放課後ボカロッカー

宇目埜めう

プロローグ

 放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。


 俺は『如月陽太きさらぎようた』という氏名と、四桁の受験番号が書かれた名刺サイズの紙を握りしめて、足を早める。

 ふと、どこからか歌声が聞こえてきて、自分がイヤホンをしていないことに気がついた。いついかなるときも音楽を聴いていたい俺としたことが、なんという失態。早々にイヤホンを取り出そうと、立ち止まると歌声はより鮮明になった。


 それは、月夜に咲く一輪の華のように儚く美しい歌声だった。

 歌声は、学校の中庭をアリーナに変えていた。しかし、肝心の歌っている人の姿は見えない。


 ——きれいな声だな。


 たったの数小節で、取り戻せないほど遠くまで心が奪われる。モノクロでつまらない日常を、遠くに持ち去ってしまうような鮮やかな歌声。

 気づけばイヤホンなど、どうでもよくなっていた。


 なぜだか、この場所全体が俺を歓迎してくれているように思えた。あまり誰かに歓迎された経験がないから、それが無性に嬉しかったりする。


 この歌声。あえて批判するとすれば、機械的で抑揚がない独特の歌唱法がロックな曲調とミスマッチであり、厳密に言えばロックじゃない。それが、実にもったいない。


 ——ロックは魂であり、生き様である。


 などとロックを愛するものとして、いっちょ前に批評家ぶってみたが、それを差し引いても美しい歌声だった。


 観客は俺一人。歓声はないし、拍手もない。今ここで聞こえる音は、俺の呼吸音と儚く美しい歌声だけ。


 ——誰が歌ってるんだろう。


 もっと近くで聴きたい。そう思うと、身体は自然と歌声の出所を探して、ふらふらと動く。

 立ち止まったのは、鉄製のベンチの前だった。

 もともと白かったであろうベンチは、塗装が剥げ、長い期間風雨にさらされていることを物語っている。腰掛けている者は誰もいない。きっと普段からあまり使われていないのだろう。


 けれど、歌声は間違いなくそこから聴こえてくる。

 歌声の主は、ベンチにポツンと置かれたスマートフォンだった。なんの飾り気もないスマートフォンからは、持ち主の性別すら予想できない。手がかりは、何かのロゴのようなステッカー。そして、透明なスマホケース越しに見える、几帳面な字で『充実した学園生活を送りたい』と書かれた紙。


 スマートフォンを手に取ってみると、歌声がより大きく、より鮮明に聴こえた。


 誰かの忘れ物だろうか。

 他人のスマホを勝手にいじるべきではないことくらい分かっている。分かってはいるが、衝動を抑えることができなかった。


 俺が持ち上げたことで点灯した画面には『オリジナル/月華』と表示されていた。『オリジナル』が曲名欄で『月華』がアーティスト名欄。


 歌っているのは、このスマホの持ち主だろうか。もしそうなら、このスマホの持ち主に会いたい。


 会って——。


 その先が思いつかない。名前の感じからおそらくは女子であろう持ち主に会って──、友達になりたい? 恋人になりたい?

 どちらでもいい。どちらにしても無理だから。


 なにせ俺は陰キャでコミュ障だ。嫌というほど自覚している。自慢じゃないが、友達と呼べる人間はいない。恋人なんてなおさらだ。なにそれ? おいしいの? ってレベルで縁遠い。

 もし仮に持ち主を見つけたとしても、まともに会話なんてできる気がしない。


 ましてやそれが女子ならなおさらだ。陰キャな俺にはハードルが高すぎる。余裕でくぐれてしまう高さだ。

 しかし、このハードルはくぐってしまったら、きっと得体の知れない化け物にでもなって、もう以前の俺には戻れない。理由はよく分からないが、そんな気がしている。


 俺にできることは、偶然何かの拍子に向こうから話しかけてくれて、たまたま俺の調子が良くて、熱とかもなくて、無難な対応がうまくいって、会話が続いて——。そんな奇跡が重なることを祈ることだけだ。


 我ながら、実に情けない。


 けれど、ダメなのだ。人とうまく関係を築けない。誰かと話すのが怖い。『他人はじゃがいもと思え』なんてことを耳にするが、他人がじゃがいもだったら、それこそ怖い。人間の姿をしていても何を考えているか分からないのに、じゃがいもの思考なんて分かりっこない。


 美しい声は、アホなことを考えている間もしっかり歌い続けていた。ロック調な曲に、どこか不釣り合いな声音。


 なにかを促すように、求めるように、淡々と歌い続けている。


 ——自分を変えるときなんじゃないか?


