ねえ、ミス・マージョリー
市川翔
第1話 ぼくのドロボーさん
みんなに想像してほしいことが一つだけあって、それは森のなかで、仲むつまじい四人が顔をつきあわせて、だれにも内緒の暮らしをしている風景なんだ。この風景こそいまのぼくたち四人の姿であって、この暮らしをしてからもう何年か経つ。あまりに平和で、あまりに幸せ! だから、ぼくたち四人はいつ死んだって後悔なんてしないし、実際この生活はほとんど死んでるようなもんだよ。
ここで思うのは、ぼくたちが死んじゃって、ぼくたちの笑顔が死体から消えちゃって、それで誰かがぼくらの死体を眼にしたとき、もしかしたらぼくたちの幸福が、ぼくたちの不幸として認識されてしまうんじゃないかってことなんだ。ぼくはそれを想像するとちょっとだけ悔しい。もちろん、ほとんど死んでいるぼくたちは、死ぬこと自体は悔しくはない。でも、ぼくたちの幸福を、誰かが不幸だと認識しちゃって、それをほかの人に悲しそうに告げるのが、ぼくとぼくたち四人には我慢できないのだ。それで、ぼくは、ぼくたちがどうしてこんな生活を送ることになったのかを、しばらく書き付けてみようと思ったわけだ。
ただね、ぼくがちょっと怖く思っているのは、以下に出てくるぼくたちの思いが、異常なものとしてだけ認められるかもしれないということなんだ。きみたちから見たら異常かもしれないんだけど、実際、ぼくたちにとってはそれが自然で、いかにも考えざるをえない問題だったりするんだよ。ほら、人にはそれぞれこだわりがあるじゃないか。ぼくらのこだわりは、一般的にみて、ちょっとヘンテコなだけなんだ。
ぼくの願いは、きみたちが、顔をしかめないでぼくたちの話を聞いてくれて、「へえ、そうなんだ!」と相槌を打ってくれることだけ。ほら、かんたんなことでしょう? 動物園に行っても顔をしかめないでいられるきみたちだったら、とてもかんたんなことだと思う。
でも、まあ、きっと最後まで読んでくれたら、ぼくたちがどんなふうに幸いな人生を歩んできて、これから歩もうとしているのかを理解してくれるに違いないって思うんだ。
一、ぼくのドロボーさん
ぼくとぼくの家族は、中流階級のいちばん下にいるような人間だった。お父さんは郵便配達人で、自転車を毎日こいでいた。お母さんは洗濯婦で、朝早くから家を出て、昼頃には家に戻っていた。
ぼくとぼくの家族は裕福ではなかったけれど、とんでもなく貧しいっていうわけでもなかった。ただ、ぼくは自分の家の貧しさに何となく気づくときがあって、それは友だちの家に遊びに行ったときのおうちの中の様子だったり、友だちの服や持ち物がきれいだったりするときだった。もちろん、それはなんとなく気づくというだけで、気になってならないというわけではなかった。ああ、ぼくとぼくの家族はこういう人間なんだなあって思うだけだった。
ぼくが思う存分生きていられたのも、お父さんとお母さんがぼくとぼくの家族をたいへん可愛がってくれたからだ。お父さんとお母さんははカミサマを信じていて、特定の曜日にはカミサマが住んでいるところに行ったし、朝夕のお祈りは欠かさなかった。ご飯を食べるときも、必ずカミサマに感謝をささげるくらい。
ぼくは壁にかかっているカミサマのお母さんとカミサマの絵が大好きで、家族の誰もいないとき、その絵の前に立って、両手をぴったり合わせて、カミサマに自分の願いごとを言ったもんだった。
さっき「ぼくの家族」といったけれど、ぼくには歳が三つ離れたぼくの家族がいるんだ。ぼくとは違って活発な人間で、いつも家のなかを走り回ってるようなやつ。ぼくの家族はぼくによく懐いていた。ほとんど喧嘩なんてしたことがなかった。友だちなんかの愚痴でよく聞くことがあったけれど、おもちゃの取り合いなんてしたことなかったよ。殴りあったりなんて考えもしなかった。ぼくはおもちゃとか食べ物とかにあまり興味がなかったし、ぼくの家族はムリしてぼくから取ろうなんてしなかったかよ。それに、ぼくたちはそこまで自分自身を主張しなかったんだ。主張するにしても、ぼくたちは手を繋いで、からだを寄せ合って、それからヒソヒソ話をするように主張するんだ。あくまでソフトにね。
