玻璃の墓標

若菜紫

零の邂逅

   ―空―




   『空』         



騒音が消え

幾重にも重なる鉄パイプのような首都高速を車は滑らかに走り

ごく自然に広がる陽光の中に影を映し

光を放射状に照り返す時

人々の姿は透きとおりはじめ

生まれながらにして受け継いだ徴だけが

まるで赤外線を通したかのように浮かびあがる

美しい形のものも

醜い形をしたものも

押さえようとする手をはね返し

見る見る火ぶくれのように


突然

空が満ちてくる


築きあげたものも

築こうとしているものも顧みられず

徴がお互いをはじく今

空を手に入れる時

そんな徴も失くしたものも大切に

のびのびと両手を伸ばしてみよう

独りになれる限り

いつまでもいつまでも

透きとおることも濁ることも

けっして自分に許さずに


やがてわたしも徴も消え

空はどこへゆくだろう

いつかのSF映画で見た

世紀末の澱んだ海のように

ビルの窓へと閉じ込められる空

屋上にたたずむ少女の上に

いつしか明ける夜がある

精いっぱい伸ばすため

両手に力を入れて胸に組もう

独りでいられる限り

いつまでもいつまでも




   『鞦韆』                          



風を押しのけ

枝をかすめ

天上の湖を蹴り上げれば

仰向いた魂からこの身が抜け出し

蒼白く透きとおった水面(みなも)に力なく翻る


しずまりゆく漣

浮き出た若葉のあわいに

花よいつまで咲いているのだ

桜襲に未練を纏い

風を見失い

笑いさざめく緑色の光とせめぎあいながら

すっかり乾いて

倦み果てたその身を恥じることなしに


遠い瞼に浮かぶ

塵芥で満ち

鈍色に滞った逢魔が時の堀に

白々と瞬いた春の風花

見る見るうちに澄んでいった

帰らぬ日の水の影


ふいに放った声が

白鳥の姿に天を射抜く

弓弦の撓みが胸を打つ

たしかに飛んでいるじゃないか


最後に鞦韆を漕いだ時

俺の見た風景である




   『蜃気楼』            



しずくが窓をつたい流れていった

天井にはね返ったオーディオの音が降りそそいだ

向日葵は白熱灯をさけるかのようにうつむき

エアコンの風は白いカーテンの襞を

無人ピアノの鍵盤に似た規則正しさで揺らしていた

けっしてつかむことのできない雲の手ざわりへと

まなこから幾千もの触手がのびる

透明に濁りながら光る銀幕を

(わたしはどこに映っているのだろう)

突きやぶろうとも

雨だれのひとひらに目をこらし

その中の

{蒸気となった水の中を

金魚 ひとで いそぎんちゃく

などに身をかえた

赤や紫のさつきがゆらぎ

あじさいは青い熱帯魚

(まわりの色ととけ合わずにいられる幸福よ)

時たま

にゆらされる水面

(地上との境界にさえぎられない太陽はその時のわたしに届いていたのだろうか)}

を泳ごうとも

(この手足を自分の中に呑み込んでしまえるのだろうか)