 不意に俺自身の心の声が、たしかに聴こえた。それは自問。自答は、すぐにはできない。自分が認識するより先に、心が訴えかけてくる。どうしようもなく切実に。


 しばらくすると曲が終わって、歌声も聞こえなくなった。


 曲が終わってしまうと、手に持ったスマホが急に恐ろしいものに思えてくる。どうすべきか考えるまでもない。落とし物として届けよう。もう一度あの歌声を聞きたい衝動を抑えて、職員室へ向かう。


 職員室には、数名の先生がいた。

 誰に声をかけたものかと迷ったが、優しそうな男の先生に目をつけて声をかける。一番近くにいた先生は異性だから、という理由で避けた。相手は、教師なのに……。それでも異性を選ばない──、いや、選べない自分が、やっぱり情けない。


「どうした? なにか用か?」


「……あ、えっと……その。落とし物を拾ったので、届けに来ました」


「それなら僕が預かっておくよ。どれ?」


「えっと……これです。中庭のベンチに……その、落ちてました」


 スマートフォンを差し出すと、先生はシャボン玉でも扱うように過剰なほど丁寧に受け取って、机の上の用紙になにやらメモを書き残した。

 真剣に落とし主を探すつもりだと分かって安心する。


「今日は、在校生はいないはずだよ。ということは、合格者のものだろうね」


 先生は、落とし主を俺と同じ、この春新入学予定の合格者だと推理したようだ。先生の推理が正しいのなら、俺は歌声の主と同期生になる。淡い期待が胸に広がった。

 先生が、某漫画の少年探偵ばりに名探偵であることを祈る。ただ、そうなると高確率でこの学校が連続殺人事件の舞台になってしまうが。


「君も四月からうちの生徒なんだろう?」


 椅子に座ってこちらを見上げながら尋ねる先生に向かって、浅くうなずく。


「合格おめでとう。入学を楽しみにしているよ」


「あ、あの……えっと……あ、ありがとうございます。し、四月からよろしくお願いします」


 軽く下げた頭に先生の温かな手が置かれる。


「君はもう少し自信を持った方がいいかもしれないな」


 もう一度頭を下げる。

 そんなことは言われなくても分かっている。自信なんてどうやって身につければいいというのか。


 誰もいない校庭でもう一度、脳裏に焼き付いたあの歌声を思い出す。なるべく鮮明に、忠実に。すると、ふいに今まで考えもしなかったことが心に浮かんだ。


——この春から、いや、今この瞬間から俺は、俺自身を変えよう。


 さきほどの自問に対する、自答。あの歌声に背中を押される。


 あの歌声の主を見つけるため、というのが大義名分としてあるのかもしれない。だが、それだけではない。本当は、陰キャな自分なんかまっぴらごめんなのだ。だから、あの歌声はきっかけに過ぎない。


 この決意はゆるぎないとなぜか確信する。まるであの歌声に導かれるようにして出した一つの決意だが、もう決意する前の自分には戻れない感覚があった。得体の知れない化け物になったわけだ。悪い気はしない。

 

 変わるためにはまず、この暗い性格から捻じ曲げる必要がありそうだ。なんならそれが成功した時点でミッションコンプリートといえる。


 俺も根っからの陰キャなわけではない。根は明るいやつなのだ。ただ、そんな内面を外に表すのが、ほんのちょっと苦手なだけだ。だが、そのほんのちょっとが、このミッションを難しくしている。


 それからもう一つ、副題のように付け加える。


 ──この学校であの歌声の主、月華を見つけたら、この決意を与えてくれた礼を必ず言おう。


 友達とか恋人とかは、その先にあるものだ。──きっと。

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