お待たせ!」


 凰華が元気よく声を掛けると、拓飛は腕を組んで難しい顔をしている。


「何よ、そんなに怒らなくてもいいじゃない」

「そうじゃねえ。出発する前におめえに言っとく事がある」


 いつに無く真剣な表情の拓飛を見て、凰華は姿勢を正した。


「いいか。成り行きでおめえに内功を教える事になったが、調子に乗ってやたらめったら使うんじゃねえぞ。おめえはたまに俺以上に頭がカーッとなっちまう時があるからな」

「う……はい!」

「あと、もう一個な。今回はなんとかなったから良かったけどよ、次にまた、俺が逃げろって言ったら、絶対に言う通りにしろよ」

「でも……」

「でも、じゃねえ。もし言う通りにしなかったら、俺はおめえの前から姿を消して二度と会わねえからな」

「……どうして……?」


 拓飛は顔を背けると、ゆっくりと口を開いた。


「……もう二度と、女に守られて眼の前で死なれるのは御免なんだよ」


 凰華は拓飛の寂しそうな表情を見ると、何も言えなくなった。


「……分かりました」

「おし、じゃあ行くか」


 納得した拓飛は旅籠の玄関から外に出ようとするが、慌てて凰華が引き留めた。


「あっ! ちょっと待って拓飛!」

「なんだよ!」


 拓飛が振り返ってみると、凰華は旅籠の受付に一週間分の宿泊代を置いている。


「何やってんだ? ここのヤツが戻って来るかは分かんねえぞ?」

「うん、でも父さんがよく言ってたの。人に恥じない行いをしろって」

「へっ、あのおっさんらしいな。じゃあ今度こそ行くぞ」

「うん!」


 

 泉安鎮を出て更に西に向かうと、地面に生える草もまばらになり、周囲は荒れ山が広がる殺風景なものに変わっていった。

 さらに歩みを進めると、二人の眼前には巨大な山岳が姿を見せた。


「ねえ拓飛。これ崑崙山脈に入ったんじゃない?」

「かもな。……しっかし、こんな何もねえトコにマジであんのか?」

「その、はず……なんだけど……」


 凰華が自信なさげに答えるのを、拓飛は聞き逃さなかった。


「はず? 今、『はず』っつったな? 確定じゃねえのかよ⁉︎」

「確定なんて言ってないわよ! 崑崙山脈のどこかに白虎派の総本山があるって噂なんだもの!」

「噂だあ⁉︎ おめえ噂で、俺をこんなトコまで引っ張り回したのかよ⁉︎」

「そんな言い方ないでしょ! 拓飛だって乗り気だったじゃない!」


 凰華が応戦すると、拓飛は大きく溜め息をついた。


「……もういい。考えてみりゃ、他に行くアテもねえしな。登るだけ登ってみっか」

「そっ、そうよ! 何事も挑戦が大事よ! ねっ、焔星エンセイ!」


 拓飛が折れると、凰華はこれ幸いと焔星に同意を求めたが、拓飛と焔星は冷めた視線を凰華に送り無言で山道を登って行った。


 

 崑崙山脈を登って行くと、徐々に空気が薄くなっていき、高度に比例して気温もどんどんと下がってくる。程なくして、季節は卯月うづきだというのに灰色の空から綿菓子のような大粒の雪が降ってきた。


「ううー、寒いと思ったら雪が降ってきた……」

「なんだおめえ、寒いのか?」

「雪が降ってるのよ、当たり前じゃない。拓飛は寒くないの?」

「内功がしっかりしてると、多少の寒さはどうって事なくなるんだよ」

「そうなんだ。じゃあ、あたしの内功はまだまだって事ね」


 凰華が自分の腕をさすりながら言うと、拓飛は着ていた上着を凰華に差し出した。


「貸してやる。これでも羽織ってろ」

「え? いいよ。拓飛に悪いわ」

「いいから使え。俺は暑いくれえなんだよ。いらねえってんなら捨てっちまうぞ!」


 意地っ張りな拓飛がこうなっては本当に捨てかねないので、凰華は慌てて上着を受け取った。

 上着を羽織ると、それは凰華の身体をすっぽり覆うほど大きい。微かに拓飛の匂いが感じられ、凰華は身も心も暖められた気がした。


「……あったかい。ありがとね、拓飛」

「へっ。礼を言われるほどのモンじゃねえよ」


 凰華が微笑むと、拓飛は顔を背けていつもの減らず口を叩く。


「ねえ、そう言えば、あの時に言ってた内功を教える条件ってなんなの?」


 思い出したように凰華が疑問を口にした。


「……今は言わねえ」

「だからどうしてよ? 言ってくれないと出来ないわよ」

「言いたくねえからだ」


 凰華は首を捻った。普段の拓飛は思った事はなんでも口にするというのに、この話題になると途端に歯切れが悪くなる。


「あっ、もしかして変な事しようって言うんじゃ……」

「んなワケあるか! ぶっ殺すぞ、このアマ!」


 拓飛は赤面すると、振り返って怒鳴り声を上げた。その様子を見て凰華はケラケラと笑う。


「アハハ、冗談よ。拓飛がそんな事言うワケないもんね」

「チッ、胸糞悪い……、ッ!」


 突然、拓飛の左腕が振動を始めたが、一瞬にして治まってしまった。こんな反応は初めてである。


「拓飛!」

「ああ、向こうだ!」


 言うが早いか、拓飛は眼前の丘を目掛けてすでに走り出していた。慌てて凰華がその背を追いかける。


 小高い丘を越えると、拓飛は絶句した。


 その先には一面、海が広がっていたのである。


 

 ————おびただしい血液で産み出された深紅の海が————。


 

 丘の先の窪地には数十の妖怪の死骸が広がり、その中心に一人の男が立っていた。


 この眼を覆うような光景に拓飛は戦慄を禁じ得なかった。

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