「この世には『憤気』という目に見えない力が存在するんだ」

 拓海の話は、こんな説明から始まった。

 「憤気とは、世間の人々が感じている不安や恐怖、疑念、憤慨、苛立ちなど負の感情の総和を示すもので、それを何かの物理量に置き換えて数値化できるようなものではないのだけど、その性質を理解する為には、それをエネルギー的なものとして認識すると判り易いと思う。それが大きなうねりの様に地上を覆い尽くすんだ。

 それが負のエネルギーを表す指標であるならば少ないほど良いと思われがちだけど、実はそうとも限らない。原理的にはプラス方向にしろマイナス方向にしろ、その総量が通常域を大きく逸脱したり急激に変化すると、世の中が不安定になって時代の暴走が始まる。その代表例が戦争なんだよ。

 人々の不満が鬱積して内戦が勃発する場合などは、まさに憤気によるものだと考えれば腑に落ちるんじゃないかな。それは局地的な場合も有るけど、憤気があまりにも大きく肥大化してしまうと、世界大戦のような大惨事を引き起こすことにもなるのさ」

 「ちょっと待って。ってことは、第二次世界大戦とかも、その憤気のせいだったと言っているの?」

 「そうだよ」

 まさかと思って目を丸くして問い質したのに、拓海が何でもないことのように普通に答えるので菊乃は言葉を失った。

 「・・・・・・」

 「この憤気を増大させるのものは、全て人間の仕業。世の中の常識や正義を逸脱する者が現れ、それにより多くの人の感情を粟立たせることによって、トータルでの憤気は着実に積み重ねられてゆく」

 「じゃぁ、あの煽り運転の山崎を処分・・したのも、そういった理由からなの?」

 「そういうことになるね」

 「でも、言っちゃぁ何だけど、ただの煽り運転でしょ? そこまでする必要が有ったのかな? って言うか、彼一人が消えることに、いったいどれ程の効果が有るのかしら?」

 「確かに、ただの煽り運転だよ。でも、あの車載カメラに捉えられた映像を目の当たりにした時の、人々の動揺と感情の起伏は想像を絶したよね? 憶えてるでしょ? あれによって、この国を覆う憤気は途轍もないレベルに達しつつあったんだ。この憤気が憤気を呼ぶ暴走状態を「臨界」と言うんだけど、鎮静化させるためには、どうしても彼に鉄槌が下される必要が有ったのさ。結局、法律によって規定される罪の重さと、人々が抱く憤気の間には統一的な関係性は無いんだな」

 「それは判るけど・・・」

 菊乃は言葉を濁した。拓海の言うことは判るし、ある意味正論なのかもしれない。無論、あの山崎に同情しているわけでもない。だがどうしても、煽り運転と戦争の関係性をイメージできないのだ。ただ、拓海の言う憤気というものが、人類の命運を分ける程の巨大で不気味な存在のように思えて、漠然とした恐れを抱かせるのであった。

 「次に必要なのは、そしてもっと重要なのが、発生してしまった憤気の高波を平坦に均して安定化させる作業なんだけど、一旦増加した憤気は決して消え去ることが無いという性質を持っているところが厄介なんだな」

 「えっ? どういうこと? じゃぁ、どうやってその波を抑え込むの?」

 「唯一の方法は、憤気を移植させることさ」

 「移植ですって!?」予想外の答えに、菊乃は思わず素っ頓狂な声を上げた。

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