キミツナギ

西野 夏葉

第1話でおわるよ。

 今日も今日とて、残業を終えて家に帰ってくると、彼はいつもみたいにソファに身体を預けながら、テレビに映し出されたDVDを観ていた。それが何のDVDで、今が全部で何分あるうちのこのへんで、次にいま顔が大写しになっている人物がなんて言葉を喋る……ということまで、わたしはもうよく知っている。彼が毎日のように、わたしがいようがいなかろうが、これを観ているからだ。


 わたしと彼は、通っていた大学が同じだった。とは言っても、大学時代に付き合っていたとかそういうことは何もなくって、お互いが社会人になってから何年かしたあとで、偶然にもう一度線が交わった……というのがここに至るまでの経緯である。

 彼はわたしが勤めている銀行の取引先の社員で、たまたま担当替えでわたしが彼の会社の担当になったことから、止まっていた時間が動き出した感じだ。



 労働法ゼミの川澄かわすみさんでしょ。


 緊張しながら応接室に通されて、おずおずと名刺を差し出したわたしとは対照的に、彼はにこにこしながら握手を求めてきた。

 交換した名刺に刷られた、西脇俊彦にしわきとしひこという名前にわたしは見覚えがなかったけれど、話をしていると、彼は確かにわたしと同じときにあのキャンパスを歩いていたということがわかった。


 おかげさまで、最初の訪問はほとんどが無駄話という花を満開にさせて終了した。上司にはきっちりと「今度の担当さんとはうまくいきそうです」と報告した。

 まあ、嘘は言っていないと思う。




 それから紆余曲折うよきょくせつを経て、今はこうして彼と同棲生活を送っている。

 にしても、紆余曲折って言葉は便利だね。言葉の意味自体は、便利とは程遠いけど。




***




 外の世界で汚れた身体はとっとと綺麗にしたい性分なので、帰宅の挨拶もそこそこに、服を脱ぎ散らかしてシャワーを浴びる。さっき部屋の中を一瞥した感じでは、今日も夕飯は彼が作ってくれていたらしい。

 わたしは残業がある仕事で、彼は基本的にほとんどない。だから自然と家事の分担も、そうやって決まっていった。ちなみにわたしは、掃除と洗濯を担当することが多いし、平日はなかなかできないぶん、土日はわたしが食事づくりをする。


 寝間着に着替えてリビングへ向かうと、彼は作ってあった夕食を温め直して、テーブルに並べていた。テレビでは相変わらずアレが流れているし、わたしが脳内で連想した通りに、画面の中の人物が言葉を並べてゆく。死ぬほど観ているから、わたしまで中身を暗記してしまった。

 だまってテーブルにつくと、彼も同じようにして、二人で「いただきます」をした。



 別に、そのDVDは彼の家族の形見であるとか、友達からもらったサプライズのプレゼントであるとか、そういうわけではない。普通の音楽DVDなのだ。そのDVD自体も、誰かからもらったわけでもなく、自分のお金で購入したものだそうだ。

 最初こそ「なんで一緒にいるのにテレビばっか観て、しかもいっつも同じものばっかり観てるわけ」と喧嘩のひとつやふたつ、いや更にもうふたつくらい飛ばした回数くらいやったと思うけれど、一緒にいる時間が長くなるにつれて、彼の感じていることを、わたしはなんとなく理解していった。



 ただ目で見るだけとか書くだけだとなかなか頭に入ってこないものだが、音やにおいに結び付けられた記憶は、鍵となるものを感じた途端に、不気味なほどクリアによみがえってくる。

 つまり彼は、そういうことを楽しんで過ごしているのではないだろうか……というのが、わたしの推測である。



 たとえば彼がいつも観ているDVDは、かれこれ十年くらい前に開催された、彼の好きなアーティストのライブツアーを収録したDVDだけれど、それは彼がちょうど大学に入学したての時期に合致する。

 彼は小学校から大学までの教育期間で一番、大学が楽しかったといつも語っているから、きっとDVDを観るというよりも、楽しかった過去の記憶を「音楽」という鍵を使ってよみがえらせて、それを頭の中で観ているのだろうと思う。



 他にも、何度も読み返しすぎてへにゃへにゃになった文庫本、ぼろぼろになった財布、今はもう目覚まし時計の代わりになっている昔のガラケー、果ては首回りがのびてヨレたTシャツに至るまで、彼の記憶の扉を開ける鍵は、この部屋の中を見回すだけでも、至るところに転がっている。



 もちろん、わたしにだって、ずっと覚えていたい思い出や、忘れたくないことは確かにある。何かをきっかけに思い返して、ほんの少しだけしんみりとしてしまうことだってある。それは否定しない。

