第2話 こわい夜

 これがぼくたちの新しいいのちの始まりだった。中流階級のいちばん下にいた、ちょっと貧乏なぼくとぼくの家族は、お父さんとお母さんの死を看取ってくれたドロボーさんのこどもになったんだ。友人たちとも離れ離れになったし、いまではもう彼らの顔を思い出せないくらい。

 やっぱり最初は悲しかったよ。大好きな人間たちが、ドロボーさんのせいでいなくなってしまったんだからね。でも、だんだんドロボーさんとの暮らしに慣れていったし、いまとなってはドロボーさんのことを懐かしく思い出すんだ。

 というのも、このドロボーさんは意外にいいやつなんだ。どうしようもないほど乱暴で、こわいもの知らずの人間だったけれど、天国と地獄の話が大好きだったんだ。ぼくと同じだったんだ。ぼくとぼくの家族を、最後まで天国に行かせようとしてくれたんだ。

 

 ともあれ、ぼくとぼくの家族は、ドロボーさんと一緒に暮らしはじめた。ドロボーさんの言葉は、なんだか楽しいものばかりだったよ。

 ドロボーさんは、自分の家にぼくらを招いた最初の日に、ぼくらに言った。


「死ぬっていうのは、恐ろしいことだ」


 お父さんとお母さんがさきほど死んだようだったから、その言葉はとても身近に感じられるものだった。ぼくとぼくの家族は虐待されてる子犬みたいに震えたよ。

 ドロボーさんの家は森のなかにある平屋で、暗かった。窓には黒いカーテンが引かれていて、光が入らなかった。この家のなかはいつだって夜だから、とても辛気臭いんだ。さあ、これからあたたかな晩ご飯を食べて、あたたかな寝床に入って、それからだれかの子守唄を聞きながら、気持ちよく眠ろうかな。いつだって、そんな暗さだった。


 ドロボーさんは自分のこどもに言うように、やさしく言った。


「いいかい、お子さんや。死ぬと、人間は天国に行くなんて、大間違いもいいところなんだよ。死ぬと、人間は地獄に行くんだよ。地獄で永遠に苦しむんだ。だから人間はみんな死にたくないんだよ」


 ドロボーさんは、くたびれた緑色のソファに座っていた。そうして、自分の隣に例の袋を寝かせていた。彼は袋のごわごわした布の上から、やさしくぼくの家族の頭をなでていた。袋は動かずに、袋らしく、ぐったりしていた。


 ドロボーさんが、お酒を飲みながら気持ちよさそうにぼくと袋を眺めていると、ふと、彼は自分の膝を叩いた。ドロボーさんは嬉しそうに微笑んで、膝の上に乗るようにぼくに言った。ぼくは素直に従ったよ。彼の膝に腰をかけるとね、匂いがしたんだ。人間の匂いだよ。動物の匂いだよ。いのちの匂い。


「おい、お子さんや。名前は?」


 ぼくは名前を言おうとした。でも、舌が全然回らなかった。

 彼はぼくの耳元で囁いた。


「名前は? ぼうやのお名前だよ。秘密なのかい? そんなに大事なものなのかい、ぼうやの名前は。ぼうやの名前は、教えちまったらどっかにプイといなくなっちまうもんなのかい? ハ、ハ」


 ぼくは小さな唇をぶるぶる震わせて、やっとのことで名前を言った。

 すると、ドロボーさんは、いい子だね、とささやいて、そうしてその大きな手でぼくの頭を撫でてくれた。


「いい名前じゃないか。ぼうやにぴったりだよ。それで、あの子のお名前は?」


 ぼくはぼくの家族の名前もこたえた。


「おう、おう。可愛い名前だ。あの子にぴったりな名前だよ」


 いいながら、ドロボーさんは別の手で袋をやさしくなでた。目が細くなっている。おじいさんみたいに、目尻に皺が寄っている。


「そうそう、おれの名前も教えてやらなくっちゃなあ」


 ドロボーさんの名前はとても短く、分かりやすいものだった。自分の名前を伝えるのが嬉しいみたいで、やたらにこにこしていた。にこにこするたびに顔のひふが裂けて、ぼとりぼとりと皮が落ちた。笑うたびに寿命が縮んでいるみたいだった。ひふの剥げたところはわずかに赤みがかっていて、部屋の暗さのなかで光っていた。彼の瞳も、うるんで光っていた。


