俺の召喚獣、死んでる

楽山

第1話 召喚術師、大天使にあがく

 瓦礫の中から見上げた空には、美しいものしか存在していなかった。


 吸い込まれそうなぐらいの深い青に色付いた虚空、陽光を受けて明暗強く光り輝くちぎれ雲、そして――六枚の白翼を大きく広げた大天使が一人。


 正直、驚愕と感動で息が詰まる。


 この世界には俺の想像の及ばない『壮麗たる美』があって、それが俺の命を狙ってきたということにひどく感心したのだった。なんだか面白くなって思わず「はははっ」と笑いが漏れた。


 なんにせよ大天使の存在感が凄い。


 だいぶ上空――それこそ、ちぎれ雲のすぐ下ぐらいに浮いているくせに、雲とあまり大きさに違いがないのである。余裕で大の男十人分ぐらいのタッパはあるはずだ。


 大天使は、腰まで届く長い金髪を西の風に流しながら、銀の仮面で完全に顔を隠している。


 ずいぶんな軽装、と言うべきなのだろうか。前腕と膝下はしっかり銀の装甲に覆われているものの、それ以外は魅惑的な女性の輪郭が露わになるほどの薄着だった。

 両肩は剥き出しだし、装飾の美しい胸当ては乳房ぐらいしか覆っていない。へそから股間、そして尻へとぴったり張り付いた白い薄衣はむしろ扇情的と言えて……小さな腰鎧が守っているのは大天使の腰側面だけ。大天使の尾てい骨あたりからは、純白で幅広な長布が尻尾のごとく一枚垂れて、風になびいていた。


 この世には天使に恋慕する男も多いと言う。


 それもそのはず、あんなにも人間に酷似し、あんなにも洗練され、あんなにも崇高なのだから、大体の人間は天使に心奪われるのが普通なはずだ。


 無論、俺だって嫌いじゃない。例え即死級の攻撃を撃ち込まれた直後でも、だ。


「がっ――だっはあ!!」


 渾身の力で瓦礫を押しのけると同時、一気に上半身も起こした俺。一瞬でも天使に見惚れてしまった気を取り直すため、自分の頬に力いっぱい張り手すると。

「おおい二人ともぉ!! 生きてっかあ!?」

 軽く咳き込みながらもそう呼びかけた。


「くっそ、あの女ムチャクチャだ。こっちを殺しに来てやがる」


 聖職者の法衣にも似た、すその長い魔術師服の砂ぼこりを払いながら立ち上がる。


 と――すぐさま隣の瓦礫が噴き上がって、褐色の肌を持つ長身の色男が現れた。


「そんなの、お前が虎の尾を踏んだからだよ、フェイル」


 そう言うなり、三つ編みでまとめるぐらいに豊かな金髪を掻き上げる。自分が埋まっていた瓦礫の下に手を伸ばし、「大丈夫かミフィーラ? どこも怪我はないか?」と、魔術師服の袖をだぶつかせて十六歳には見えない小柄な少女を引っ張り出した。


「スライムで服を溶かしてサーシャを止めようなんて、上手くいくわけがないだろうに」


 シリル・オジュロック。


 召喚術師養成学校――通称・学院――の一年生男子だ。


 俺と“学位戦”のチームを組む一人で、彫りの深い顔立ちと宝石のような青い瞳が学院の女子連中に引っ張りだこの美形。鍛え抜かれた褐色の長身は俺よりも頭半分高く、その運動能力はほぼ間違いなく学院最上級だった。


 男のくせに三つ編みなんておかしいと笑う輩もいるが……世の女性の大部分はシリルの三つ編みを可愛らしいと断言するはず。そんな品の良さがシリルにはあった。


 なにせ大貴族オジュロック家の跡取り息子である。気品・洗練・誇りという言葉はこの男のために存在し、本人の資質と努力も必要十分。

 性格だって十六歳になったばかりとは思えぬほどに落ち着いていた。


 俺と同じ『召喚術師』のくせに、近接戦闘を主とする特異な戦闘スタイルだからだろう。今日ばかりは学院指定の魔術師服ではなく、実に貴族的な詰め襟の軍服を身にまとっている。