「ねえ、ぼくはきみが、大きな音でドアを閉めるのに、傷ついているんだ。だって、そうだろ。ドアが痛みを感じてしまうじゃないか」
ぼくはぼくの家族の耳にささやく。ぼくの家族はウンウンとうなずき、こどもらしく笑い、
「ごめんなさい」
と、唇をすぼませて言ったりする。それから、仲直りのしるしに、脇の下とかお腹の横をくすぐり合って笑うのだ。ぼくとぼくの家族は、とても仲がいいんだ。
さて、ぼくたちの新しいいのちの始まりは、ぼくが子供のときの、そこそこ人間らしい顔つきをしはじめたときのことだ。
ぼくはといえば、へんな妄想ばっかりしていたよ。その日はちょうど学校でカミサマの時間があって、天国と地獄の話を聞いた。先生は、カミサマを信じれば天国に行けますよって言うんだ。すると誰かが先生にこう尋ね。
「先生、カミサマを信じない人は、地獄に行くんですか?」
いい質問だなって、ぼくは思った。
先生は簡潔に答えた。
「そうです」
よくよく思い出してみたら、先生の声には悲しい調子も含まれていたかもしれない。だけど、ぼくにとってはそれがいかにも恐ろしい発言だったから、先生があんまり簡単に言ったように感じた。
ぼくは周りを見回した。ぼくの友人たち。ぼくの友人たちは、興味がなさそうに黒板を眺めていた。中には寝ているやつもいた。何がおかしいのか、笑っているやつもいた。
ぼくは友人たちを眺めて、思ったんだ。
「この人たちがカミサマを信じているなんて思えない。ということは、この人たちは地獄に行くんだろうか」
それからの授業は上の空で、どうやったら彼らがカミサマを信じるようになるのか、そればかり考えていた。
もちろんぼくは言ってやった。最初は隣の席の、髪の毛を背中まで伸ばした友人に言った。
「ねえ、きみ。カミサマって信じる?」
友人はびっくりした眼つきでぼくをみた。そうしてにっこり笑って言った。
「ええ、信じてるわよ」
ぼくはほっとした。それから前に座ってる友人の背中を突っついて、
「きみは?」
と、言った。
「おれ?」
と、その友人は、またもやびっくりした眼をぼくに向け、少し考え込んだ。
「さあ、よくわからないね」
友人は、目をあっちに向けてしまうんだ。
「信じないと、地獄に行くんだよ?」
ぼくが言うと、そうみたいだね、と、友人は笑った。それから席を立って、どこかに行ってしまった。
多くの友人たちは、そんな感じだった。カミサマを確信的に信じてる人間は、あんまりいなかった。どうしよう、とぼくはやっぱり頭を抱えこんだ。
「カミサマは慈しみ深い方なのに、どうして人間を地獄に送るんだろう」
夕日に照らされた道を歩きながら、ぼくはずっとそんなことを考えていた。ふと、リヤカーががたがた通り過ぎて、そのとき不意に、「おい、ぼうず! 元気出せよ!」と、男の人が声をかけてくれた。
その日、ぼくはさっそくお父さんとお母さんに天国と地獄のことを話した。お父さんとお母さんは悲しそうな顔でぼくを見つめた。お母さんはこんなことを言った。
「救われる人は、意外に少ないのよ。救いに至る門は、狭き門なの」
お父さんはこんなことを言った。
「人の救いはカミサマの範疇であって、われわれの手には負えないんだ。だれが地獄に行って、だれが天国に行くかなんて、われわれにはわからないんだ」
「わたしは?」
と、ぼくの家族が口をはさんだ。お父さんとお母さんはほほえんで、こう言った。
「もちろん、天国に行くよ」
ぼくの家族はその答えで満足したようだった。
でも、ぼくはお父さんとお母さんの言葉に納得がいかなかった。ぼくはパジャマに着替えて、歯を磨いて、みんなでお祈りをして、寝床に入ったあとも、ずっと同じことを考えていた。
季節は秋で、ちょっと寒かった。暖炉に火をつけたままだったから、窓が曇っていた。ぼくは毛布をからだに巻きつけて窓の前に立った。そうして、
「天国」
「地獄」