「なあ、お子さんよ。お子さんは死にたいかい?」


 ぼくは首を横に振った。ドロボーさんはにっこり笑った。


「地獄に行きたいかい?」

「地獄……?」


 ぼくはオウム返しに聞き返した。


「さっき言ったとおりだよ。人間が死んだら行くところだよ」


 やさしいドロボーさんの声。


「でも……」


 ぼくはからだをもじもじさせ、両手を胸のまえでぐちゃぐちゃにかき回した。上目遣いで、皮がめくれたドロボーさんの顔をうかがった。ドロボーさんは目だけはしっかりしていて、灰色の瞳がぎょろぎょろ魚みたいに光っている。


「カミサマを信じれば、天国に行くって教わったよ」


 ぼくはそう言った。


 ドロボーさんは、ふうん、とぼんやりした顔で、相槌を打った。首を何度も捻り、ソファに背中を深くあずけて、しばらく天井をみあげた。かしこい人みたいに腕を組んで、人差し指でじぶんの二の腕を叩いていた。


 何分くらい経ったんだろう。

 ドロボーさんは粘っこいテーブルの上の酒瓶をひょいと取り上げて、一口飲んだ。そうして酒瓶をもったまま、ソファに背中をあずけたまま、もう一度ぼくに言ったんだ。


「なあ、お子さんよ。地獄に行きたいかい?」


 彼は最初の質問を忘れてしまったみたいなんだ。同じことをぼくに聞いてきた。ぼくはなんてこたえただろうか。それはやっぱり、


「ううん」


 と、いうものだった。

 ぼくは首を横に振ったんだ。

 すると、ドロボーさんは嬉しそうにくちびるを吊り上げて……それから黄色い歯を見せて、ハ、ハ、ハ、と笑った。口を大きく開けたせいでくちびるを切ってしまったらしく、イタ、イタ、とおかしそうに言った。


「それじゃあ、天国に行きたい?」


 今度は天国ときたもんだ。おひげでざらざらの頬を、ドロボーさんはぼくのほっぺたにこすりつけている。

 ぼくは、ぼくの息の届く距離にある、にこにこ笑った、大きくて茶色い、ひふのめくれたやさしそうな顔と、色素の薄い、にごった灰色の目をじっとみつめて――そしていのちの匂いを胸いっぱいに吸い込みながら――ウンとうなずいた。

 ドロボーさんのひげがほっぺたに強くこすれた。彼のひふがぼくのほっぺたにこびりついた。ぼくの膝のうえにぽろぽろ落ちた。


 ドロボーさんは言った。


「天国への行き方を知りたいかい?」


 ぼくは、ウン、と言った。

 ドロボーさんはお酒をゴクゴク飲んだ。お顔や目が真っ赤になるくらいに。


「天国はな、自分でな、自分で……首にわっかをかけて、自分で自分の首を絞めて……、自分を死なせてしまう人間が行くところなんだよ……。ああ、苦しい、苦しいって……その苦しみを耐え抜いたひとだけが、行けるところなんだよ」


「自殺?」


 と、ぼくは聞いた。

 ドロボーさんは手を叩いて喜んだ。


「そうだ、そうだよ。ぼうやはじつにむずかしい言葉を知ってるねえ……。そうだよ。自殺できるひとだけが、天国に行けるんだよ。カミサマがね、よくやった、よくやったって……。よくそんなことが出来たって褒めてくださって……、自殺したひとたちを天国に連れてってくれるんだ」


