ちくわぶ使いの弟子
井澤文明
第1話
ネオンの灯りが、酔いの回った脳にズキズキと突き刺さる。酒なんて飲むべきではなかったと、今になって後悔した。まず、まだ酒を飲めない年齢の時点で、酒なんて飲むべきではないのだけど、この際、別にいいだろう。俺みたいな奴にとって娯楽と言えば、酒、ゲーム、音楽、タバコに薬や女ぐらいだ。いや、他にも娯楽なんてごまんとあるけど、今はそういう話をしたい訳ではない。仲間たちは薬だとか女とか、そういう刺激的なものにご執心な様子だが、俺がどうにも危ない物に手を付ける気にはなれなかったのだ。
「お前は腰抜け野郎だなぁ」
そう俺を罵倒したのは、確か一緒に飲みに行った先輩だ。俺が腰抜け野郎であることは認めるが、別に怖いから薬に手を出さないわけではない。周りのみんなが、「薬に手を出す」といった行為を格好いいものだと思っている風潮が、どうも受け入れられなかった。今まで真面目な学生として生きてきたせいだろう。
俺は夜の繁華街を歩き回る。夜風にたなびく金色に染められた長い髪が、臆病な俺を大人たちから守ってくれた。
自分の「欲」を満たすため、真面目であることを辞め、学校へ行くこともしなくなった俺は、今や誰が見ても不良なのだけれど、不良にはなりきれていなかった。どう頑張っても、あいつらのように馬鹿がやるような馬鹿なことができないでいる。人生の九割以上を真面目に過ごしていた奴が急に不良ぶっても、上手くいかないものだ。
路上の隅で、胃の中にある物を吐き出せるだけ吐き出す。自分がやりたいことをするために、自ら望んで欲に満ちた世界に足を踏み入れたというのに、それが酔って道で嘔吐するとは。思っていたものと、何かが違う。自分のやりたい放題ができる、自由な生活を夢見ていたのに。
俺は濡れた唇をパーカーの袖で拭い、足元にぶちまけられた汚物を見つめた。
「おい君、大丈夫か?」
知らない男が話しかける。ヨレヨレのスーツを着た、帰宅途中の若い男だった。そこは普通、避けるだろう。明らかに大丈夫じゃないと、見てわかるだろう。男を無視して、俺は口直しの水を買うため、近くのコンビニを探し始めた。
「おーい、ちょっと、君。置いてくなよ」
男は執拗に俺を追いかけると、ついには業を煮やし、俺の前に飛び出した。
「君、無視するなんて酷いな」
「なんだよ」
気だるげに、先輩たちの口調を真似ながら答えた。低い、心を震え上がらせる声。
「いやね、君を一目見た瞬間、気付いたんだ。そう、君には『ちくわぶ使い』の才能があるってね!」
興奮気味に男はそう叫ぶと、急に自分の両手を俺の両肩に乗せた。顔に男の荒い鼻息がかかる。酒の匂いはしなかった。酔ってはいないようだ。
「なんかの隠語かよ? 気持ち悪りぃな。ポリ公呼ぶぞ」
「私よりも、君の方がお巡りさんに補導されそうだけどね。君、未成年だろ? なのにお酒くさいね〜。ダメだよ、お酒は二十歳になってから! アルコールは体に悪いんだから」
「うっせえな、おっさん。ぶち殺すぞ」
「キャーコワーイ。てゆうか、僕まだ二十四だからおっさんじゃないよ」
ごく稀に、不良らしい脅しや威勢が効かない人間がいる。この男は、そういうタイプの人間らしかった。飄々とした態度のまま、けらけらと笑っている。
「なんなんだよ、おっさん。気持ち悪りぃから向こう行けや」
「そう言われて、素直に離れていくような人間に見える?」
見えない。彼は明らかに、粘り強く絡み続ける人種だ。
俺はこの男を無視することも、話を聞かないでいることも諦め、大人しく立ち止まり、聞く姿勢に入った。
「『ちくわぶ使い』とかなんとか言ってたけど、何それ?」
「あれ、ちゃんと話聞いていたんだね。嬉しいな。実は真面目ちゃん?」
男は相変わらずの調子で話を続け、シワだらけの上着のポケットから薄茶色のちくわに似た形状の物を取り出した。
「これが、ちくわぶ」
主におでんなどに入れる、捏ねられた小麦粉を茹でた物らしい。
「これを使って、色々するんだよ」
「ちくわぶを使って色々?」
「そう、ちくわぶを使って色々」
男の言いたいことがまるで理解できず、俺はただ何も言わずに立ち続けた。
「お酒とかクスリよりも、健全にスリリングな体験ができるよ?」
男はそう言って、右手に握っていたちくわぶを一振りすると、たちまち伸びていき、二メートルほどの長さまでになった。
「さあ、行こうか。そうだ、名前は何? 僕のことは九十九って呼んで」
伸びたちくわぶに跨り、男───九十九は言った。そして俺も彼の後ろに跨がるよう促した。
こんな珍妙なことがあっていいのだろうか? ちくわぶに跨る? もしやこの男は、ちくわぶに乗って空でも飛ぶつもりなのか?
「行くって、どこに行くんだよ」
「僕の屋敷だよ。君がこれからちくわぶ使いとして修行する場所。それで、君の名前は?」
これはもう、誘拐と言っても良いのではなかろうか。男は俺の腕を引っ張り、無理やりちくわぶに跨がらせた。体がふわりと浮上する。そして俺たちは静かに、夜の街を飛んだ。不思議なことに、誰も俺たちがちくわぶに乗って空を飛んでいることに気付いていなかった。それが都会に生きる人間が、夜空を見上げるほどの余裕がないからなのか、それとも周りには姿が見えないような『魔法』がかかっているせいなのかは、見当がつかない。
「ハジメ」
俺の言葉に、九十九は前を見たまま、首を傾げた。
「名前だよ、俺の。一って書いてハジメ」
「へえ、君はハジメくんなのか」
僕と君が組んだら、百になるね、と九十九は嬉しそうに声を上げ、はしゃいだ。
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