「まったく……フェイルの思い付きも困ったものだ」


 シリルは足下に転がっていた自らの大剣を拾い上げると、「天使の一撃で僕の召喚獣もやられた。生きてるのが不思議なくらいだよ」抜き身のそれを地面に深く突き立てた。空いた両手で、隣に立つ小柄少女の服の砂を手早く払い落としてやる。


「待ちなさいミフィーラ。女の子が砂だらけのまま動き回るんじゃない」

 まるで過保護な父親のような物言い。


 俺が「ミフィーラ、そういうのは自分でやれるってよ」なんて苦笑しても。

「フェイルもミフィーラも無頓着が過ぎるんだ。学院公認で観客も入っている。それなりの身だしなみを彼らに見せるのも、学生の役割だと思うがね」

 シリルはそう言って小柄少女の黒髪までささっと整えてしまった。

 それから、俺たちの周囲をウロチョロ飛んでいた『羽の生えた丸鏡』へと優しく笑いかける。軽く手まで振った。


 丸鏡に映った景色は五千を超える観客の前に繋がっているのだ。


 だから今頃きっと、学院の多目的ホールでは、シリル目当てに詰めかけた婦女子たちが黄色い声を上げてぶっ倒れていることだろう。


 ……広大な学院の裏庭を舞台に戦っている俺たちは、マジで死にそうだってのに……。


「お姫様、恥ずかしがりもしなかった」


 小柄少女がそう呟いて俺に向くと同時、彼女の頭頂部あたりで髪が一房ぴょこんと立ち上がった。シリルにいくら整えてもらっても元々が強烈なくせ毛気質、ミフィーラの爆発頭はいつものことだ。


 ミフィーラ。彼女自身が苗字を名乗らないので、ただのミフィーラ。


 最小サイズの魔術師服を着てもすそを引きずるほどに小柄なせいか、街の市場を歩けばお使い途中の十歳児に間違えられる。


 とはいえ、学院の中でミフィーラのことを知らない人間はいないだろう。


 学院入学前に“大奇書アウトピグラム”の解読に成功したという大天才。

 死と運命の観測者と目される“死精霊”が棲み着いた亡骸をこよなく愛する変わり者。


 必要なことを必要最低限だけ口にする性格といい、くせ毛の前髪に半分隠れた顔といい、ミフィーラの魅力に気が付く男は滅多にいないが……小さな身体でこちらを見上げてくる彼女をまじまじ見返してみれば、金色の瞳を持った超絶美少女がそこにいることがわかるはずだ。