 その感情が生まれることは、紛れもない、事実だからだ。


 けれど、彼のそういう過去ばかり振り返ろうとするような生き方が、わたしはどうにも好きになれなかった。これから訪れる未来でなく、過ぎゆく時という魔法が何もかもを美化してしまう過去を、彼はいつも見つめている気がする。

 もちろん、わたしにだって、未来に対する漠然とした不安を抱くことはあるけれど、だからと言って、それが未来を悲観するための免罪符にはなり得ない。



 そもそもそんなに楽しい過去があったなんて、冷静に考えてみたら、わたしは彼の口から詳しいことを聞いたこともなかった。でも、彼がテレビを見つめる目線、財布を愛でるようにさする手、いつもコーディネートの中にさりげなく入れてくる服に身を包む時の表情。


 そうやって「鍵」を手にするときのすべての表情が、わたしにはとても安らいでいるように見えてならない。

 なんなら、わたしが彼の腕の中へ滑り込んだときや、不意を突いて唇を重ねて、それを離したあとの表情よりも、なんだか優しい顔に見えてくる。


 わたしは彼のそんな顔が好きだし、同時に、嫌いでもあった。




***




「どうしたの」


 グラスに注がれたお茶を一口飲んだ彼は、怪訝そうな顔できいてきた。わたしは夕飯のカレーをスプーンにのせたまま物思いに耽っていて、すっかり現世のことを忘れかけていたみたいだ。ううん、と首を振って、口に運ぶ。

 そして、これがまた思わず溜息をついてしまうくらい美味しい。正直言って、料理の腕はわたしより彼の方が上だ。同じカレーを作らせて、どちらが作ったか言わないで第三者に食べさせたら、きっとみんな彼が作ったほうのカレーを選ぶはずだった。


 彼はなんとなく焦り気味な口調で言う。



「ごめん、そろそろ野菜使いきらないとまずそうだったから、カレーにしちゃったんだけどさ」

「いや、いいの、いいの。美味しいよ」

「そう? ならまあ、いいけど」



 肩の力を抜いた感じで、再び彼は、目の前のカレーに意識を戻したようだった。

 わたしも同じようにカレーをスプーンですくいながら、彼の様子をうかがう。口に運んで、もぐもぐとやりながら、目線はまたテレビの方へ向かっていった。




 まあ、その、気持ちはわかるんですけど。あと今日もあなたの作った料理は美味しいんですけど。本当にありがとうだよ愛してるよ……って言いたい気持ちは山々なんですけど、どうしても自分、言いたいことがあるんで、いいっすか。



「ねえ」



 誰かに「いいっす」と言われる前に、わたしの口は先に走り出していた。



「うん?」



 彼の目線は再び、わたしの方へ向いた。本当にきょとんとした顔をしている。さっきまでスプーン片手に間抜け顔で呆けていた女が、いきなり口火を切ったことに驚いているのかどうかはわからない。でも、なんだか不思議な感じがした。



「いつもそのDVD観てるけど、なんかあんの」



 あやうくカレーのこびりついたスプーンの先でテレビを指しそうになって、さすがにわたしはすんでのところで思いとどまった。



「好きだ好きだとは聞いてるけど、それにしたって、ほぼ毎日じゃん。よっぽど何か思い出があるわけ」

「あぁー……まあ。ちょうどこのアルバムが出た頃なんだよ」

「なにが?」

「大学で、美波みなみのことを見て、気になり始めたのが」

「へ?」



 明日休みだしいいか……と彼は一人ごちて立ち上がると、冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出して、戻ってきた。

 言葉を覚えたばかりの猿みたいに、わたしは彼に続いてプルタブを開けて、彼と缶をぶつけあった。ジョッキじゃないから、ぽこん、なんて間抜けな音がはじける。


 わたしは訊いた。



「なに、お酒を飲まないとできない話?」

「っていうわけでもないけど、どうせなら飲みながらしたい話かな」

「ふうん」



 喉を伝って、身体の奥がかっと熱を持つ感じがした。わたしが好きなのは、ちょっと苦めなビールだ。女らしくないと周囲はからかうようにいうけれど、彼だけは「いいんじゃない? 周りに合わせてたって人生面白くないでしょ」と、ゆるやかな同意を見せてくれたのを思い出す。



 彼はゆっくりと口を開いた。



「美波は、そもそも違和感をおぼえなかったか」

「なにを?」

「初めてうちの会社の応接で会ったとき、あんな簡単に自分のことを『大学の時のあいつだ』なんて言われたこと」

「うーん」



 その時は特になんとも思わなかったけれど、今にしてみれば確かにおかしな話であると思う。大学の頃のわたしは、別に目立つ存在だったわけではなかったし、彼とサークルが一緒だったとか、語学の授業で隣の席になったとか、そういうこともなかったのだ。