 ぼくは何もいわなかった。

 でも、ドロボーさんのやさしさだけは伝わってきた。彼はずっとぼくを膝の上に乗せてくれていた。ぼくのからだを後ろからやさしく抱きしめてくれていた。お母さんがそうするように、ちょっとからだを左右に揺らしながら、甘い声でささやきつづけてくれた。


 外では鳥のさえずりが聞こえはじめていたけれど、もちろん、ドロボーさんの膝の上は、ずっと真っ暗闇さ。


「おれは、お子さんたちが自殺したいっていうんならとめないよ。ああ、とめない。とめてなんかやるもんか。だってなあ、その先に、天国が待っているんだもんなあ。うん、お子さんたちも、いつかおれのもとから離れたいって言い出すだろうけど、それなら自殺するのがたしかに手っ取り早いんだよ。おれはとめないよ。とめないよ。ほら、ここには何でもある」


 彼は部屋をぐるりと見回した。


「ロープに、斧に、ナイフに、銃こそないが、なんだってあるよ。いつだってできるよ。いつだって。そうだ、道具なんか使わなくったっていい。ぼうやの小さな赤い舌を、ぼうやの可愛らしい歯で噛み切っても、ぼうやは、きっと死ぬことができるんだよ」


 ドロボーさんのピンク色の舌が、黄色い歯の前に顔を出した。


「ほら、ほら、おれの口をよく見てみろ。ほら、こうやって。こうやって。わかったか、こうやって……」


 ドロボーさんは、鳩みたいに首を前に突き出して、目を思いっきり見開いて、ひたいに皺を寄せて、自分の舌を噛み切る素振りを繰り返した。


「こうやって、こうやって……。ほら、こうやって……やってみろ。やってみるんだ。どうだい、どうだい、ぼうやは天国に行きたいんだろう。一度、やってみるんだよ……」


 ふいに、ドロボーさんがぼくのほっぺたを掴んだ。ぼくの口に手を突っ込んだ。そして、ぼくの舌を奥の暗がりから引っ張り出してきた。

 とっても痛かったよ。むせてしまった。吐きそうだった。つばが口のなかで溢れてさ、ドロボーさんの指をひたひたに浸していった。くちびるの端からさ、だらだらつばが流れてさ、犬みたいだったんじゃないかな。ドロボーさんの灰色の目が、ぼくの瞳をじっと覗きこんでいたよ。


「ほら、このベロを、こうやって、思いっきり噛み切るんだ。ホラ! こうやって!」


 ぼくの舌を押さえながら、ドロボーさんはもう片方の手でぼくの頭を掴んだ。そうして、ぐいと下に押し込んだ。ぼくの首はおもちゃみたいにうつむいてしまって……ぼくの歯は自分の舌を噛み切ろうとがんばったよ。ぐい、ぐい、と柔らかい舌のお肉をのこぎりみたいに噛み千切ろうとしたんだ。


 ぼくはまったく無抵抗だった。なんにも出来やしなかった。ただぐぅぐぅ蛙みたいな声でうなるだけ。


「ホラ……、ホラ……、どうだ。自殺するのって、難しいだろ……」


 どのくらいだったかは覚えてないけれど、きっと二、三分してドロボーさんは手を離してくれた。ぼくの口のなかにあったドロボーさんの手は、唾液でてらてら濡れていた。それでも彼は嫌な顔ひとつせず、それを自分の服でぬぐった。そうして、にこにこほほえむんだ。ぽろぽろ皮を落としながら。


「痛かったかい? 痛かったかい? そうだろう、そうだろう。自殺するってのは簡単じゃないんだ……。だけど、それしかないんだよ。お子さんたちが天国に行くには、それしかないんだよ。いつか、お前さんたちは、そうなるんだよ……」


 口のなかで血の味が広がっていた。

 消毒だと言って、ドロボーさんはお酒を飲ましてくれた。彼は、ぼくが恐る恐るお酒に口をつける姿を、なんだか神々しいものでもみるようにみつめていた。




  二、こわい夜




 もちろんだけれど、新しいいのちの朝はまだ終わらない。なんてったって、ぼくたちが生まれ変わったすばらしい日なんだから。

 次は、ぼくの家族の番なんだ。


 舌の消毒ということで、ぼくはお酒をすこしだけ飲まされた。ドロボーさんはそれを嬉しそうに見つめていた。で、ふと、何かに気づいたみたいだった。彼はようやく、自分の横に置いてあったその袋から、中身を取り出すことに気づいたんだ。