「そうだな。割と良いやり方と思ったんだけどな」


 俺は、ミフィーラの頭をくしゃくしゃと撫でつつ、つい数十秒前と比べてずいぶんと景色の変わった辺り一帯をぐるりと見回してみる。思わず苦笑混じりのため息が出た。


 大天使の放った光の槍、その尋常ならざる破壊力によって裏返った大地。

 ところどころに岩が見え隠れしていた広い草原も今や、割れ砕けた大地がその下の地層ごと激しく隆起した荒れ地と化し、世界の終わりのごとき様相を呈していた。


 よくもまあ全員生き残ったと思う。

 一歩間違えれば砕けた岩に押し潰されていたか、深く裂けた地面に落ちていたかもしれない。


 ……これほどの破壊をもたらした『サーシャ・シド・ゼウルタニア』……。


 正直、俺と彼女を比べれば、召喚術師としての実力差は天と地ほどもあるのだろう。どうあがいても埋めようのないぐらい大きな差が……。


 そんなことを考えてほんの一瞬気を抜いてしまった隙。

影盾シャドウシールド

 天に伸ばされたミフィーラの人差し指に光が灯る。日没間近の空のような、なんとも美しい紫色の光。光はすぐさま消えることなく、ミフィーラの指先の軌跡を空中に残した。


 ミフィーラが簡易な魔法陣を一筆書きで描いた直後、地面にへばり付いていた俺の影がいきなり立ち上がり――死角から襲ってきた雷撃に対する盾となってくれる。


 目の前で雷撃が弾けてハッとした俺。 

「ちっくしょ! 完全にボケてた!」

 なんて舌を鳴らすと、即座に魔術師服のすそを持ち上げて走り出すのだ。


「クソ真面目どもめ! 一息つく暇も与えちゃくれねえ!」


 積み重なった岩の段差を乗り越え、ヒビの入った地面を踏み越え、何はともあれ全力疾走で逃げる。


 空を見上げれば、大きな翼を広げた天馬が二頭、それぞれ見目麗しい女召喚術師を背中に乗せて飛んでいるだろう。

 そして、二人の女召喚術師は、今まさに次なる電撃魔法を放とうとしているに違いない。そんな当たり前のこと、わざわざ見なくてもわかる。


 ――――――――――――


 ほら。来るかもと思った瞬間、俺のすぐ真後ろに幾つもの落雷。


 ミフィーラを抱きかかえて走るシリルが怒りの声を上げた。

「サーシャのチームメイトは、彼女の一番の崇拝者だ! フェイルのスライムにおちょくられれば、本気にもなるだろう!」

「おちょくった覚えはないねえ! 見解の相違で殺されてたまるかよ!」


 矢継ぎ早に撃ち込まれる雷撃。


 当たったら死なないまでも昏倒は必至なはず。少しでも速度を弛めれば狙い撃ちされるのはわかっていたから、俺もシリルも格好をかなぐり捨てて走り続けた。


「そこに直りなさいフェイル・フォナフ!」

「よくもあのような下劣な真似を! 誇りはないのですか!」


 上空から降ってきた女の怒号。俺は思い切り天を仰ぎつつ言い返す。


「馬鹿めがぁ! 跳ねたスライムなんぞに引っ付かれたサーシャがのろまなだけだぁ!」


 直後、俺たちを狙う電撃魔法の数は倍以上に増えたが、狙いはさっきよりもだいぶ荒くなった。いや――違う。まるで俺たちをいたぶるような、追い立てるような雷の乱舞だ。 


 瓦礫の山を最高速度で跳び越えた俺、「余裕かよっ。遊びやがって……っ!」絶体絶命の窮地がなんだか面白くなって、笑いながらシリルとミフィーラに問いかけた。


「さて、次は何だ!? 何をやる!? 何ができる!? 何をやりたい!?」


 答えるシリルは、至近距離での雷鳴にも負けない大声を唾と一緒に飛ばしてくる。

「まだ諦めてないのか!? 僕ら三人、サーシャたち相手によくぞここまで生き延びた! 大怪我する前に降参した方が良い!」


 俺も負けずに大声を返した。

「冗談! さっきの一撃、向こうは『防御不可能な攻撃』で警告だ! 次の警告で反則負け! 絶好のチャンスだろうが!」


 そして、遙か上空、ちぎれ雲の真下に浮かぶ大天使を指し示す。

 そこには、ついさっきまでいなかった大鷲の上半身と獅子の下半身を持つ怪物――グリフォンが飛んでいて、グリフォンに騎乗した魔術師服の男が、大天使に向かって何事か告げているように見えた。


 俺が指し示した空を素早く確認したシリル。直後、その美形を驚愕に歪ませて言った。

「本気でサーシャに勝つ気なのか!?」

「本気で勝つ気だよ! 負けることなんざ考えて戦ってねえ! いつもと同じだ!」

「怒ったサーシャなんて前代未聞なんだぞ!?」

「初めてだってんなら弱くなってる可能性もあんだろが! 百人が百人、怒りで強くなるわけじゃねえよ!」


 雷撃の雨あられに追いかけられての全力疾走ももはや一分以上。

 筋肉優先で血液が回っているせいか、どうにも頭が回らない。試しに側頭部をガンガン叩いてみても反撃のアイデアは俺の中になかった。何はともあれ、肺が痛い。酸素が欲しい。