 けれども、わたしはあの時完全に場の雰囲気に呑まれていたのだろう。いま指摘を受けるまでは、毛ほども気にしたことがなかった。



「まあ、言われてみれば、そうかも」



 そう言って缶に口をつけると、彼は(うんうん)と頷きながら、続ける。



「美波の前の担当、いたろ」

「ああ。大和やまとさんのこと?」

「そう。次の担当は西脇さんと大学同じはずですよ、って言うから。名前だけ先に訊いたんだよ。したっけ、ピンときたわけよ」

「ふーん。だからわかったの? わたしのこと」

「わかった……っていうかさあ」



 あー、と彼は顔に自分の掌をくっつけながら「あちゃあ」というポーズをとる。


 まあ、彼の言いたいことなんてなんとなくもうわかってしまったんだけど、わたしはどうしても、その続きを彼の口から、彼の言葉で聞きたかった。


 いつも後ろばかり振り返っている気がする彼が、現在に向けて言葉を発しようとしている。そしてその先にいるのは他の誰でもなく、わたしだということがわかるから。



「っていうか、なに?」



 ダメ押ししてみた。



「ほらほら、要件は簡潔、正確に。稟議書りんぎしょとおなじだよ」

「うっさいな。……要は」



 わたしの顔はきっと、すっごく愉快そうに笑っているはずだった。彼がそれを見てどう思っているのかはわかんないし、今はわかんなくてもいい。それよりも、わたしはその先を見据えているのだから。



「俺はさ。大学で見かけた頃から、美波のこと、いいなあ、好きだなあ……と思ってたんだよ」

「……うん」



 前言を撤回したくなる気もしてきた。かあっ、と自分の顔が熱くなるのがわかる。いざ面と向かって言われたら、これはこれでなんだか恥ずかしかった。付き合ってからそれなりに経っているけど、そんなことをカミングアウトされたのはこれが初めてである。

 暗くなった部屋で、ベッドの上で言われるとかならまだ我慢もできるけれど、こんな明るい部屋の中で言われちゃうと、やっぱり、ほら。いろいろあるじゃないですか、ねえ。



「だからさ」



 彼は続けた。



「うん」

「これ観てると、最初に美波のことを見かけたときのこと、よく思い出すんだ。結局、俺はヘナチョコだったからその時は何もできなかったけど。でも、今こうやって同じ部屋の中で飯食ったり、寝起きしてるのが、不思議で」

「うんうん」

「不思議だとも思うけど、すごい幸せだなあ……とも思うわけでさ。これから先は、二人でどんな毎日を過ごしていけるのかなあ、とか。お互いにじじいとばばあになった頃にはどうなってるかな、とかいろいろ考えるよね」

「……」



 わたしは、彼をただの回顧主義者なのかとばかりずっと思っていたのだけれど、今の彼の話を聞く限りでは、どうもそうではなかったらしかった。


 むしろ、彼が見据えていたのは、わたしが思っていたよりもずっと前の場所から見据えた、紛れもない未来のすがただった。そうとも知らずにわたしは、彼がただただ後ろ向きな人間なんじゃないか……という、言いがかりにも近い考えをずっと抱いていたようだ。


 彼が鍵としていたのは確かに過去だったかもしれないけれど、その瞳の先には、現在よりも向こう側があったのだ。



 そう思うと、なんだか、急に恥ずかしくなった。

 もしかしたら、この頃に付き合っていた女が忘れられない……とかなのかな、などと思ったりもしていた。けれどもし本当にそうだったのだとしたら、と思うと怖くて訊くことができなかった。しかしながら、その疑問はいま、熱いコーヒーを注いだカップの氷みたいに、あっけなく溶けて消えていった。



 わたしは、こんなに弱っちくなかったはずなのに、彼と出会ってからというもの、ひどく臆病になってしまった気がする。

 こと、彼との事柄に限っては、その傾向は顕著だ。

 彼に嫌われたくはなかった。独りにしてほしくなかった。

 昔は、なんなら男なんかいらないと思っていたはずなのに。




 今はどうしても、彼と離れることなんて、考えることすらもできそうにないんだ。


 

 わかっているのか。


 ぜんぶあんたのせいだ。






「ん? どうした」



 わたしの視界がぼやけだしたのに、彼も外から気づいたらしかった。テーブル越しに、わたしの頭の上に手をのばそうとしてきたので、わたしはそれよりも早く立ち上がる。

 ささっとテーブルをまわりこんで、彼の隣に腰を下ろし、そっと抱きしめた。



「……なんかいらんこと言ったかな、俺」



 ぽり、と頬をかく彼は、そう言いながらもやわらかく微笑んでいる。




 その顔は、好きでもあり嫌いでもある……とかじゃないな。


 やっぱ、好きだな。




 そのうち、気が向いたらそうやって言ってあげようと思った。





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