って、窓に指で文字を書いた。冷たかった。書いた文字も、水滴が落ちてダラダラ文字になってしまった。ゴシゴシこすって文字を消した。ハアと熱い息を吐いて、また文字を書いた。
「天国にいく人」
「地獄にいく人」
水滴がこぼれて、また変な文字になった。こすって文字を消して、また息を吐きかけようと思って窓に顔を近づけたときだった。
いきなり窓の外に顔が生えた。
それがさ、とんでもなく大きな顔で、顔一面にひげが生えていて、顔のひふが全部ひび割れていて、白い皮がべろべろにめくれていた。
もちろんぼくは驚いたよ。思わず口をあけて、固まってしまった。だって、顔が、深夜、ぼくの部屋を外から覗き込んでいるんだから、これで驚かなかったら、それこそ人間らしい人間とは言えないじゃないか。
男と目が合うと、男は優しそうに笑ってくれた。
窓越しに手を振ってくれた。
ぼくはコワゴワと手をあげて、そっと手を振った。男は嬉しそうに笑った。ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、って。窓を通して、男の低くてこもった声が伝わってきた。ひとしきり笑うと、男はどこかに行ってしまった。
ぼくは急いでカーテンを閉めて、寝床にもぐり込んだ。身をちぢめて、どきどきしている心臓を落ち着かせようと必死だった。だけれど、ぶるぶる震えながら、やっぱり頭のなかには「天国」と「地獄」という二つの言葉がふらふら踊っていた。そして、あれこれ考えているうちに、ぼくはいつの間にか寝入っていた。
何かの物音で起きた。
みると、あたりはまだ真っ暗だった。いつの間にか風がごうごう鳴っていて、窓をがたがた震わせていた。
耳を澄ましてみる。いつもは聞こえるはずの、隣の部屋で眠っているぼくの家族の寝息や寝返りが聞こえなかった。自分の寝床がきしむ音さえ聞こえなかった。いつまで経っても辺りは真っ暗だった。
まあまあ分別のついていた年ごろとはいえ、そのときのぼくにとって、深夜という時間はそれだけで怖いものだったよ。おまけに風まで吹いてるんだから、たまったものじゃなかった。
ぼくは寝床のなかに頭までもぐりこんだ。耳をふさいで、壁にかかっているカミサマのお母さんとカミサマの絵を思い浮かべて、必死にカミサマに祈った。
祈りが届いたのか、それからしばらくして風がやんだ。寝床から頭だけ出して、耳をじっと澄ますと、今度は雨が降っているようだった。しとしと雨が地面を濡らす音。綺麗な音だったと思う。ぼくは目をつぶって、うっとりして、さっきとは打って変わって真っ暗な夜を楽しんだ。
雨音に耳が疲れ、いよいよ眠りにつこうというときだ。
ぼくの耳にフト、コオロギが鳴くような音が聞こえはじめた。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
笑っているような声だった。だけど、鼻歌のようでもあった。どこから聞こえてくるのか不思議だった。ぼくの頭のなかにだけ聞こえるのだろうかとも思ったけれど、実際そうじゃなかった。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
声が近づいてくると、ぼくは恐くなった。誰かドロボーなのかな。そんなことを思った。だから寝床にもぐりこみ、また耳をふさいで、
「ぼくはここには居ませんよ」
と、まだ見ぬドロボーに語りかけた。そしてカミサマに祈った。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
声は楽しんでるようだった。
耳をふさいでいるのに、ドロボーの声はさっきと変わらない大きさだった。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
「おれが恐いのかい?」
ふと、毛布の上から誰かがぼくの頭を触ったんだ。
大きな手だった。大人の手。びくりとした。恐かった。
ぼくはひたすら息をひそめ、動かなかった。ずっとカミサマに祈った。だけど、それでもゆっくり毛布がめくられていったんだ。ゆっくり、ゆっくりとね。