 もどかしい瞬間に、「フェイル。あれ、やろう」とミフィーラの静かな声。


「あれ?」


 酸素不足の俺では、ミフィーラが口にした指示語の意味をすぐに思い付けず……三秒かかってようやく「合体召喚か」笑みをこぼした。ブーツの踵を地面に刺して急ブレーキをかける。


 完全に静止するより早く、反転しながら片膝をついた俺。指先に精神を集中させると、人差し指と中指に青い光が生まれ――その光を地面になすりつけるように魔法陣を描いた。

 描画時間はわずか二秒。 


大地隆起ランドライジング!!」

 円の内部に四角形を二つ配置した魔法陣の完成と同時に、力強く呪文を唱えれば。


「フェイル・フォナフ!」

「小賢しい真似を!」


 次の瞬間、俺の触れていた地面から巨大な石柱が一本飛び出し、天馬二頭からの雷撃をもれなく防ぐ分厚い壁となった。


 空を駆ける天馬たちは急停止できず、猛スピードで俺たちの頭上を抜けていく。あの調子では、百八十度旋回してこちらに向かってくるまでに、少々時間が必要となるだろう。


 その隙だ。


「夜の内に蠢く者ども、大地の下に巣くう無垢なる魂。数多の眼は暗き風を捉え、やがてヴァヌーカの巨森をも喰らうだろう。古き花は開き、今、汝らの長き歴史に栄えの時が来たり」


 俺は、魔術師服の内ポケットから小振りの革張り本を取り出し、不可思議な詩を唱え始めた。


 見れば――シリルの腕の中でも、ミフィーラが俺と同じような本を開いている。

「涙の神クローカより出でし静寂の子。月夜の果てに巨人は倒れ、骸にて夜明けを待つ。凍てついた朝に骸、静寂は風をしのぐ外套を纏うだろう。今、汝の沈黙に終わりの時が来たり」


 それで慌てたのはシリルだ。

「待て待て待て待て!」


 ミフィーラを抱えたまま俺のところまで走ってきて眉をつり上げた。

「待てって二人とも! 合体召喚ってのは、この前試したあれか!? あれは禁忌の技だぞ!?」


 しかし俺は「禁忌だあ? 何のルール違反だって犯しちゃいない。ただの創意工夫だぜ」なんて言ってシリルの制止を突っぱねる。何せ、手にした本からお目当てのページを見つけ、今しがたそらんじた詩文を指でなぞるのに忙しかったのだ。


 勝負の分かれ目で妙な気を回してどうすんだ――そんなことを思って苦笑が出た。


「絶対に怒られるぞ!?」

「いいじゃないか。どうせやるなら、とことんやってこそだ」


 そして、俺とミフィーラが、手にしていた革張り本を同時にパタンと閉じる。


 その直後――――俺の背後に青色の巨大魔法陣が一瞬浮かび上がり、シリルに抱きかかえられたミフィーラの場合は紫色の巨大魔法陣が地面を覆うのだった。


「あのサーシャ・シド・ゼウルタニアに、悲鳴上げさせてやる」


 俺がそうニヤリと笑った直後――ガシャンッ――ガラスが盛大に割れるような音。


 それで音の出所を探れば、俺たちの頭上の何もない空間から巨大な腕が伸びているではないか。筋骨隆々ながらも青白い、巨人の腕が、肘まで。


 その腕は『世界の境界面』をぶち破って唐突に俺たちの世界に出現しており、ちらりと見えた境界面の裏側は星のような光が瞬く漆黒であった。


 腕だけではない。やがて、二階建て家屋すらも楽に見下ろせそうな巨人の全身が、境界を壊しながら現れる。茶色い長髪で、腹回りにはでっぷりと肉のついた、腰布一枚だけの巨人。

 真っ先に感じた印象が、雄々しさではなく不気味さだったのは、その巨体にもう命が宿っていないからだろう。


 虚ろな双眸。半開きの口から垂れた長い舌。血の通うことのない青い肌。

 巨人を動かすのは巨人自身の意志ではなく、その冷たい肉を住処とした“死精霊”なのだ。


 死臭を好み、死体の腐敗さえも操作する風変わりな精霊は、火・水・土・風の四精霊に次ぐ強大な存在として知られている。“死の神クローカ”の御使いとして信仰している者も多い。


 ミフィーラが召喚したのは、遙か昔に生きた巨人の亡骸に宿った死精霊をまるごと。


 はたして……彼女は、どの時代の怪物を喚んだのだろう?


