第11話 6月8日 火曜日 10時30分頃
整備記録の棚を整理していると、ラスさんが入って来た。手に紙を持っている。
「調子はどう。切りが良いところで少し遠くに行かない?」
「では、後一箱分待っていただけませんか?それで、さ行のお客様が終わりますから」
ラスさんはうなづいて、ファイル・ボックスを逆さにして中身を全部出してから、お客様名が上に見える向きにそろえてゆく述希の手元を見ている。前から順に、瀬戸さん→前場さん→添田さん…。無駄の無い動きだ。この子がもし男性だったら、整備士見習いにならないかと誘っていたことだろう。
10分もしない内に、述希は箱を棚に戻した。
「お待たせしました。地図を見せて下さい」
「あらま、分かっていたの?」
「はい、少し遠くとは開成ですよね?」
「そう。本当は独り立ちから一ヶ月後と思っていたけれど、梅雨時からじゃ心細いでしょ」
「ご配慮、有り難うございます」
「貴女の覚えが早いからよ」
それから、紙の端を指しながら決まり悪そうに
「気を効かせたつもりの演出が季節外れになってしまったわね。あの子には、気の毒だけれど」
と、言った。
えっと思って爪の先を見ると、何か書いてある。
「雨音が ドライブしよと 誘ってる」俳句だ。男性の字のようだが、誰だろう?こんな可愛い句は。
「ブンブさんよ。この地図もね。彼は、オートバイ・レーサーだからブンブとついたけれど、レーサーでもあり俳人でもある。文武両道なの」
あっ、そういえばクシさんがくれたあの紙にも俳人と書いてあった。本当だったんだ。凄い!述希は感動で震えがきた。格好良いなぁ。
「凄いですね!地図も分かりやすそうですし、可愛らしい句で」
自分で思うより大きな声になっていて気まずかった。ラスさんが表情を変えなかったのが救いだ。
念のため確認したが、宮迫さんの許可も取ってあるとのことだった。
ラスさんが広げた地図を見ている内に、記憶がよみがえった。そう、確かにブンブさんの字だ。所々に書いてある矢印は、ここで曲がるの意味だろう。細やかだ。
「こんなことまでして戴いて…」
「本人は、ある朝のお礼と言っていたわよ」
遅刻の連絡を受けた電話の件か。義理堅いなぁ。隅々まで見て、お辞儀をして受け取る。
「確認してもらって悪いけれど、初日は私も同行させてもらうわ」
「あ、もしも午後は開成での業務でしたら、お弁当を持って来ても良いですか?」
「はは、それはまだよ。今日の午後は6ヶ月点検と車検の案内に集中して」
出発して5分、述希は思わず目を見張った。
「車が少なくて驚いた?田舎だからねぇ」
「いいえ、違います。元取引先を目にして」
「えっ、そうだったの?」
述希は、産業包材商社時代のことを思い出した。今通り過ぎた取引先の社長夫人とは、電話で話したことがあるだけだ。けれども、かすかに鈴蘭の香りが漂ってくるような品を感じていた。
その会話をきっかけに商社時代の思い出話が始まった。述希は朝礼や制服があったことや、一階は小売店で文具は社員割り引きで買えたことを話した。取引先の社長夫人の話もしたが、鈴蘭の香りとは言わなかった。年上の女性に対する批評はなんとなく口にしにくかったのだ。ラスさんの聞き上手のお陰か、無事に開成に着いた。
「ノンキィ、待っていたぞぉ〜」
眼鏡をかけた男性が手を振りながら駆けて来る。ポッポさんだ。手を振り返す。
「お疲れ様です。運転はどうでしたか?」
ポッポさんは、息を弾ませることも無くラスさんに尋ねる。さすが工場長。長年走り慣れているのだ。
「何の問題も無し。次回からは独りで平気よ」
ラスさんが、さらりと太鼓判を押す。大げさなほめ言葉より嬉しい。
述希が形相を崩すより早く、ラスさんがポッポさんに点検の申し送りを始めた。慌てて表情を戻す。
どうやら常連様の愛車らしいなと思いながらやり取りを聞いていた。
「地図、分かった?」
不意に声がした。振り向くと
「バイクの油臭くてごめん」
と、ブンブさんが手を拭きながら言った。
「はい。分かり易かったです。有り難うございました」
頭を下げつつお礼を言うと、ハンカチをしまったのとは逆の手を前後に動かしている。手招きだ。ついて行くと、小屋の中に机と棚があった。ブンブさんは棚の観音開きの扉を開けながら
「ノンキに、整理して欲しいんだけれど…」
と、済まなそうな恥ずかしそうな声で言った。男ってこういうの苦手でつい後回しにしてしまうんだよねと言いたげだ。そんなに恐縮するなんて。
「分かりました。時間を作れるようにします」
明るく穏やかに答えた。新しい目標ができて嬉しい。
整備が終わった車で山北へ戻る。今度は、この会社の印象や働いてみた感想を尋ねられた。あだ名のことは驚きましたが面白いですねと言うと、アハハと笑った。開成の棚を整理する時間は、その内できると言ってくれた。最後に何か気掛かりなことは無いか聞かれたので、あえて言えばピノさんが挨拶と連絡事項位しか口を開かないのが気になると言うと、本人に確認するという返事だった。何かあるのだろうか…?
白雪さんは、順調に仕事を覚えていった。これは何費にあたるという区分がややこしい位で、主な業務はだいたい独りでできていた。上司や取引先とのトラブルもなく、一緒に昼食を食べたり駅まで帰ったりする仲の良い先輩もいた。ただ一つ問題があるとすれば、当初は一番好感を持っていた庶務の先輩が、最近一段ときつくなってきた位だ。宮迫さんからの様子伺いの電話のとき念のために言及したが、やり過ごせる範囲だと思っていた。
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