何もたくらんではいないのに

はね返してくれる冷たさすら手に入れられず

わずかに痛むことすら

この指にはままならない

永すぎる瞬きののち

雨をわたしから遠ざけた

薄くれないの光

しろがね色に回復しつつある

藤色の影

こうした明日への約束に

ガラスを通して触れることだけがゆるされる

虹を見たわけではないが

どうやら今まで

その中にすんでいたようだ




   『水風船』            



細くてするどい笹の影が

やわらかく暮れかけた光のなかで

絶望したようにみずからの輪郭をぼかし

やがて

投げだそうとした

いのち

夕風にまかせはじめたすこしあと

人々は電車から吐きだされ

には

筒のなかに居場所を見失った光のモザイクが浮かんだ


池に放され

いつまでも水面で上を見つめている金魚

まわりをただよう

最期の泡よ

君は

ひとりでもやっていけるよね


勢いあまった水になかから

はじかれた

風船

だって

かるくて

きれいな

虹色のころもを

ちいさな

ぬぎすてて

まわりに

とけてしまえる

しゃぼん玉

にはなりたくなかったろう

子どもの手からはなれた

色とりどりの気球さえ

鳥につつかれたあとは

いのち

をさりげなく

取り巻くものになじませるだけ


アスファルトに拒絶され

見せしめみたいに

誇らしげに

にじんだ液体を

ちょっぴり

親切

な太陽が

ゆっくりと誘ってくれている




   『音楽』            



いってらっしゃい

わたしをはなれ

旅に出なさい

ちいさなかたまりよ


窓に未練がましくこびりつき

アメーバー型をして

みたいに

木々のこんぶを

なかでゆらす雨だれなんかとちがって

勢いよく

勇ましく

地面にたたきつけられ

われて

かたい手ごたえのなかに

すこしだけ残した

記憶

をはね返しながら


いってらっしゃい

わたしをはなれ

旅に出なさい

ちいさなかたまりよ


のベランダから投げ落とされても

ひしゃげてなんかいちゃいけない

ピンポン玉みたいに

はずんで

小人

みたいに冗談を口ずさみながら

寝静まった

をおもちゃのようにいじり回し

豆電球の配線をめちゃくちゃに変えたり

ペンキをぬり直して

屋根のうえを踊りながらわたり歩け


いってらっしゃい

わたしをはなれ

旅に出なさい

ちいさなかたまりよ


大理石に湛えられた

のうえをすべる電子ピアノの

或いは

ステンレスにあふれる

のうえを転がる古いパイプオルガンの

になって

木洩れ陽

のモザイクを

すこしだけ

わたし

にとどけて


飛び去ってしまいなさい

わたしをはなれて

翼のはえた

ちいさなかたまりよ


つぶれた鈴をふるように鳴る

この胸の音を

流れるような調べに

一瞬だけ変えて

その響きを宿したままでゆけ

花びらを棄て

夏の空へと翔けていった

あじさいの色のように

思いきりよく

身勝手に

かぎりなく蒼い哀しみに充ちて




   『百合』                



年長けるごとに

外へ向かって手足をのばし

身体を開いてゆくのが生けるもののさだめであるが

わたしたちは

外気にさらされたものを

無菌室の扉がわりの膜でふたたびとざし

自分を内に抱きこんでしまう


一度きりの

片道だけのまばたきと

絶え間ない無限のまばたき

百合とわたしがせめぎあう

白く薄い肌に浮き出た紅にも

おしべとめしべの

触れようとしてかなわなく思われる情交にも恥じらわず

みずからをさらし

はじいて生きる百合の花


思いあまってボトルを振りつづける

泡と噴き出るソーダ水のように

自分を

とめどもなく追い出したくて


空に毅然と架かる

臙脂色をした傷痕のような

百合の残骸


幾つもの瞬きを

わたしは輪廻しつづけるのだろう

満ちかける花の霊魂の

束の間

枯れ果てた姿に惑いながら

地上で百合を活けながら




   『向日葵』               



昼間の熱が冷え

鈴虫の音が響く闇をへだてた薄あかりのもと

ガラスの小瓶に向日葵が咲く

こげ茶の芯を見つめれば

別れの思い出に誘われる


燃えるような青の

深い空にはりきって

少女と背くらべをしていた花

