2 今までで一番楽しい
男は、懐中電灯を取り出して、暗闇に包まれている廊下の向こうを照らし、じっと観察して、こう呟いた。
「うーん、あちらではなさそうだ。なら、どこだ?屋根の上に、登れる
と、男が照らしていた場所とは逆の方向に歩き始めたので、私は柱の影から出て、男の跡をついていった。
幸いにも、足音がしない。これなら気づかれないで、彼を観察出来る。と思っていたら、急に彼が振り返ってしまった。
彼と目が合ったと同時に、彼が叫んだ。
「うああああああ!」
「あっ。」
男は驚いた勢いで、尻餅をついてしまった。それが原因で、男は手首を痛めたらしく、「あお~」と悶えながら手首を押さえている。私のせいになるのかな、これ。
男はじっと私の顔を見ている。そして私に聞いた。
「こんな場所で、何をしている?お前は、誰だ?」
私の名前はアリシアです。ということが出来たのなら、どれだけ良かったことか。しかし人間不信の私には、それを発する事は出来なくて、予定通りに
「……あ、……っす。」
「はあ?」
男が顔をしかめた。私がよく見る反応だった。きっと反応が鈍い私に対して、イライラしているに違いない。どうにかしなきゃ、何か言わなきゃと、焦るたびに私は、息が荒くなって、胸に手を当てて、言葉が出なくなってしまう。泣きたくなる。
どうしよう、廊下のホコリ臭い匂いが気になるぐらいに、静寂が我々を包んでいる。何も言えずにずっと黙っていると、男は私に聞いた。
「話したくないというのか?それとも……話せないのか?」
「話せないほう。」
「……。」
頑張って、ちゃんと答えたのに、どうして無言になっちゃったんだろう。不安になってきたけど、私はじっと、彼が何か発言するのを待った。すると彼はゆっくりと立ち上がり、私に聞いた。
「お前はこんなところで何をしている?その前に、誰だ?」
「……あ、ん、」
「はあああ」男が面倒臭そうにため息をついた。「それには答えられないのか……。今は業務外だから、相手の気持ちに寄り添っている場合ではないんだがな、まあ良い。ついて来たかったら、ついてこい。良いものを見せてやる。」
私は無言で頷いて、その人の後ろをついて行った。その人は、建物を結構移動して、やっとのことで、ある部屋の中に、屋根裏への階段を見つけると、それを登り始めた。
その人が昇るたびに、ミシッ、ミシッと木が軋む音がしたけど、私が登っている時には、何も音が出なかった。それを少し疑問に思ったのか、その人が階段の途中で止まって、振り返らずに私に聞いた。
「……、やけに、静かに、歩くな。貴様。」
「そ、そうかな?」
私の声は、とてもかすれた小さい声だった。これは生きている時からだけど。対して男の声は、低く、透き通った聞きやすい声だった。
「ま、なかなかやる。」と、その人がまた歩き始めた。私は彼の後ろをついて行った。
屋根裏に登ると、そこには何もなく、ただ蜘蛛の巣と埃が積もる空間だった。土の匂いがする。匂い……、それは感じるんだと思った時に、私はギッと、木の床の音を立ててしまった。
そうか、私が音を立てたいと思えば、立てられる。私が匂いを嗅ぎたいと思えば、嗅げるんだ。ならばと思って、私はその人の背中に鼻を近づけた。するとふわりと、甘いような妖美な香りがして、それがとても良い匂っ……!
「痛い……!」
振り向いたその人は、ムッとした顔で私を見ていた。私は彼にごちんと頭を叩かれたのだった。
「全く、こんなところで、こんな状況で、俺の匂いを嗅ぐな!気味の悪い奴め!」
「そ、それはごめんなさい。」
「良いか?変なことはせずに、普通について来てくれ、頼むから。」
と、男は歩き始めて、屋根裏の窓を開けると、屋根の上へと出て行ってしまった。
私は困った。私はこの建物から一歩も出られないのだ。どうしよう、今から訳を話そうか?でもきっと、信じてくれなさそう。
すると男が、窓のところまで戻って来てくれた。
「何をしている?こっちへ来い。」
と、こちらに手を差し伸べてくれた。「まさか屋根の上が高いからって、怖いのか?」って聞いてくるけど、それには答えずに、その手を握るかどうか迷った。緊張する。少し迷ったけど、私はその手を握った。
すると、温かかった。もっとよく彼の手を見たくなった。だけど私にそうさせる隙もなく、彼は手を引いてくれた。私は彼に導かれるままに、洋館の外に出られたのだった。
一体、どうして……?
