『龍穴(三)』

 拓飛タクヒが猿を追いかけて行って随分と時間が経った。一人取り残された凰華オウカの身体は温泉で温められていたが、心は焦りから冷め切ってしまっていた。


(拓飛があの猿から服を取り返せなかったらどうしよう。取り返せても、迷わないでここまで戻ってこれるかしら……)


 そんな事を考えていると、ガサガサと茂みから音が聞こえてきた。凰華は期待で胸を膨らませた。


 茂みから姿を現したのは拓飛———ではなく、なんと巨大な猪の頭だった。落胆した凰華だったが、次の瞬間、落胆は驚愕に変わった。


「いやー、危うく戻って来れねえとこだったぜ」


 猪が言葉を話したのである。しかも、その声は拓飛にそっくりだったのだ。まさか拓飛はこの猪に食べられてしまったのか? この猪は妖怪の類なのか? などと想像を巡らせていると、猪の側の茂みから拓飛が姿を現した。


「拓飛!」


 拓飛は左腕で大猪を抱え、右手には先程の猿の首根っこを掴んで戻って来たが、その姿は追いかけていった時の全裸姿のままであった。


「ちょっ! 捕まえたんだったら、下隠してよ!」

「んあ? おう、悪い悪い。ほれ、おめえの服だ」


 拓飛は猪と猿を乱暴に下ろすと、凰華の服を投げて寄越した。数丈の距離もあり、途中で失速するかと思われたが、服は凧のように空中を漂いちょうど凰華の腕の前で落ちた。


「……凄い! これも内功なの?」

「まあな。我ながら上手くいったぜ」


 拓飛は嬉しそうに笑うと、背を向けて自分の服を着始めた。凰華は拓飛の気遣いに感謝しつつ、急いで温泉から上がり自分も服を着る。


「ところで、その猪はどうしたの?」

「この猿が逃げながらけしかけて来やがった。果物だけじゃ物足りねえから、ちょうど良かったぜ」

「その猿は死んでるの?」

「いや、気絶してるだけだ。まあ今は先にこの猪を食おうぜ」

「賛成!」


 凰華は両手を叩いて飛び跳ねた。


 

 すっかり日は落ち、火に掛けられた鍋の中では猪肉の他に、山菜やキノコがグツグツと煮られている。


「ちぇっ、俺は丸焼きで良かったのによ」

「ダメよ。肉だけじゃ栄養が偏るわ。はい、できたわよ」


 ブツブツと文句言いながら椀を受け取った拓飛は一口啜ると、夢中で貪り出した。


「どう?」

「……悪かねえ。つうか、おめえ料理なんてできたんだな」

「ふふん。これでも子供の頃から父さんの食事の世話をして来たからね。残りは干し肉にすれば長保ながもちするわ」


 凰華は得意げに胸を張る。その時、気絶していた猿が眼を覚ましたが、縄で縛られているので動けず、キーキーと鳴くことしか出来ない。


「この猿はどうするの?」

「最初はこいつをとっ捕まえて喰っちまおうと思ってたんだけどよ、さっき猪をけしかけて来たって言ったろ? この猿、逃げながら俺を猪の寝ぐらに誘い込みやがったんだ」


 ここまで話すと拓飛は口の中の肉を飲み込んで、


「どうもこの猿は、この樹海に詳しいんじゃねえかと思ってよ」

「あっ! この猿に道案内をさせるのね? でも素直に教えてくれるかしら?」

「騙そうとしたり、こっちの考えが伝わらねえ時はやっぱり喰っちまえばいい」


 拓飛はギラついた眼で猿を睨めつけた。睨まれた猿は何かを懇願するような視線を凰華に向ける。


「いい? このお兄ちゃんは言ったことは必ずやってのけるわよ? 食べられたくなかったら、しっかり道案内してね。あと、もうあんなイタズラはしちゃダメよ」


 猿は凰華の言葉を理解しているのか、うなずきながらキーキーと鳴いた。


「いい子ね。じゃあ、これをあげるわ」


 凰華が猪肉を猿の口に運ぶと、猿は嬉しそうに食べた後、ニッと歯茎を見せた。


「ねえ、このお猿さんに名前付けてあげない? あたし良い考えがあるんだけど」

「奇遇だな。俺もだ」


 凰華と拓飛は共にニヤッと笑って、


『———斉天小聖セイテンショウセイ!』


 夜の樹海に二人の笑い声が木霊した。

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