伸びることも

開きつづけることもやめ

みるみるかわいていった花

残された

ブラックホールを思わせる真ん中の円は

まさぐるたびに

崩れた骨のような種を力なく吐き出し

蜂の巣のようになって

秋風の中に忘れられた


土色のろうそくに束の間ともる

黄色い夏のともしびよ

やがてかき消すものへの恐れも知らず

見つめつづけた日々


メメント・モリ

普遍のタナトス

秘められたパトスよ

日射しでも

秋風でもなく

自分自身をひたすらに押しかえし

骨もあらわに叫びながら

今日も向日葵は咲いている




   『ひからびた宿命』               



こわしたいと思うときが

ある

宇宙の力にさからい

あるいは従順につみあげられた

砂つぶほどのかけらで築かれた

この胸にひそむ塔

手を入れてかきまわし

踏みにじって

人や自然に襲われた街のようなすがたにしてしまいたい

天のうれいに魂を穿たれ

空のむくろをいだいてこときれる紫陽花よ

夏のはじめにおける君さながら

かわいたわたしが生を秘め

屈託のない太陽とのあいだに

きっと対決をつづけることだろう




   『秋の月』                    



だれにも

自分にすら支えられたくないのに


花火の名残と立ちのぼる煙に濁り

ほてった胸は

薄められた水銀のような虫の音に

すこしずつ犯され

澄んでゆく

皮膚と肉とのあわいをすべる

とぎすまされたやいばの涼しさ

わたしは

わたしに暴かれる


ドライアイスの湯気に似て

群青の空をくすませる

冷えた

銀色の月

切れた弦の余韻と熱を宿して

透けるような雲を

束の間ふるわせている

蝉時雨に打たれながら

見据えつづけた太陽の残像が

蒼白くオーバーラップしてきた

その瞬間


ほうっておいて

裏側なんか

本当は見たくなかった




   『旅するいのち』           



何かを

放り出したい気持ちになって

ベランダに立ってみました

黒くて深い

しめった風の海

しずかにしゃがんで

まわりをかこんでいる石の壁の

小さくあけられた穴

のぞいてみれば

視界を埋めつくす

どくどくしい色をした

さつきのひとでやいそぎんちゃく

あじさいの泡なんかが泳いで

植木のこんぶがゆれていた水の底

光がしつこく追いかけてきたのに

すこしも感じることができないのでした

蝶よ

青と黒とに装う夏の魚よ

風に身をまかせてみたって

どうせ同じになれないじゃないか

夕暮れた空に

むし暑そうな色をして浮かぶ展望台を

無理やり

背を低くして見上げ

赤い大きな橋を潜るみたいにして

ありもしない渚に

わたし

おりていくのかしら

潮の匂いをたよって

運河のそばを歩きつづけよう

水との距離を

かぎりなく

に近づけながら

固まりきれないゼリーのような波でさえ

ゆっくり動いているのに

白いひとつのちりだけは

意地でもここにいるらしい

水よほんとうに流れたいなら

こんなものに遠慮なんかいらないよ

ベランダの上に立つわたしの中で

なにかがまるいかたまりになったのでした

光や風や香りに押し込められよう

しかし

つぶされはしない

夜のことだってはじこうとはせず

かたくて小さな姿になって

あかりの瞬く

空気の海へと落ちていく

かわいた音をたてるまで

飛ばず

崩れず

すべてを焼きつけながら

瞬間をのんびりと

地上に

降りて

ゆく

だろう


月を目指すのが

いくらかはやすぎた

ようだ 




   『空と雪と光』        



空の高みに駈け上がる夢を見た

目覚めた時

枕を濡らしたはずの悔し涙は

すでに乾き

冷えきっていた


「空はこの中にあるんだよ」

言いながらルーペをかざしていた老人も

口ぐせのようにつぶやいた言葉もいつしか消え

取り残された雪の結晶はゆっくりと舞いながら

吹雪の彼方へと遠ざかっていった


若い芽に降りしきる光をつかもうと伸ばした手が

空につづく梯子を断ち切る瞬間も

氷の輝きは胸をよぎり

木洩れ日とせめぎあい

終わらないフラッシュバックがめまぐるしく躍り


雪の断末魔が光を送り出す


ひとつの空が失われる



―言葉から文字へ―


  