 死精霊が腐敗を操作するとはいえ、我々“人の時代”なんかに巨人の死体が存在するわけがないし、気が遠くなるような大昔――“神の時代”の代物にしてはいまいち巨人に威厳がない。


 多分、“神の時代”と“人の時代”の間にあった“精霊と獣の時代”。

 神々すべてが隠遁を決め込み、精霊と獣たちが世界の広大さを謳歌していた時代に存在した化け物だと思う。大いなる巨人たちの末裔。神々とも戦った種族の最後の世代。


 召喚難易度としては、上の下ぐらいか。

 そもそも死精霊が召喚に応じてくれることが珍しいし、末裔とはいえ巨人の亡骸付きというのが召喚難易度を跳ね上げている。

 天才ミフィーラがやるから、容易く召喚できているように見えるだけだ。


 巨人の死体がひざまずくとさっそく「シリルもういい。もう自分で立つ」シリルの腕を抜け出て差し出された巨大な右手を踏んだミフィーラ。


「ミフィーラ。俺も乗る。乗せてくれ」

 彼女の後に続いて俺も手のひらに乗った。


 巨人の死体が膝を伸ばし、背筋を伸ばすと、すぐさま俺の身長の二倍、三倍という高い景色だ。風が吹き抜ければ不安定な足場にゾッとする感じさえあった。


「僕は知らないからな」

 足下からそんな声がかすかに聞こえ、見ればシリルが難しい顔をしているではないか。


 俺はあえて歯を見せるような笑みをつくって言った。

「隙はつくる。でかい一撃を期待してるよ、英雄」


 即座に帰ってきたのは「僕は知らないからな!」という強い怒り。


 ……とはいえ、仲間思いなシリルのことだ。ああやって怒りながらも、締めるところはきっちり締めてくれるはずだ。

 そうじゃないと普通に困る。俺たちが勝つには、どうしたってシリル・オジュロックの攻撃力が必要不可欠なのだ。


 巨人の死体に運んでもらってその右肩にぴょんと跳び乗ったミフィーラ。

 俺は、大きな頭を挟んだ左肩に立つ。巨人の長い髪を一房、命綱代わりにしっかり握ると、空に浮かぶ大天使を指差さして高らかに笑った。


「だーはっはあ!! 来やがれ大天使ぃ!」


 するとミフィーラも「大天使ぃ」と俺の後に続いて空を指差した。


 普通、俺たちの挑発があんな高い空まで届くとは思わない。しかし俺たちが対峙しているのは神話に謳われるような大天使。どんな小さな祈りさえ聞き逃すことがないというその耳は、当然至極、大天使自身への不敬にだって対応しているらしい。


 片側三枚ずつの大きな六枚翼を打つこともなく、大天使がゆっくり高度を下げてくる。

 太陽を背負って実に眩しい。だから俺は、流れゆく白雲が陽光を遮ってくれることを願った。


 やがて、巨人の背丈の五倍程度…………絶妙な高度で静止した大天使。強い西風に長い金髪をなびかせながら、何の意匠もないシンプルな仮面越しに俺たちを見つめていた。


「くははっ。当たり前に見下ろしてくるじゃねえか」

 俺は鼻で笑いながら、大天使のみぞおち辺りに視線をやる。


 大天使はその手に剣や盾を握るでもなく、重ねた両手に人間の少女を乗せていた。大天使の金髪よりも遙かに色の薄い――白金色の長髪を風になびかせる、涼しげな美貌の少女を。


 触れてみたくなるほどに綺麗な鼻筋に、綺麗な桃色に色付いた瑞々しい唇、真っ白な肌。 


 それにしても……なんと魅力的な紫色の双眸だろうか。

 珍しい色の瞳だけでなく、大きさと形まで完璧。綺麗な二重まぶたで、切れ長のくせに目尻がほんの少し下がっているために、神秘的ながらもどこか優しい印象なのだ。睫毛は長く、涙袋だってくっきり。