 ドロボーさんはぼくの家族を袋から引きずり出した。クリスマスプレゼントのぬいぐるみみたいに、ぐったりとしたぼくの家族が現れた。髪は乱れていて、ほっぺたや鼻にかかっている。パジャマはところどころまくれていて、細いからだがいまにもぽっきり折れそうだった。


 ぼくの家族は目を閉じたままだった。目を閉じて、寝たふりをして、じっと様子をうかがっているようだった。この部屋の匂いや、暗さや、広さや、汚さなどを、全身のひふで感じ取ってるみたいだった。


 ドロボーさんが、ぼくの家族の名前をやさしく呼んだ。ぼくの家族は返事をしなかった。彼はろうそくの光で、ぼくの家族の顔をまじまじと見つめ、ハ、ハ、ハ、と笑った。

 ほこりっぽくてかび臭い部屋の空気が、ぼくの胸のなかで震えていた。

 ろうそくのオレンジ色の光が、ぼくらの影をべたべた貼り付けていた。


「ヤア、ヤア、可愛い子。きみは、お腹が空かないかい?」


 もちろん、ぼくの家族は反応しなかった。でも、まぶたがひくひく動いている。ドロボーさんは肩をすくめた。で、ぼくをみて、同じことを聞いてきた。


「腹が減らないかい? おれは、腹が減ったなあ」


 ぼくは頷いた。すると、ドロボーさんはにっこり笑い、


「よしきた」


 テーブルの上にたたきつけるようにして、燭台を置いた。そうして、ぽろぽろしたほほえみをぼくに向けたまま、奥の部屋に入って行った。

 ぼくは耳を澄ました。彼の足音をじっと聞いた。そうして、彼の足音がすっかり消えて、がちゃがちゃ何かをやっている音を聞きつけると、ぼくはぼくの家族の前にひざまずいたんだ。


 ぼくの家族のちいさな頭、ほそいからだ。けがをしていないか確認してから、そのちいさな頭をなでてみた。ぼくの家族の目は、もうとっくに開いていた。目には涙がたまっていたよ。ぼくの家族は祈るような格好で、ぼくの胸に頭を押し付けた。そうして、寒さに耐えかねるみたいに、がたがた震えはじめたよ。


「おとうさん、おかあさん」


 と、ぼくの家族は声を出した。


「おとうさんとおかあさんは、もえちゃった? 灰になっちゃった?」


 ぼくは、タブン、とこたえた。続けて、


「でも、わからないよ。ぼくはみてないから」


 と、言った。

 ぼくの家族は、ぼくの胸に押し付けた頭をぐりぐり動かして、首を横に振っていた。息が胸に熱かった。


 もうあんまり思い出せないけれど、お母さんがよく言っていた。カミサマは生きているのよってね。お父さんもよく言っていた。カミサマの愛を信じ、その戒めを守ることが、われわれ人間のほんとうの幸せなんだってね。


 言っていることは、きっとドロボーさんと同じだった。お父さんもお母さんもドロボーさんも、そうしてぼくも、行きたいのは天国で、この身をゆだねたいのは甘い愛の幸せだった。

 なんて自分勝手な生きものなんだろう、人間って。出来れば地獄とか、そういうところには行きたくないんだね。



 さて、ドロボーさんが戻ってきた。どういうわけか、イーヌをつれて。

 ぼくの家族はぼくにしがみついたままだ。

 ドロボーさんは、ろうそくの光で自分の頬を照らしていた。そして言った。


「かわいそうに、かわいそうに。お子さんたちのお父さんとお母さんは、死んじゃったんだよ。血をダラダラ流して死んじゃったよ。からだに穴が開いちゃってね、そこから赤黒い血が流れて、トマトスープのなかのジャガイモみたいなカッコで、死んじゃったよ」