   『告白』          



ぜんまいじかけのおもちゃのようにぎこちなく

夏が鳴いている

規則正しいエアコンの音に混じる蝉の声

せきこみ

生き急ぐかのようにはじめながら

やがてなげやりに間延びする

機械の動きだけが厚ぼったい空気をゆらす


白くこまぎれな光を

風が梢に散らす

駈けめぐるその斑点よ

奔放さよ

それはしばし

木の葉いちまい いちまいの動きや幹のゆれや

永く同じ場所に樹を住まわせることになる

根のことすらも忘れさせ

樹液のめぐりよりもすばしこいようだが


こんなにも速すぎる息吹

声に

光に

蝉が

樹が

追いつけるのはいつだろう


心にいだいた夏からのがれようと

ようやくたどり着いた海

水面がとめどなく流れても

蒼くて涼しい月の影は舞い降りた地点を

まるで白鳥の死骸のように動かないのです

その中を波がいたずらに通りすぎていく


だから

もうなにも言わせないでね

つづけようとする言葉を

あらたなおしゃべりでさえぎることなく

静かに奪ってください

そして

繁華街の看板をふちどるネオンのように

落ち着きなく体内を走り回るものから目をそらすことのできた

白く透明であたたかい

短すぎる一瞬のあと

こちらからバドミントンのサーブを軽く打つように

たったひとことだけ




   『晩鐘』        



風の存在が遠のき

近づき

満ちては引き

銀色にいぶした空の流れに沿って

雪がふぶいてくる

雲におおわれた山の彼方から

鐘が響く

ひなびた畳に寒さをしのぎ

二つの影がたたずむ


次は山を見たいね

男の声が

吹きつける風に乗って庭をただよう

答えるかわりの槌の音

もうじきビルが立ちはだかることなど女にとっては

もしかすると何でもない

のかもしれない

けれど

答えるかわりの槌の音

衰え

すこしずつひびわれる空気の肌


諸行無常

住職の声にあきらめを失くし

除夜の鐘のひとつごとに

煩悩は胸に降りしきり

凍てつき

氷の花を結び

やがてひとつの希いに


今すぐ

山を見たい


鐘の名残は枯枝を縫って甍を打ち

縁側より雪が吹きつけ

あらわれるはずのない山に焦れ

影がたたずむ




   『早春』           



あこがれをみいだし

冬の窓はさまよっている

みしらぬ人をのせ

なぜとめどもなくいそぐのだ


封じられし筆のなごりの

しずけくかなしき躍動に

君が名をなぞりあがけど

なおいたずらなる虚空


こころなき手につまれ

佳き人はわが胸に去りぬ

汝より幽界をうばうことは

もはやゆるされぬのか


あわ雪と泥とのまぐわい

残滓ただよう湖よ

とわにうつせ儚さの実像を




   『君と星と旅』       



ぬくもりの残る朝日の亡骸をいだき

午後の蜃気楼にむかい

白い花水木の泡を踏みながら君は問う

わたしは何処から来たのか


冷えかけた木洩れ陽

末期の目にうたれ

衣を紅々と滴らせ

命の満ち潮に身を躍らせ

躑躅の珊瑚礁へ君は降りる

わたしは何処に行くのか


月明かりの底で

星が鼓動する

沈んでは浮かびくる舟

みずからを置き去りに

儚く遠い尾を引いて

息絶え絶えに


鳥の声の刃(やいば)

音もなく張り裂けてゆく

血染めの朝(あした)




『エーデルピルス』        



蝉が海をひいている

曲が風に響きだす


深緑の山にかこまれた家々の壁を

白かびのような潮が覆い隠していく

小さな島の薫りに背を向け

わたしは逃げこんだ

ネオンに埋もれてそびえる

古びた大きな煉瓦造りのビアホール

かつて分身であったはずの亡骸と

食いこんでいた自分自身の爪痕

理不尽な小ざかしい言葉の数々を見出してしまった今

あるひとつの救いを求めて


一杯のエーデルピルス

ヨーロッパの高原に咲く白い花の名に

よく似た音をもつ混じり気のない

淡く黄色い半透明の酒が

ためらいがちに生き急ぐ

小さな泡の群れを含んでたたずむ隅のテーブル

人々の声にまぎれてしまおうと

思わず

こころみるうちに

やがてぬるびたしずかな液体は

残照をとかした影となって

忘れてはならないものを呑みこんだまま

目の前に落ちた


とうに流れていた煙草のけむりが

うなじを突き刺しているのに気づき

コップのへりにこびりついたグロスが

すっかりひからびてしまっているのに気づき

かつてあかりがあったところをにらむ

ガラス越しの夜に浮かんだ自分の頬を伝う

ひとしずくの雨を

他人事のように横目で追いながら


海と風がはじきあう




   『蝉』             



真っ赤な顔をして

産声をあげながら堂々と駈け登ってきた火の玉が

やがて冷たい熱を秘めて頬を翳らせ

蒼白い光となって木々のあいだをくぐる

まもなく

しずかな空気を蝉が引き裂く

部屋では女が

凍りかけたレモンを絞り器に押しつけてひねる

風のみを傷つけ

うしろめたさのみじんもなく

ひと夏を叫ぶ命よ

部屋ではミキサーが鳴る

果実の骨までも砕く音

熟れきって

美しく病み果てた空が血を吐く

すっかりけずられた月は

はりつめすぎた弦がきれる音の記憶に似て

するどくしぶとい光を放つ

しだいに蝉は

報いを受ける

人を傷つけながら生き

生きぬくために言葉をつむぎ

言葉に傷つく者のように

響きのみとなって消えてゆく

雲ににじむ月のふくよかな光と

照らし出された百日紅と

日毎に高まる鈴虫の音にもだえながら




   『まぼろしの盾』               



 「恋に口惜しき命の占を、盾に問えかし、まぼろし(、、、、)の盾」(夏目漱石『倫敦塔・幻影の盾』より「幻影の盾」より)