 きっと、地獄の悪魔だって、天上の神々だって、あの目に見つめらればきっと恋に落ちる。

 昔々、“愛と策略の女神パーラ”がその眼差しだけで怒り狂う魔獣を止めたなんて神話があるが、今の時代にそれができる可能性があるとすれば、あの双眸だけだろう。


 サーシャ・シド・ゼウルタニア。


 その名を知らぬ者は、学院はおろか、この地から山脈を四つ越えた先にだっていない。


 なにせ世界を分かつ八大王国が一つ、“シドの国”の第三王女。

 正真正銘の姫君なのだ。正真正銘、王宮のテラスから民草に向かって手を振ったりする身分の少女なのである。


「ったく……少しぐらい恥ずかしがってくれりゃあいいのによ。苦労してスライム当てて、観客たちにサービスしただけって……悲しくなるぜ」


 身に付けた魔術師服の所々に大穴が空き、かろうじて胸と腰回りを隠せる程度のボロ布と化してしまっていても、王女サーシャは足を肩幅に開いて堂々と直立していた。


 麗しき半裸の王女様が美しき大天使の手に乗っている理由――そんなの、あの大天使を召喚したのがサーシャだからに決まっている。


 どれほど高位の存在であれ、召喚術師の声に応じた時点で一心同体だ。互いの魂が強く結び付き、身体感覚、喜怒哀楽すらある程度共有することになる。

 つまるところ、俺たち召喚術師にとっては、ほとんどもう一人の自分。


 だからこそ。

「勝ち目なんてありませんよ、フェイル・フォナフ。大人しく降伏しなさい」

 サーシャのしゃべった言葉を大天使がそっくりそのまま声にするなんて、実に普通なこと。

 大天使の言葉は風によって消されることもなく……まるで天啓のように、雨のように、空から地上に降り注ぐのだ。一切のかすれもない綺麗な声だった。


 それで「くははっ! はははははっ!」と天を見上げて笑い出した俺。


「悪いなあ! 人様に勧められた負けを受け取るほど、素直じゃねえんだ俺ぁ!」

 なんて力いっぱいに叫んで空中に魔法陣を描く。


炎弾フレイムブレット!」


 短い呪文を唱えれば、魔法陣から大量の炎が飛び出した。たった一つで人一人燃やし尽くせるこぶし大の業火が合計三百以上、軍用の弓矢を凌駕する速度で大天使へと向かう。


「サーシャ様!」

「お守り致します! 光盾ホーリーシールド!」


 しかし、巨大な光の盾が俺の火炎魔法の前に立ちはだかり――大天使の足下に飛来した天馬が二頭、それにまたがった女召喚術師が大天使を守る光の盾を発生させたのだろう。


「相変わらず良い腕だ! むかつくぜ! ミフィーラぁっ、防御は任せたぁ!」

「了解フェイル。気絶する気でがんばって」


 そこから先は――――――――――――――――俺と天馬の女召喚術師、意地の魔法戦。


 深紅の火炎槍。紫の雷撃。青い巨大水流。無機質な岩石弾。薄緑色に色付いた風刃。


 俺はひたすらに思い付く限りの攻撃魔法を放ち続け、天馬の女召喚術師二人は光の大盾を展開しつつも破壊力を持った光線を撃ち返してきた。


「ちっくしょ、業罰光カルマライトたぁ厄介な魔法を――」


 直撃はミフィーラが「氷盾アイスシールドぉー」と分厚い氷壁を出して防いでくれたから良いものの、巨人の死体を逸れて地面に突き刺さった光線が爆発する。


「くっそ! 嫌がらせか――」

 俺は高く噴き上がった土を頭から被りながらも、必死に魔法陣を描き続けた。常に指先に全神経を集中し、青い魔力光を発生させ続ける。


 不意に――ズキンッ――とこめかみに痛みが走ったが、本格的な魔力切れはまだだいぶ先のはず。なにせ俺の魔力量は召喚術師の平均以上。学院でも中の上程度だからだ。