汗ばんでいたからだが、静かな夜の空気にひんやり冷えていった。ぼくはそれでも目をつぶって、動かず、耳をふさぎ、カミサマに祈っていた。
「かわいいなあ。きみ、いくつだい?」
と、ドロボーはぼくの耳元でささやいた。優しい声だった。父親に似た、低くて、ちょっと喉のかれた声。
ぼくは目を開けた。ドロボーをみようとしたんだ。すると、やっぱり、そこにはさっき窓の外にみた男の人の顔があって、その人間がにこにこほほえんでいる。
しわくちゃの顔だった。目元には黄色い目やにがついていて、顔はガサガサで、ひげはぼうぼう。長い髪の毛が波打っていた。今まで見たことのない顔だったよ。
ぼくは息をのんで、じっとドロボーの顔をみつめた。
「こうみえてもおじさん、恐くないんだよ」
ドロボーは笑っている。
ぽとり、とドロボーの顔の皮の一部が、ぼくの手のうえに落ちた。
「ねえ、お子さんや、きみはいくつだい? 十歳くらい?」
ぼくはこくりと頷いた。
「へえ、かわいいねえ。ちょっと、隣いいかい? 一度子どもの添い寝をしてみたかったんだ。ああ、ほんとに優しい気持ちになれそうだ。こころがあたたまるよ」
ドロボーの大きなからだが、ずるずる、ずるずるって寝床に入ってきた。冷たいからだだった。寝床のほとんどがドロボーのからだで占められて、ぼくは寝床のはしっこで背中をむけ、ちぢこまった。
恐くて何も言えなかった。震えるしかなかったし、祈るしかなかった。
毛布がかけられた。ドロボーがぼくの背中をさすりながら歌をうたいだした。
いかにも陽気な歌だったように思う。さっきまで聞こえていた鼻歌。低い声音で、明るい歌をうたっている。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
おかしな話だけれど、このとき、ぼくはいつしか笑っていたんだよ。そうだ、大人はこどもが好きなんだってぼくは思った。ぼくだって、ぼくより小さいこどもは大好きだし、ぼくの家族のこともほんとに大好きだってね。
「ちょっと待っててね」
しばらくして、歌声がやんだ。ドロボーはぼくの寝床から脱け出して、また小さく鼻歌をうたいながら、部屋から出て行った。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
それでさ、ほんとにおかしな話なんだけれど、ドロボーがそばに居なくなった途端、ぼくはまたドロボーのことが恐くなってしまったんだ。からだがぴくりとも動かなくなった。毛布にくるまって、耳をふさいで、目を閉じて、カミサマに祈った。
悲鳴が聞こえた気がした。小さくてかぼそい悲鳴だった。ぼくの家族の声だった。
ぼくの家族の悲鳴を聞いて、ぱっと跳ね起きたと言いたいところなんだけど、実際はちがう。きみたちもだんだん分かってくると思うんだけれど、ほんとうにぼくは意気地なしなんだ。
ぼくの家族の悲鳴をきいたぼくは、跳ね起きて、ぼくの家族を助けに行くかわりに、目をしっかり閉じて、耳をしっかりふさいで、石のように固くなった。しばらくすると、ドロボーの鼻歌がぼくの部屋でやさしく響いた。
ドロボーは言った。
「おれは決めたよ。きみら二人と一緒に暮らすことにしたんだ。だから、さあ、おじさんに付いてきな。きみらのお父さんとお母さんは、ついさっき、ほら、もう死んでいるのをみたよ。死んじゃったんだ。だから、これからはおれが面倒をみるよ。さあ、きみは、ほら、自分の意思で来るんだよ」
何ともいえないほど、やさしくて静かな声だった。
ぼくはこのやさしい声を聞きながら、身動きひとつしなかった。毛布にくるまって、何も考えずに、ただじっとしていた。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
「おれが恐いのかい? もしかして、おれが恐いのかい?」
ぼくはそれでも黙っていた。毛布にくるまってずっと無言だった。
すると、いきなり毛布をはぎとられてしまって、ドロボーはぼくの肩を思い切り掴んで、ぼくの小さなからだを揺さぶったんだ。