爛れて腐った太陽がヒドラのように

日本海の底深く身を沈めた時

わたしは都会にたたずむ蒼穹の円蓋の

くらんで無意識に瞬く眠りの中

人工の星々にうたれていた


「どうして」「別に」

「ところで今度どうする」

みずからの不確かさをまさぐりあい

意味もなくからみあう言の葉の乱舞と凋落

あわいをぬって

ラジオから流れるニュースが

車の中に渦を巻いていた


「我々は核実験に成功した」


みがきあげられ

しかし

何も映すことのない鏡

のような空

はりつめた淡紅色の水面に

くぐもった藤色のかげりを浮かべる夕映え

細って弾けそうな弦の予感が

波紋と広がっていく

文字盤の一箇所でふるえつづける針や

シャワーの中へと逆流する

生まれたてのシャンプーの香りが

読めない文字となって

ゆがんだままただよい

泳ぎきり

力尽きて闇へと流れ込んだ

「知らないわよ それじゃ」


首都高速から望む摩天楼の群れに

たわんで渦を巻いた文字列の亡骸がわだかまり

せきとめられていた奔流

の飛沫はかげりを宿し

ベッドに降りそそぐ


拾いあげた一粒をまなこに滴らせる

空っぽな助手席に時折視線をそそぎ

途切れた橋の向こうへ

赤々とした靄の拡散の中を

なおも走りつづける君

旋回しつづけ

瓦礫となることすらできない鏡のかけらにみちびかれ

けっしてたどり着くことのない

蒸留された人工の海

に舞う波頭の一点を目指して


携帯電話を握る

夏のいのちをけずり

そいでいくやすりの音が

あるかなきかの虫の喉をふるわせている


暗く澄んだ空にあけられた

冷えて光るわずかにゆがんだ穴が

窓越しに無数のちらつきを毅然と示し

覚えのある風が耳元をくすぐる


無意識が

テレビのリモコンに手をかけた




   『時計』           



金木犀の気配を含んだ煙の匂いが

喉の奥に小さく

棘のように刺さった


水を湛えたかのように文字盤をゆらめかせながら

空から降りてきたガラス時計が

裏側をこちらに向け

宙に浮いたままの格好で

わたしの前に立ちはだかった


乾ききった石畳の上を

鳥の姿がすべっていった


曇り空の色をした道には

ところどころ

とりわけ冷えた空気と黒い蔦の模様とがあらわれ

あてもなくうつろっている

目の前に白い息が急ぎ足で立ち

消える

ひびわれた煉瓦の隙間からはみ出している苔が

あたりをしめらせ

パイプオルガンのペダルの軋みまでもが

風の流れをわずかにふるわせながら向かってくる


近づいたとたん

今までないしょ話でもしていたかのように

噴水は動きを鎮めた


落ち葉と雪とをかくし

灰色にくらんだ光る空

濃度を一身に背負った鳥の影が

万有引力に抵抗をこころみながら

分身との邂逅におびえつつ

追い出されるかのように降ってきた


突然目の前にそびえた

くずれそうな薄茶色の時計台が

もったいぶって

ありうべくもない時を告げ

空気を円く歪ませた


ガラスの上の針は

ひびわれ

透明なしずくにおおわれた文字盤を

金木犀と煙とに混じり

けいれんしながらとめどもなくさまよっていた


      ―記憶―




   『夜』                



新幹線で川を渡る時

銀色の霧となった鉄橋越しを

ひといきに遠ざかっていく山々のように

夜景が髪のあいだを

目にもとまらぬ速さで横切ってゆく

女は

自分の頬のやわらかさに気づく


ハート型になぞられた爪痕で

かすかに焼けた掌

指先に灯された焔

彼女の全身に瞬くかけらを統べ

かなたより一等星の煌めきを宿しながら

夜が深く

冷たく

あきらかにせきあげる

四方を囲むガラスをへだて

地上にちりばめられた人工の星々が

激しくちらつきながら躍りだす


いつまでもふるえていよう

あかりのように散っていたい

海岸沿いに浮かび

なかばにじんでいるともしびのように

細かく

とめどなくゆれる振り子さながら

同じところを

夜ごとただよい続けても


髪が夜景を流れる

まぶたをすべる指のやさしさに

ようやく

