第3話 召喚術師、姫の裸と邂逅す

「しっかりしろ親父! 目ぇ閉じるんじゃねえよ馬鹿!」


 腕の中で消えゆく命の火。十秒前より更に浅くなってしまった呼吸。俺は、何としてでもそれを守りたくて、一秒でも意識をもたそうとして、とにかく親父の頬を叩くのである。


「魔法はかけてる! 今っ、傷は塞がってっから! もうちょっとなんだよ! 頼むよ!」


 べったりと血に濡れた俺の両手が、血の気を失った親父の顔に赤い手形を付けていった。


「……神様……っ!」

 思い出せる限り、俺が、神に何かを真剣に祈ったことなんかない。

 それでも今は、親父の命がもつ奇跡を願うしかなく――それが叶うならば、全財産・全才能・全未来を神に献上してもいいとさえ思うのだった。親父さえ助かるならば、召喚術師という目標を捨てて神の使徒になったってよかった。


「なんで、なんでこんなことに――何やってたんだよ親父っ、お前よぉ!!」


 薄い玄関戸は開きっぱなしで、季節外れの猛吹雪が容赦なく入り込んでくる。玄関の奥に見えるのは深夜の闇だけで、まるで暗闇そのものが命を得て雪を吐き出しているように見えた。


「普通刺されねぇんだよ! 金無しの百姓なんて!」


 天井に吊したロウソクの火が、大量出血のあまり血の池と化した親父の腹を無情に照らす。


 いったい何度、回復魔法を重ねがけしただろう。


 もしも俺が、親父が刺されたその現場にいたならば、こんなにも狼狽することはなかった。肝臓に達する深い刺し傷には慌てただろうが、一縷の望みを胸に、治療に専念したはずだ。


「親父っ、目ぇ開けろ親父ぃ! 生きて……生きてくれよ! 俺を一人にする気かよ!?」


 ――回復魔法の限界――


 時間をかけることでいつか傷は塞がるが、失った血潮までが補填されるわけではない。


 家に帰ってくるなり何も言わずに倒れ込んだ親父の姿に、もう駄目かもとは一瞬思った。出血量が多すぎる、と。今さら回復魔法なんかが間に合うわけがない、と。


「何か言え馬鹿! ちゃんと起きてっ、何か言えよ!」


 見たくない見たくないと目を背けても…………腹の傷口から流れ出て、俺の手、俺の腹、俺の太ももへとこぼれ落ちていく生温かい液体が、肉親の最期を俺に囁くのだ。


「……フェ、イル……」


 俺の腕の中、親父の右手がゆっくり動いた。弱々しく震えながらも外套の内ポケットから麻の小袋を取り出すと、「こ――」それを俺に差し出して言った。


「これ、で……十六で……学校、行けるだろう……?」

 ジャラッと小袋が鳴り、それは袋の中の貨幣が発した音だ。


 その瞬間すべてを察した俺は、小袋ごと親父の手を両手で握り締め、「金なんか――っ!! 親父がいなけりゃ、召喚術師になったって誰にそれを見せるんだよ!?」悲痛に顔を歪める。


 それでハッとしたような親父。もはや苦笑いする余裕も時間もなく。

「こんなはずじゃ、なかったんだ」

 最後の最後に、後悔の表情を浮かべるのである。今にも泣き出しそうな痛ましい顔を。


「こんなはずじゃ――」


 俺は歯が割れそうになるぐらい強く歯噛みし、「ふざけんな。ふざけんな馬鹿野郎がぁ」止めどなく溢れる涙、鼻水をぬぐいもしなかった。


 そして、ふとした瞬間、全身からあらゆる力が喪失し――疲れた――その一心に思考のすべてを支配されるである。親父を腕に抱いたまま、涙と鼻水も垂れ流したまま、動けなくなる。


 やがて濡れた顔を血まみれの左手でぬぐおうとして――――そこで『夢』から目が覚めた。


「……………………けったくそ悪ぃ……」


 目蓋を上げると俺は石の地面に突っ伏しているらしく、生々しい夢から引きずった感情のせいで寝覚めは最悪だった。剥き出しの背中、両肩も冷え切っている。


 どこだここ? どういう風に寝たんだっけか?


