ノンキ、元気でな!
新橋
第1話 5月7日 金曜日
これは、今から20年以上前の話。
午前9時半頃に東山北駅に着いた。降りたのは予想通り、私・館下述希(たてした のぶき)と派遣会社の営業担当・宮迫(みやさこ)さんだけだ。
生まれて初めて見る無人駅。もしも面接に合格したら、来週からは独りで行き帰りに利用することになるだろう。
宮迫さんが切符を木の箱に入れるのを見て倣う。不安そうな私を尻目に活き活きした表情をしている彼が、憎らしいと同時に頼もしくも思える。単に、故郷と似た風景が広がっていて嬉しいだけなのかも知れないが。
駅の敷地を出て畑の中を歩き始めると
「大丈夫ですよ。目印はありますから」
と、やっと宮迫さんが口を開く。述希がふふっと笑ったのに安堵したのか、派遣先候補の説明を始めた。自動車の整備工場。社長とその奥さんと娘さん、そして工場長を含め7人の社員さんから成る小さな工場らしい。
社長の娘さんは色白でいつも7人の男性と一緒なので、誰からともなく「白雪姫」と呼ぶようになったそうだ。白雪姫。どんな綺麗な人だろう?早く会いたいなと空想してしまう。いけない、仕事の面接に行くところだ。
ところが、話には続きがあった。娘が素敵なあだ名で呼ばれることを面白がった社長が、ならばと自分と妻のこともあだ名で呼ぶように言ったのだ。月一回の会議で、社長はドン・奥さんはラスと決まった。ラスボスのラスだ。奥さんが実権を握っているのだろうか。あだ名付けはとうとう社員にまで広がって、いつの間にか7人全員があだ名で呼び合うようになったそうだ。雰囲気が明るいらしくホッとする。
「館下さんのあだ名は、何でしょうねぇ?」
宮迫さんがおどけて看板を指差した。六角自動車と書いてある。どうやら、ここが話していた工事らしい。苗字そのままとはいえ、なんだかメルヘンチックだ。宮迫さんと一緒に元気に朝の挨拶をし、一礼して入った。
六角自動車の社長は、聞いていた通り恰幅が良く声が大きく目も大きかった。やはりドンだ。失礼にならないよう、こっそり笑った。面接前に緊張がほぐれて助かった。
社長は、臨時で作ったと思しき応接スペースに宮迫さんと私を通した。先に座っていた奥さんがスッと立って一礼する。ラスというあだ名に似合わない小柄でにこやかな人だ。宮迫さんとタイミングを合わせて一礼する。
「この度はご足労かけまして。煤けていて恐縮ですが、どうぞおかけ下さい」
社長と奥さんが同時に言ったので、夫婦の絆と会社としての結束の固さを感じた。もしも許されるのなら、こういう所で働きたい。
「有り難うございます」
私と宮迫さんも同時に言って着席した。
目の前にはすでに、派遣会社に提出した履歴書と職務経歴書のコピーが広げてある。歓迎されているんだ。先程の有り難うございますは、その事に対するお礼でもあった。
「たてした のぶきさんとお読みするんですね」
「はい」
「珍しいですね。ま、私も詩吟の吟に児童の児なんで人のこと言えないんですが」
ハハハッと社長が笑う。
「はい。年の離れた姉が部署移動の希望を述べたら叶えられたので、記念に」
と、正直に答えると奥さんが言った。
「まぁ、私は最年長の姉がピアノ教室を始めた年に生まれてね。ドレミの令美(れみ)なの」
そこで思い切って
「あの、失礼ですが。お嬢さんはユキさん?」
不意打ちのように尋ねると、両親は顔を見合わせてゲラゲラ笑い始めた。ようやく落ち着くと社長が、
「参ったねぇ、宮迫さん。会社で一番面白い人連れて来たでしょう?残念だけれど、ユキじゃなくてツヤコなの。でも、色白よ!」
と、言った。最後の部分が自慢げに聞こえた。父は私のことを自慢に思っているだろうか。
「さあさあ、本題に戻らないと」
令美さんの一言で皆が我に返った。やっぱり彼女はラスボスらしい。
「そうそう」