 ドロボーさんは、ぼくの瞳をじいっとみつめて喋っていた。


「それからね、そのジャガイモをたっぷり燃やしたんだよ。生煮えだと、ジャガイモも固くて美味しくないだろ。だからね、たっぷり燃やしたんだよ。たっぷりのトマトスープのなかでじっくり煮詰めたんだよ。ジャガイモがピンク色のジャガイモになってね、最後には表面がカリカリに真っ黒に焦げて、中身が鳥の胸肉みたいなまっ白になって、美味しく焼けたんだよ」


 ハ、ハ、ハ


「ひとはね、結局、死ぬために生きてるんだよ。さいごは美味しいほうがいいんだよ。ほら、こいつを見てみなよ」


 ドロボーさんがイーヌの首を、縄でぐいと引っ張った。

 イーヌは全身真っ黒で、ドロボーさんの膝くらいの大きさだった。ドロボーさんの足にぴったりくっつき、べろを出して、じっとぼくたちを見つめていた。耳は垂れている。真っ赤な口の横から唾液がしたたっている。


 ドロボーさんは言った。


「こいつはね、一週間ぐらいまえからおれんちに住みはじめたんだよ。餌をやったら懐いてね。嬉しそうに尻尾を振って、おれんちに転がりこんできたんだよ。さあ、こいつは何のために生きているんだい? このイーヌは、何のために生きているんだい。ほら、よおく見てみるんだ。よおく見て、よおく考えるんだ。ほら、ほら、分かってきただろ? 分かってきただろ?」


 ぼくの家族が頭をもたげて、ちょっとだけ笑った。ぼくの胸のなかから、じいっと、無口なイーヌをみつめた。イーヌはぼくの家族と視線が合うと、小さく尻尾を振った。目がやさしく光っていてね、人懐っこくて、頭がよさそうで、かわいいイーヌだったよ。


 イーヌのかたわらのドロボーさんも、ぼくの家族の笑顔を嬉しそうにみつめていた。あごを突き出して、眉間に皺を寄せて、鼻をひくひく動かして、ぼくの家族をみつめていた。


 で、ドロボーさんの視線がふとぼくに移ったんだ。顎をしゃくって、言ってみろ、と言った。どうしてこの犬は生きてるんだってね。


「そんなの、そのイーヌにしか分からないよ」


 びっくりするくらい、ぼくは生意気だね。そんなことを言ったんだ。ドロボーさんはにっこり笑って、ぼろぼろ皮を落として、頷いた。今度はぼくの家族にたずねた。


「きみは、どうだい? このイーヌはなんで生きているんだい?」


 ぼくの家族はこたえなかった。こたえる代わりに、ぼくの胸のなかから腕を伸ばして、イーヌの頭を触ろうとした。

 イーヌがぼくの家族の小さな手をみて、それから匂いを嗅いだ。で、赤い舌をべろりと出して、目の前のちいさな人間の手をなめた。

 するとね、ぼくの家族はきゃっと嬉しそうに叫んだんだ。この薄暗くて、湿っぽい、悪い夢みたいな部屋にはぜんぜん似合わない、とっても明るい声だったよ。

 ドロボーさんは驚いたみたいだった。目をまんまるに見開いて、ぼくの家族の顔をまじまじとみつめた。


 こどもらしい叫び声を上げて、しばらく、ぼくの家族はイーヌの頭をなで回していた。えらいことに、イーヌは首をすくめて、じっと耐えていた。ぼくの家族の顔をみあげながらね。