女は気づく




   『雪どけ』            



遠慮がちにゆれていた

ふたりのあいだに

うすく

つめたい空気が

腕の悪い大道具係にささえられた幕のように

ゆれていた


ためらいがちに鎮まってきた

あなたの手とわたしの手のあいだに

容赦なく吹きつけていた

のつぶが

通り道をせばめられて

鎮まってきた


身近なあこがれにも似て

掌にすくいとれそうだった湖

こごえて

山の夕日に霜焼けをおこしながらも

凍りついた全身より力を抜きはじめていた早春の湖面

通り過ぎるあいだも

持ち主と一緒になって

まるで照れ隠しのように

あなたの腕にじゃれついていたかばんを

さりげないふうをよそおって持ち替えようとした

その時

あかるく白いライトが

さびついた長椅子や手摺りをあきらかにし

ホームにひらめいてすべりこむ


ふりかえると

あとには

半透明のモザイク状をしていたであろう

ちいさな花弁が

ひとひら

ひとひらとつもり

遠ざかりながら闇へと溶けていった

下に埋められようとしていた

まるく

あたたかなものは

音もなくドアからしのびこんで

わたしたちのあいだに坐っていたはず

落葉色をしたあなたのコートは

人気のない山奥の木々の枝で

静かに芽吹きつつあったためらいと希望を宿したまま

旅の駅からはなれてしまったのだろう


なのに

目をあけたあなたがふたたび見たのは

おせっかいなネオンに満ちた

ありふれた都会の夜

でも

ここにだってたまには

がふるはずよ




   『旅路』         



ふたたび発つことのできなくなる場所

へと向かい

女が影を映す窓

闇にまぎれ

家々や並木道を小舟のようにぬけ

あかりが点々と灯る外海のような大通りへ

通いなれた駅への往路が

やがて旅路に変わる時


ネオンからはずれて暗がりを歩く子どもたち

より立ちのぼる

稲穂の群舞 たき火の匂い 窓にかさつくススキの葉

たぐりよせようとする手を拒んで

もがきながらはばたき

過去へとすいよせられていく青鷺のような

いつかの雨に濡れていた松葉の群々

ひからびることもいとわずに光の残滓をまとい

空に向かってあえぎつづける

いつの日か思い起こすための路をゆく

思い起こそうとする路すがら

思い起こさねばならぬことばかりをいたずらにつむぎ

路果てた時へのふとした空想に目を瞑り

全力疾走をゆるし

飛び越しそうな刹那に気づく

後ろへと去りゆき

届かないところでおびただしく氾濫している記憶

渦に呑みこまれる

それだけを無意識に目指しているものが

線路の先の消失点で所在なげにたたずみ

流れない空を思い

ああ

知らず知らずに追憶をもとめてせきこみ

みずからの疾駆をあやぶむ轍の鼓動よ

そのものが消えることなどできない

あの一点になりたい

そう希っているだけだというのに

芽生えた旅路はいつしか

旅路でなくなり

終点へ


巻物を封印するかのように

折り返すバス

の窓

発つことのできなかった女

の影がとなりに落ちている




   『橋』            



腐りかけた桟橋にしみいる

しめった冷気を靴の裏に感じながら

青い墨を流したように沈みあたりを囲んでいる湖

に背中を支えられるようにして歩いていった

刷毛で描いたような峰が霧を押しのけてせまる

足元につながれている

やや錆びかけたボートのへりでは

黒揚羽の死骸がなおも力尽きたかのように

やぶれかけた羽を風になぶらせていた


山小屋の軋んだ窓に

デッキの下を流れる小川の

水しぶきや泡や

木々のあいだをぬって降りそそぐ

こまぎれな光の白い面影がにじみ

かがり火のようにゆれている

スクリーンも開けずに外へ飛び出し

吊り橋を目指して歩いた

老朽化のため

今年立入禁止の札が立てられたらしい

いつしか日は高くなり

黄色くあたたまった窓と

見知らぬ川の向こうから

わたしは目をそむけた


白い光が一面にはりつめている大通りに

車はいつものように行き交い

音はなく

高層ビルの群れはそびえ

人影はなく