 少々大雑把に魔法を使っても、それでぶっ倒れたりはしない。


「どぅおーしたサーシャあ! ずっと高みの見物たぁ、王女ってのは良い御身分だなあ!」


 大量の攻撃魔法が激突しても崩れない光の大盾の向こう――魔法の打ち合いを静かに眺めていたサーシャに向かって、目ん玉をひん剥きつつ思い切り舌を出した。


 俺の全力のあおり顔が琴線に触れたのか、大天使がようやく大翼を打つ。


「馬鹿な。フェイル・フォナフたちにも見せ場が必要かと思っただけ。そんなに終わりたいのならば、今すぐにでも終わらせてあげます」


 一つの苦笑もなく冷たくそう言い放った大天使に、大人しく道を譲った二頭の天馬。


 次の瞬間、光の大盾も掻き消え、俺の放った火炎魔法が高度を下げてくる大天使を直撃するが……人の使う魔法が、神話の存在にそうそう通用するわけがない。

 真っ赤な火炎渦は大天使の下腹部中央に激突し、しかし激突した先からただの白煙と化していった。


「巨人の成れの果てが、あなたたちの切り札? それともまだ姑息な手があるのですか?」

「はんっ! こっちゃあ大天使様と殴り合う気でデカブツ喚んでんだ! 一発二発は付き合ってもらうぜえ!」

「……殴り合うとは。巨人といっても小さな末裔。セシリアの半分程度の体躯で、よくもそんな大それたことが言えたものですね」

「ははははは! そりゃあ確かになあ! だけどだからって、タッパのある奴がいつだって喧嘩に勝つわけじゃねえよ!」

「……弱い犬ほどよく吠えると言いますが……なるほど。フェイル・フォナフは、よほど負け犬になりたいようですね。わかりました。今、踏み斬ってあげましょう」


 『踏み斬る』などと聞き慣れない言葉を疑問に思った瞬間だ。俺は、視界全部がフッと暗くなったことに気付き、何だ? と視線を上げた。


 すると――――俺とミフィーラ、巨人の死体のすぐ真上に大天使の存在。

 太陽の光を遮ったのは、大天使の巨体とその背から伸びる六枚の白翼だったのである。


 人間の意識を超えた神速。

 俺にできるのは、銀の装甲に包まれた右踵に光の剣身が出現し、それが巨人の脳天に突き刺さるのを眺めるぐらいだった。

 大天使が地に降りるにつれ、巨人の死体が両断されていく。


 崩れ落ちる巨人の死体。いくら巨人の長髪を握っていようが、死体自体が自立できなければ、それに巻き込まれるだけだ。流れゆく景色が途端に遅くなったように感じた。


 低速の世界で俺が見つめたのは、大天使のみぞおち辺りから俺を見下ろしていたサーシャの冷たい美貌。それで俺は、力を込めた人差し指で彼女を指差し、こう叫ぶのだ。


「引っかかったなぁサーシャああああああああ!!」


 直後――俺が見ていたサーシャ、大天使の姿が、巨人の死体の内部から溢れかえった黒い雲に覆われる。


 黒い雲の正体は、俺が召喚していた『羽虫・甲虫の大群』だ。何万という昆虫の群れだ。


 これぞ合体召喚。ミフィーラの召喚獣の腹に俺の虫たちを潜ませ、それを倒した相手を虫まみれにするという奇襲戦法である。


「だぁっはっはあああっ!! 素肌に虫はキツかろう!! どうだぁ、サーシャあああ!」


 俺が固い地面に叩き付けられる直前、真っ二つに割れて倒れたはずの巨人の死体が動き、地面と俺の間に手を入れてくれた。


 どれだけ死体が破損しようが、死精霊がやられたわけじゃない。例え八つ裂きにされたってミフィーラが召喚した死体は動き続ける。そこが実におぞましく、頼もしいところなのだ。