彼は屋根のもっと高いところへと登っていき、てっぺんで背負っていたボストンバッグを置いて、少し微笑みながら、私を手招いた。私は彼のそばへと、近づいた。
「よし、目を離した隙に、落ちたりするなよ?今から少し、準備がある。」
「なんの?」
「お楽しみ、とでも回答しておこう。」
なんだそれ。かっこつけちゃって。私は彼の作業を見守ることにした。彼はバッグから何か、三脚っぽいのと、白い筒を取り出して、組み立て始めた。それを見ていると、彼が私に言った。
「イオリ。」
「え?」
「俺の名だ。イオリ・ピオニー・アルバレス。……ミドルの反対性の名前が、やけに可愛すぎるとか、そんな感想を持った瞬間、お前を屋根からブチ落としてやるからな。」
ブチ落とすって、すごいな。私はつい、笑ってしまった。それにミドルネームの反対性の名前、彼にとても似合うと思った。元々、男女平等が目的で、最近になって反対性のミドルネームが必須になった。
別に、いかつい体格の男性のミドルネームがマリアンって名前の時もあるし、可憐な女性がビリーって時もある。私は別に、イオリの名前は普通だと思った。だから言った。
「普通だと思う、ピオニー 。」
「そうか、それでお前は?」
ぎくっとした。イオリは私の方を見て、じとっとした目つきで、ため息をついた。
「ああ、もっと俺のことを話さないと、まだ信用出来ないか?なら、これを組み立てている時間だけでも、俺のことを話そう。俺はノアズで犯罪心理コンサルタントをしている。それと産業心理士って分かるか?俺はそれも兼業……ってお前、大丈夫か?唇が震えている。」
震えているでしょうね。だって、ノアズの職員だったとは!
彼は、私や私の夫を捕まえようと日々努力していらっしゃる組織の人間だったのだ。そりゃ泥棒が衛兵とすれ違って、平常心でいられる訳が無い。
この世界を支配しているのは、ノアズという科学研究所だ。それは何故なのかというと、この世界を作り上げたのが、ノアズだからだと、習ったことがある。地上世界に対して、地下に存在するこの世界は、太陽も月も空も海も、プログラムされたものだ。
少し前までは地上への入口である、時の架け橋というものがあったけど、それは消えてしまった。ノアズが修理を試みたが、それは無駄に終わったとニュースで見たことがある。
この世界では、体に埋め込まれているプレーンというチップを利用して、科学的な方法で、魔術が使える。一人一人、属性も、その魔術の形も、威力も違う。私の場合は、氷だった。ポロポロと涙のように手の先から漏れる氷の魔術は、飲み物を冷やす時ぐらいにしか、役に立たない。
しかしそれも、魔銃があれば話は変わってくる。魔銃はいいものだ。魔力が使えるものならば、その身体に魔力が残ってる限りは、弾切れを起こすことなく、バンバン魔弾を射てる。この世界ではプレーンを埋め込んでない人も、たくさんいるから、そういう人達は、勿論魔銃を手にしても、何も撃てない。
兎に角、この状況はまずい気がした。この世界を統べるノアズの衛兵は、この世界で犯罪を取締る役目がある。私はどちらかというと、犯罪者の方だった。それも……掃除屋(殺し屋)という、救い難い、犯罪者だ。
私は苦笑いした、するとすぐにイオリが反応した。
「……まさかとは思うが、その反応。非番の日に、手錠を出させる真似だけはやめて欲しいのだが。どうなんだ?」
ど、どうしよう。でも思った。もし捕まって、牢屋に入れられても、壁を透けて逃げられるんじゃない?そしたら、全然痛くも痒くもない。でもそうすると、犯人を逃したってイオリの責任が問われるのかな。それは可哀想だ。私は答えた。
「イオリ、私のことは、捕まえないほうがいい。すぐ壁を透けて逃げられるから。」
「お前は未来からきたサイボーグか。」
そう言って、イオリは私の肩を軽く叩いた。人生で初めて、ツッコミを受けた私は、一瞬驚いて怯んだけど、すぐに面白くなって笑った。笑い慣れていない私は、「あはは、あはは、あはは」とモールス信号のように笑い声を出した。
「ふっ……奇妙な笑い方だな。まあ、その方が個性的で面白い。さて!やるか。」
何だか、出会ったばかりの人にしては、イオリとは話せる気がする。それに、少し……カッコイイ。ちょっとトゲトゲした物言いをするけど、ちゃんと私のフォローをしてくれる。それだって、優しいと思った。今まで会った、誰よりも、一緒にいて楽しい。
……でも私は死んでいる。悲しいことに、この洋館から出られない。今からそれをイオリに話してみよう。彼になら、話してみたい。そう思った私は、白い大きな筒を覗き込んでいるイオリに、話しかけた。
「イオリ、」
「なんだ?今少し、角度を調整している。」
「うん……幽霊って信じる?」
「……はああ、」
本当にだるそうに、ため息をついたイオリは、私の方を見て、答えた。
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