昔からあるのに錆びない歩道橋が

地面との距離も不明なままに建っていた

どこからともなくあがり遊びたわむれる夢

から醒めた時橋はなく

音や人影にあふれた川を前に立ち尽くしたまま

消えた向こう岸へ行くことはついになかった


街路樹の並ぶ石の橋からようやく見下ろすと

電車はすでに遠ざかっていた

あたりをさまよっていた黒揚羽は

金網に切りきざまれたわたしの影をくぐり

梢に寸断され屍衣につつまれた光を

まるで鱗粉のようにまとって

夕日と排気ガスの霧とにけぶる摩天楼のかなたへと

やがて姿を消した




   『坂』            



まぶたの坂をくだり

網膜の路地をぬって

水晶体にともる奇蹟に似た

たわいもない店の数々の前で立ち止まってみたい

記憶の夜を目指しながら

ニュー・オーリンズと共に埋もれてしまったはずのジャズ

の音色が息づくカフェ・バーの暗がりや

赤い線状の蛍光灯で形づくられたカクテル・グラスのサイン

欠けた厚手の皿から

オニオン・スープの匂いがただよってきそうな

こぢんまりとした料理店

丸みをおびた木製の台に

生成りの布の傘をかぶせた卓上用ランプが並ぶショーウィンドウなんかをながめながら

日なた色をした貝殻の形のランプを手に取ってのぞけば

海の音にまぎれて

粗い手ざわりの残る白い石の壁や

真新しい木の家具に囲まれ

たった今買ってきたばかりの野菜をきざんだり

テレビのチャンネルを切り替えたり

走り回ったりしている

父と母と

見知らぬ幼い少女の姿が垣間見えるだろう

気おくれがして

思わず顔を引っ込めると小さな娘も消える

しかし

三人(、、)の笑い声はそのままだ

ランプを買って帰り

スイッチを切ったままベッドのそばに置いて目を閉じる

闇と

押しかえす鼓動とのあやうい緊張に耐えきれず

逃げ出そうとして

誰かのまぶたの淵に身を投げると

永い坂がゆらめきながら

すこしずつ水底に映りはじめた




   『零の邂逅』           



椰子を風がすべる

三角形にとがり

のこぎり型をした葉のすきまを

大蛇のように身をくねらせ

夜をくぐる

椰子が風を奏でる

細い指を器用にうごかし

千手観音のように全身で舞いながら

椰子が風に響く

つまびかれるままに身をふるわせ

海から照り返すまだらな光に調子を合わせながら

椰子が風にみだれる

いけにえの秘儀が終わり

火の消えた祭壇の前にさらされた

死者の髪のような粗い手触りを思わせながら

椰子が風を切る

地上に縛られ

形骸のみを残した大鳥の翼

いま

闇と黎明とのあいだに

つかのまの

をあびて飛び立つだろう

そして

淡紅色をした空の皮膚に

黒々とやいばをいれてゆく


青緑と群青色をした原石をすりつぶし

無造作に混ぜあわせたような

水平線の上と下

潜水艦の窓にひろがっていた

珊瑚の森

光の筋はしげみの奥や

水底の渓谷までもさし込んでいた

見る者の感情さながら

どんなに細かく砕けても消えることすらできず

ひとつぶ 

ひとつぶの内に光を宿したまま

ただ同じ場所をゆれている泡の群れ

所在なげにただよう熱帯魚は

けがれていたことのない

遠ざかるほどに

思い残しのような波のきらめきは

ガラスの破片に似て

するどく飛んでは目の奥へと突き刺さる

のがれるように

へと分け入ってゆけば

珊瑚のように君臨する赤や黄の花々

通り雨と波しぶきのほかは水をあきらめて

分厚い風をくしけずる椰子の葉の海草

自分自身を置き去りに

地上の海底へきてしまったわたしのなかに

ちいさな生物が押しかけ

やがて呑みこまれてゆく

幾度もとかされては

絶え間なく再生をくりかえす

くりかえしながら

この体内に

を見出しているのだ

細胞のひとつになりきれないアメーバー

遠いわたしとの

たゆみなきめぐりあいと別れ

かぎりなく交わり

創られつづけながら

けっしてふれることのできない

海よ






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