 ぼくの家族の目は、ただひたすらにイーヌの瞳をみつめていて、そのくちびるはほほえんでいた。涙はもうとまっていた。


「かわいい」


 ため息をつくように、ぼくの家族が言ったときだった。

 ぼくの家族とイーヌの様子をじっと見つめていたドロボーさんが、いきなりイーヌのお腹をボールみたいに蹴り上げたんだ。ぼんって音がした。悲鳴が犬の口からあふれ出た。聞いてるこっちが泣きたいくらいの悲鳴だったよ。ぼくたちは固まってしまった。突然の暴力にあんまりびっくりしてしまって、ぼくたちは恐々と、ドロボーさんの人形みたいな顔をうかがったよ。


「馬鹿やろう。イーヌってのはな、こうやって生きるんだよ」


 ドロボーさんは怒っていたんだ。やせた肩をいからせ、目とくちびるをふるふる震わせて、そのたびにぼろぼろ顔の皮が剥げ落ちていた。


 ア、ア、ア


 ドロボーさんは何か言おうとしていたけれど、どうも、興奮のあまり思うように発音できないようだった。くちびるをとがらせて、ぎゅっと固い握りこぶしを作って、ぼくとぼくの家族をにらみつけるんだ。


 ぼくの家族は口をぽっかり開けて、ドロボーさんの顔をみあげていた。イーヌは苦しそうに這いずっていた。身を低くかがめて、そろそろした足取りで、痛みに耐えるように震えながら、暗い暗い部屋の隅に向かっていた。


 ドロボーさんはそんな犬に追いすがると、もう一度お腹を蹴り上げた。

 すると、やっぱりもう一度悲鳴があがった。

 イーヌはもう、目の前の男がこの世界でいちばん危険な人間だってことがよく分かっていて、なんとかそいつから逃れようと必死だった。


 だけれどね、ドロボーさんはテーブルに置いてあった大振りのナイフを掴み取ると、床に横たわるイーヌの首根っこを押さえこんで、ざくざく喉を切り裂いていったんだ。容赦なくね。血が飛び散って、声が四方八方に飛び散ったよ。頭がおかしくなっちゃうような声だった。


 よくよく、ぼくもイーヌを食べたものだけれど、このときほど悲しいイーヌの声は聞いたことがないよ。機械をこすり合わせたようかすれた高音が、部屋中に響き渡ったんだ。ぼくは耳をふさいで、目をつぶって、しゃがみ込んだ。

 そりゃあ祈ったさ、でも、もちろん、心のなかでね。


 ぼくの家族はぼくとは違った。ぼくの家族はふらふらイーヌのもとへ歩いていった。

 それで、イーヌの死んでいく様子を、まじまじと、じいっとみつめはじめたんだ。

 その顔はみえなかった。だから、ぼくの家族のそのときの気持ちはわからなかった。


 ふと、ぼくの家族が、ドロボーさんをみあげた。ドロボーさんと目が合った。すると、ドロボーさんはぼくの家族の顔に何かいやなものをみつけたんだろうね、ぼくの家族をイーヌのうえに突き飛ばしたんだ。


 血がはじけた。ぴくぴくしていたイーヌのからだが大きく揺れた。ぼくの家族はイーヌの血のついた両手を、ふしぎそうに眺め回していた。


 ドロボーさんは何かに気づいたようだった。にっこり笑った。そうして、ぼくの家族の前にしゃがみこんで、


「わかったかい? このイーヌが、どうして生きているのか」


 と、やさしく問いかけたんだ。

 もちろん、わかるわけないよね。イーヌを蹴り上げて、殺して、それでイーヌの生きる意味がわかったかと言われても、ふつうの人だったら、ドロボーさんの精神状態がきわめて不安定だってこと以外はわからないよ。

 ぼくの家族は目をまんまるに開けて、ドロボーさんの顔をじいっとみつめた。


「わかっただろう?」


 そう言って、ドロボーさんはイーヌの血がついたぼくの家族の髪を、イーヌを殺したそのナイフでひと房切り取った。そうしてちいさなぼくの家族を、後ろから羽交い絞めにしてさ、ぼくの家族のちいさな指を一本切り取ったんだ。