「なあ、なあ、おれが恐いのかい? ハ、ハ、ハ、ハ、そりゃあ間違っちゃいないよ。おれは恐いんだよ。だから、きみはおれを怒らせちゃいけないよ」
ぼくの心は恐怖でいっぱいになった。ドロボーは満面の笑みで、ぼくの瞳をじいっと凝視している。ぼくのからだはふにゃふにゃ。いまにも泣いてしまいそうだった。
「うん」
ぼくは小さな声でうなずいた。
「じゃあ、行こうか」
ドロボーはぼくの肩から手を離し、ゆっくりぼくの頭をなでた。優しい触り方だった。ぼくは頷いた。
「ほら、準備して」
服を着替えると、ぼくの家族の服も準備するように言われた。
ぼくの家族は大きな袋のなかで眠っているようだった。ぼくの家族の入った袋は、ぼくの家族の形に合わせて、不思議なごつごつした形をしていた。よいしょ、とドロボーは重そうにその袋をかついだ。
「さあ、まっすぐ歩くんだ。どんなときにもまっすぐに。いいか、まっすぐ歩け。背筋を伸ばして、まっすぐ」
ドロボーは何度もぼくに振り返った。どういうわけか、ドロボーのほうが不安そうだった。でも、にこにこほほえんでもいた。ぼくはドロボーの顔をじっとみつめ、うん、と彼を安心させるように言った。
ドロボーの足が次第に速くなっていった。肩にかついだ袋が時計の振り子みたいに揺れている。夜のピクニックに行くみたいだった。
「シー……ダメだ、音を立てちゃダメだよ」
外に出ると、暗闇のなかに霧が出ていた。雨はもうやんでいた。水の匂いがした。緑の匂いがした。朝が近かったように思う。こんな時間に外に出たことはなくって、少しだけ楽しかった。誰もいない道。外灯だけが水晶みたいに光っている。
「ちょっと待っててね」
ドロボーはにっこり笑って、ぼくに袋をあずけた。そして急いでぼくの家のなかに戻って行った。
いま思い出しても、奇妙な風景だったよ。ドロボーがぼくの家のなかに入るのを見守り、彼が出て来るのを待っているその家の人間。
でも、なんでぼくたちはここで逃げなかったんだろう。そうすれば、いまとは違うところを歩いていたと思うんだけれど。でも、ぼくは逃げなかったことを後悔していないんだ。なんといっても、いま、ぼくたち四人はまっすぐに歩いて、まっすぐに幸せだからね。
「おにいちゃん」
ぼくの家族の声が袋のなかからボソリと聞こえた。
「大丈夫だよ。ぼくたちは殺されないみたい」
ぼくはそういう返事をした。
しばらくして、ドロボーが戻ってきた。すぐにぼくを慰め、ぼくの頭をなでてくれた。
「おれが恐いのかい? おれが恐いのかい? そんなことはないよ。おれは、恐くないよ……。さっき言ったのは嘘さ。おれは、全然恐くないんだ」
ぼくの家の窓から煙が流れはじめた。まっくらな夜のなかに、オレンジ色の炎が揺れはじめた。
「燃えてきたなあ。ああ、あったかいなあ」
ドロボーは、燃えていくぼくの家に両手をかざした。ドロボーのからだがオレンジ色になった。
「からだの芯からあったまっていくなあ。やっぱり、火はいいなあ。罪が燃やされていくのを感じるんだよ……。なあ?」
ぼくはドロボーの言っている意味がわからなかった。それで答えなかった。ただ、火にかざしたドロボーの、オレンジ色のしわくちゃな手をじっとみつめていた。
両手にかかえた袋のなかで、ぼくの家族が泣いている。ぼくの家族の小さなからだが震えていた。かわいそうだった。
ふと、ドロボーが懐からナイフを取り出した。ぼくの髪をいくつか切り取った。で、その髪を炎のなかに投げ込んでいった。ハラハラと髪が舞った。オレンジ色の炎に溶けていった。
ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ
「お子さんや、きみは生まれ変わったんだ。おれの子になったんだよ。これからは、おれと一緒に生きるんだよ」
ドロボーはとても嬉しそうにオレンジ色のからだを揺らしていた。
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