 夢の記憶を脇に寄せて現実の記憶を掘り起こしてみるが、すぐには答えを得られなかった。深夜一時までバイトして、這々の体で学生寮に帰り着き、最後の力を振り絞って寮の共同浴場に入り…………そこまでだ。湯船に浸かった後の記憶がまるでない。


「……危ねえ……死ぬとこだ……」

 溺死せずに目覚められた幸運をうめき、石の地面に手を突いて身体を起こす。


 どうやら俺は大浴槽の縁に上半身を乗り出した形でうつ伏せに寝ていたらしく、下半身はまだ湯の中にあった。


 共同浴場の天井に並ぶ魔術灯のおかげで、辺り一面、昼間のように明るい。


 二十四時間風呂入り放題の大盤振る舞いは、バイトで遅くなることも多い俺にとってはありがたいばかりだが、とにもかくにも寝落ちが怖い。寝落ちで死んだら、死んでも死にきれない。


「はあ――」

 湯船の側面を背もたれに、首まで沈めた俺。


 冷えた背中と肩が温まったらすぐに出ないと。今何時だろう?

 そう思って視線を持ち上げたら――「うおっ!?」顔を上げた俺の真っ正面に、誰かが足を開いて立っているではないか。死ぬほど驚いたが、湯船のせいで後ずさりもできなかった。


「ようやく起きましたね」

 薄い湯気を纏って俺を見下ろしていたのは、純白の湯浴み着で肌を隠した白金髪美少女。


 腕組みをして堂々たる立ち姿のサーシャ・シド・ゼウルタニア。


 とはいえ……薄衣の湯浴み着が濡れて素肌に張り付き、ほとんど全裸のようなものだ。腕組みした腕に乳房がたっぷり乗るほどの巨乳。しっかりくびれがある分、腰回りの色気も凄い。