 ぼくの家族は火がついたように泣きわめいたよ。

 で、ぼくの目は眠っていなかったよ。

 ぼくの目は開いていたんだけれど、どうもぼくのからだは眠っているようだった。動かないんだ。


「やめてあげて!」


 と、ぼくの右手はすこしだけ上がっているんだけれど、その右手は頼りなく震えていて、いつの間にか、ぼくの足の横に礼儀正しく降りていたんだ。


「ねえ……わかっただろう。イーヌはね、おれと、お子さんたちに食われるために生きていたんだよ。それでさ、きみの指も、髪も、みんな、おれと、ぼうやと、きみで食っちまうんだ。いいか、よおく味わって食べるんだよ。よおく味わってな」


 ドロボーさんは、イーヌの肉を鍋で煮込みながら、ぼくたちにそんなことを言った。ぼくの家族のちいさな指と、茶色の髪もそのなかに入っていた。


 ちなみに、ドロボーさんは調理を始める前に――ぼくの家族の指をナイフで切り取ったあと――その指をすぐに治療してくれたよ。ドロボーさんは目を潤ませていたんだ。


「痛かったなあ、痛かったなあ……」


 彼は、いかにも共感する素振りで言うんだよね。


「でもな……これで痛みがなにかってわかっただろう? 痛いのがどれだけ辛いかわかっただろう? 自殺がどれだけ大変か、わかっただろう? 天国に行くのは難しいんだよ。自殺するのは難しいんだよ。でもね、お子さんたちだったらきっと出来るさ。なあに、簡単なもんさ。そうさ。ちゃんといつかするんだよ、いつか。ふさわしいときと場所がきたら、それにふさわしく、自殺するんだよ。そうしたら、天国に行けるんだからさ。おれと一緒にね」


 ドロボーさんは教育熱心だった。治療を終えると、涙のあとが痛々しいぼくの家族に、料理を手伝わせるんだからね。指を切断されたほうの手を使えなかったから、ぼくの家族の動きはどうしてもたどたどしかった。ドロボーさんは、その不器用さが嬉しいみたいだった。


 お鍋のなかには赤黒い肉に、ちゃんとお野菜もあった。

 鍋がごとごと煮えている。ぼくの家族のパジャマには、赤黒い液体がくっついている。ぼくの家族の、折れそうなほどうつむけている首に、赤く腫れ上がった目。


 ドロボーさんが口を開いた。


「悪魔はいるんだよ! 悪魔はいるんだよ! 悪魔はな、お前のようなやつを食べちゃうんだ」


 ハ、ハ、ハ


 ドロボーさんが、すぐ横に立っているぼくの家族の、その茶色い頭に噛みついた。噛みながら、


 ハ、ハ、ハ、ハ


 って笑っている。

 ぼくの家族は、頭をドロボーさんに噛まれたまま、ワンワン泣いている。

 ぼくはそれをじっと見守っている。

 ぼくほど意気地がなくって、愛のないやつなんて、この世にはいないかもしれないね。


 ひとしきりぼくの家族で遊ぶと、ドロボーさんはぼくの家族を抱きかかえ、振り回して、ソファのうえに放り投げた。そうして、自分ひとりで調理をはじめた。


「いい匂いだなあ。人の匂いは、いい匂いだなあ」


 ドロボーさんはそう言うと、包丁を持ったまま、ぼくのもとにやって来た。

 ぼくの目は潤んでいたと思う。潤んだ目でドロボーさんを見上げて、ぼんやりしていたと思う。


 ドロボーさんはぼくの手をとって、それをやさしく、ねちゃねちゃしたテーブルのうえに乗せた。そうして、包丁を振り上げた。ぼくの小指のうえにそれを叩きつけた。ぼくの小指が机のうえに転がった。血がどくどく噴き出した。その血をべろりと舐めて、


 ハ、ハ、ハ


 と、ドロボーさんはとっても嬉しそうだった。


「ほら、お前さんのもお鍋に入れなきゃな。きみはお兄さんなんだからね。ほら、ぼうや。死ぬってなんだい? 死ぬってなんだい? 言ってみるんだよ、ホラ、言ってみるんだよ」

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