 俺が大きな手のひらから転がり降りるやいなや――巨人の死体は、大量の臓物をこぼしながらも高速で地を這って、大天使の脚にしがみついた。縦に割れた身体で片脚ずつだ。


 大天使の上半身は何万もの虫で真っ黒。

 仮面の顔も、豊かな胸も、引き締まった腹も、みぞおち辺りにいたサーシャさえも、層を成して群がった虫たちによって輪郭を失っていた。大量の羽音、外骨格の激突音と共に黒が蠢く。


 そして次の瞬間――――――――高く轟いた肉食獣の咆吼。


 “剣虎王ザイルーガ”なる巨獣が大地を踏み切って、大天使へと飛びかかったのだ。


 その四足獣は、ミフィーラの召喚した巨人の死体と比べて体高はないものの、全体としては一回り以上大きく、およそ比べものにならぬほどに力強かった。


 普通の虎や獅子の五倍という異様な体躯。

 毛色が灰色なのと、頭部を中心に全身のあちこちから剣のような鋭い角がやたらめったら伸びていること以外は、俺の知る虎によく似ている。太い前脚の先には、恐ろしく鋭い爪だ。


 シリルがいた。


「これでいいんだろうフェイル!!」

 軍服の色男は、角を手がかりにザイルーガの首にまたがり、片手で大剣を振り上げている。


 刹那――大剣と獣の爪がまったく同時に振り下ろされた。


 幾ら大天使とはいえ、視界を失っていてはシリルとザイルーガの一撃は防げまい。

 俺は勝ったと思って唇を歪め――――――しかし、大天使の全身からいきなり吹き上がった純白の炎。俺の虫たちを瞬時に消し飛ばし、両脚にしがみつく巨人の死体さえ灰に戻した。


 俺が絶句している隙、ザイルーガの爪が派手に弾かれる。


 ドラゴンすらも楽に狩れる巨獣の爪を受け止めたもの、それは純白の炎から伸びた長剣であり……重ねた両手にサーシャを乗せていたはずの大天使が剣を右手に握っている。


 そのまま今度は大天使の左手が動き、顔の銀仮面をそっと外した。


 そして、俺やミフィーラ、着地したザイルーガの上でバランスを取ったシリルは。

「ありがとう。楽しい小細工でした」

 露わとなった大天使の素顔がサーシャの美貌そのままであることを目撃する。


 俺たち三人、呆然と呟くしかなかった。

「……『背中合わせ』……」

「……サーシャができるっつー噂は聞いてたけどよ。大天使を相手に背中合わせかよ……」

「面白くないな。初めから、僕らに勝ち目なんてなかったわけだ」


 自らの召喚獣と身体を合わせ、心を合わせ、完全に一つになることを『背中合わせ』と呼ぶ。

 俺たち召喚術師にとって最高位の奥義だ。今の時代、『背中合わせ』ができる召喚術師なんて、世界すべてを探したって滅多にいない。どう多く見繕ったって、絶対、三十人以内だろう。


「ふう。気持ちいい風」


 サーシャの顔をした大天使が翼を強く打つと、風が巻き起こって純白の炎が弾け飛ぶ。


 強風が俺たちの魔術師服をバタつかせ――しかし俺たち全員、足を踏ん張ってその場に立ち続けるのである。

 召喚獣を倒された俺とミフィーラは、襲い来る心臓の痛みに魔術師服の胸元を強く握っていた。


 やがて「さあ。フェイル・フォナフ」と、城すらも両断できそうな長剣を地面に突き立てた大天使――サーシャが、俺だけに冷たい視線を落として言った。


「降参しますか?」


 俺はサーシャの美貌を睨み返すだけで何も答えない。

 胸を押さえたまま、「ぢ……ぃっ」奇襲失敗の悔しさと召喚獣を倒されたことで生まれた胸痛に歯を噛むばかりだった。


 遠く、試合終了を告げる鐘の音が鳴り響いた。


 試合を見守っていた学院の教師の多くに――試合続行は無意味。フェイル・フォナフたちに勝ち目はない――と判断されたらしい。

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