 古の聖者や古竜さえ誘惑できそうな、美の女神に近しい肉体だと思った。


「…………驚いたな、姫様と混浴とは」

「驚いたのはこちらです。お風呂に入るなり、湯船にフェイル・フォナフが引っかかっていたのですよ?」

「叩き起こしてくれりゃあよかったのに」

「揺り起こしはしました。でも、ウンともスンとも言わなかったものですから、ひとまず様子を見ていたのです。フェイル・フォナフと言えど、寝ている分には静かでしょう?」


 平然と俺を見下ろしているサーシャだが、俺に見返されて恥ずかしくはないのだろうか。


 利用者の少ない深夜零時から夜明けまでは混浴の時間帯。寮生ならば男でも女でも共同浴場が利用できる。

 ただ、異性の利用中は利用を控えるのが一般的だし、そもそもサーシャの部屋は内風呂付きだったはずだ。実技成績が学年一位の学生には特別豪華な部屋があてがわれる。


「……今何時だ?」

「じきに朝が来ます」

「やべえな。何時間寝てたんだ俺。……ていうかサーシャ、そろそろ『王様立ち』はやめてくれ。いいかげん目のやり場がない」


 俺の苦々しい困り顔を見て、サーシャがお湯の中に腰を下ろした。そして俺の顔から一切目を離すことなく、「またアルバイトですか?」とまっすぐに問うてくる。


 俺は湯船から上がるわけにはいかなかった。

 サーシャのせいでどうにも下半身が熱い。そしてそれを見せ付ける趣味もないので、この金髪娘がどこかに行ってくれるまでこの場に留まらざるを得ないのである。


「人手が足りてなくてね。店が流行ってんのはいいが、ここ一ヶ月ずっと日跨ぎだ。厨房は過酷だし、時給八百六十ガントじゃあ割に合わねえ」

「八百六十? それが大衆酒場の普通なのですか?」

「普通だよ。麦酒一杯二百ガントの安酒場だぞ? 大通りの高級料亭じゃねえんだ」

「……なるほど。私もまだまだ勉強不足ですね」


 さっさとどっか行ってくれ――そう思ったりもするが、なぜだかサーシャは動く気配を見せない。だから俺は、新しく生まれた疑問に「ん?」と首を傾げ、言葉を投げかけた。


「なんでサーシャ、俺のバイト先が酒場って――?」


 するとサーシャはもったいぶることもなく、至極当然のことのように答えてくれる。

「あなたの労働許可申請を承認したのが私だからです。私は、あなたの同期生ではありますが、シドの王族として学院の理事の一人でもありますので」


 初耳の事実。俺は目を丸くするしかなかった。


「そりゃ凄え。全然知らなかったな」

「ずるいと思いますか? 学院運営側の人間が、学年一位の召喚術師で」

「いいや。大天使といい、あの召喚術を見れば、誰だってサーシャが一位と思うだろ。ただ、なんつーか……姫様と学生の掛け持ちは、大変そうだと思ってよ」

「あなたほどではありません、フェイル・フォナフ」

「ん?」

「今、町で働いているのはあなた一人です。普通の学生は術式研究と戦闘訓練で一日潰れるのに、そこから更にアルバイトだなんて。ひどい言い方ですが、狂気の沙汰では?」


 歯に衣着せないサーシャ。


 俺は思わず「くはははっ」と笑い、湯船の縁に思い切りもたれかかると――ガラス製の魔術灯が並ぶ天井を見上げるのだ。百年前に発明されたという白色光に目を細める。


「魔術師はあれだが……上級職の召喚術師ともなると、金持ちのボンボンが多いからな。学院の学費はクソ高ぇし」


 その仕草がひどく疲れて見えたのだろう。サーシャが神妙な声で聞いてきた。


「どうしてそこまで必死に?」


 俺は力なく苦笑して「そりゃあ金も時間もねえからさ」と。お湯をすくって軽く顔を洗う。


「……他の一年と違って、もう二十だ、俺は」


 疲労困憊のため息は湯気にまぎれて消えた。風呂から出たら、一限目の“精霊召喚形成論”が始まるまで図書室で借りた魔術書を読み返しておこうと思う。


「遠回りした分、どこかで無理はせにゃあならんだろうよ」

「……学院に入学を認められたのは、四年前――十六歳の時とも聞きましたが」

「恥ずかしい話、入学金を貯めるのに手こずってね」

「……そうですか」


 この話題を続ければ俺の地雷を踏みかねないと直感したのかもしれない。サーシャはそれ以上突っ込んでくることはなく、「そういえば――昨日の試合、よくも舐めた真似をしてくれましたね」と言って、がらりと話を変えた。


「はあ? 俺たちが好きでおちょくってたと思っているのか?」

「違います。服を狙ってきたり、虫まみれにしてくれたり――それはよろしい。でもフェイル・フォナフ。あなた、私を前にしても、また『片割れ』を召喚しなかったではありませんか」

「……ああ、そのこと……」

「私は、私の『片割れ』であるセシリアを喚びました」

「こっちはシリルがザイルーガを出したじゃねえか。ザイルーガだってあれだぞ? その辺のチーム相手なら、一頭で無双できるバケモンだぞ?」

「足りません。戦闘向きではないミフィーラの『片割れ』ならまだわかりますが、いつになったらあなたは『最高の召喚獣』を出すのです? いつまでも隠し続けて」

「……………………」


 言ってくれる。こっちの事情も知らないで。


 シリルなら“剣虎王ザイルーガ”、ミフィーラなら“星空の口笛吹きパロール”。すべての召喚術師には、例外なく、魂の相棒と呼べる召喚獣が存在する。


 俺たち召喚術師は、『時代を超えて無条件に応えてくれる相棒』の力を借り、『他者を召喚するという感覚』を手に入れるのだ。

 ともあれ、その経験がなければ、どれほど優れた魔術師とて召喚術師になれはせず――俺だって当然、入学式の前日に、ひっそり召喚童貞を捨てた。


 最初に召喚に応じてくれた召喚獣のことを『片割れ』と言う。

 そして往々にして、その『片割れ』こそが、その召喚術師にとって最強・最高の召喚獣であるのだった。


「俺に似て聞き分けのない奴でね。試合に出すには色々準備が足りてねえんだ」

「スライムや虫の群れが、フェイル・フォナフの本領ではないと?」

「無論。策を練るのは嫌いじゃねえが、真っ向からでもやれるってことを見せてやるよ。次回は、な」


 すると、「ふふふ。次回、ですか」ようやくサーシャがお湯から立ち上がり――肌に張り付いた湯浴み着のすそから滴り落ちる水滴がやけにエロい。


「確かに、あなたたちのチームとはまた戦う気がします。それも近いうちに」


 俺は湯上がりのサーシャを見上げつつ口の端を持ち上げた。

 男の視線を気にしない度量も、深い谷間をつくった胸の肉も、色っぽい肉付きの腰回りも、十六歳のくせに立派すぎると、もはや笑うしかなかったのである。


 姫君の色気なんぞに気圧されたくなくて無理矢理強がったら。


「召喚祭で待っててくれ」

「召喚祭で待っています」


 ちょうど言葉が重なった。

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