と言って社長は、履歴書と職務経歴書を交互に見始めた。が、すぐに何かにピンと来た素振りをして次に宮迫さんを見た。本人に聞いても良いかの確認だろう。宮迫さんがうなづいた。案の定、社長は探るようにこう聞いた。
「館下さんが最初の会社を辞めた原因って二つあるよね?ニュースになった?」
「はい、二つです。両方ニュースになりました。お察しの通り、動物関連の感染症と食中毒です。ハンバーガーの包み紙もお弁当用のトレーも需要がなくなりました」
「そうだったのね。産業包材の商社なんて安定していると思ったでしょうに…」
令美さんは情が深いらしい。
「はい。でも、人は全く食事をしなくなる訳では無いので調理器具販売会社に」
「しかし、思ったよりも売れ行きが伸びなかったんだね。営業所閉鎖とは…。大変だったろうね」
吟児社長がいたわるように言ってくれて、ホロリと来そうだった。
「その後すぐに弊社に登録にいらして、先月末まで中古車販売店で現金出納をしていました。ご自身で運転して通って、車両代金も通勤の車で銀行に納めに行っていたんです。車に対する関心もありますし」
宮迫さんは営業らしく、ここぞとばかり推してくれた。力強い限りで嬉しくなる。
「そのお仕事は、契機満了ですものね。車の運転に慣れていらっしゃるなら、その内修理が必要な車や修理終了した車の移動をして頂戴」
と、令美さんは述希採用に前向きだ。
「はい。私も担当出来たら嬉しいです」
こちらも笑顔で答える。そこへ
「遅くなって済みません。お茶です」
恥ずかしそうな声がして、両手でお盆を持った女性が来た。津冶子さんだ。やはり色白。
皆が順番にお礼を言いながらお茶を受け取る。全員に行き渡ったところを見届けて社長が言った。
「切りが良かったら、交替しなさい」
令美さんが退き、津冶子さん着席。
「実は、頼みたいのは白雪の代理なんだ」
と社長が言って場がまた引き締まる。
「はい。私はできれば一年間他の会社で社会人経験を積みたいと思っています。将来この会社を継ぐ時にきっと役に立つと思いますので。父と話し合い、母の同意も得ました。そこで、私の職場候補と不在時に働いて下さる方を探して下さいと宮迫さんに依頼したんです」
「はい。そこで先に代理候補をと思いましてお連れしたのが館下さんです」
と、宮迫さんが頭を下げる。述希も下げる。
「お役に立てると良いのですが。具体的にはどのような業務が中心になりますか?」
「一番多いのは、車検や六ヶ月点検の時期を迎えたお客様に電話をかける案内業務ですね」
こんな調子で面接が進み、無事に採用となった。令美さんにも念のため確認したところ、来週から引き継ぎ開始で合意した。
宮迫さんは、一刻も早く津冶子さんの職場候補を見付けたいと言い辞した。
昼食を持って来ていなかったので、ラスさんに一声掛けて白雪さんと弁当屋に走った。この近くにもあるんだと驚いた。
弁当屋からつなぎを着た男性が出て来て白雪さんに黙礼した。ピノというあだ名だと白雪さんが教えてくれた。鼻が高いから、ピノキオのピノだろう。ぴったりなあだ名だ。
午後からは、ドンさんが社内の説明をしてくれた。修理場は二箇所。ここ山北と開成だ。開成では板金と塗装を伴う修理とオートバイの修理もしているが、電話は一台しかなく殆どの事務機能は山北に集中している。だから、車の移動か保存してある資料や部品の整理か掃除以外で述希が開成に行くことは無いだろうとのことだ。いつ掃除や運転をするか分からないという理由で、制服は無い。文具は全て貸与するので、弁当と水筒のみ持参だ。社内の間取りも、一日の仕事の流れも確認した。
帰りの挨拶をして、ふと裏の駐車場に目をやった。どの車も六角形でないので安心した。
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