第82話 地べたに両手をつけて頭を下げるべきじゃないか?
「ほう、思ったより中は広いな」
洞窟の広さを見て、ラッシュは口元を綻ばせた。
いくら雪を凌げるといってもすし詰めではストレスが溜まる。これだけの広さならば、余裕を持って休めるだろう。
「雪に晒されて正直うんざりしていたからな。こりゃ助かるぜ」
「よっしゃ、火の用意だ。何か火種を寄越せ」
「それじゃあ火は私が点けるね」
ラッシュが火を出さずとも、それぞれが率先して火の用意をする。
洞窟の奥で焚き火が作られ、皆が大人しく火を囲む。暗い洞窟をほんの少し照らす程度の小さな火に、ほうっと小さく溜息を漏らす。
「ああ、体に染みるぜ。火ってこんなに凄いもんだったんだな」
「こういう時になってみないと、ありがたみを感じねぇもんだな。ああ、生きてて良かった」
普段からは想像できない、ジーナとエドガーの貴重な発言である。
幸せそうな顔をしていたエドガーだったが、ガラッと空気を変え、ジト目で言う。
「で、そこの二人はいつまで落ち込んでんだよ?」
「そりゃ落ち込みますよ……これが落ち込まないでいられますか……」
「ぐすっ……! ご飯が……私のご飯が……!」
「いつまでも暗くなってんじゃねぇよ。ようやく少しはマシな状況になったってのに、こっちまで気が滅入るだろうが」
エドガーが文句を言うが、ネコタとフィーリアは落ち込んだままだった。
この状況で自分の食料を無くして、そう簡単に立ち直れるほど流石に楽観的ではなかった。
「そう言われたって、これのどこがマシだって言うんですか?」
「吹雪の中を歩かなくて済んでるんだから、よっぽどマシじゃねぇか」
「こっちは食料を奪われてるんですよ!? マシなわけないだろ! 下手すればこのまま餓死する可能性だってあるじゃないですか!」
「餓死……餓死!? そ、そんなっ、よりにもよってこの世で最も辛い死に方なんて、私、耐えられないですっ! そんな死に方をするくらいなら、いっそエドガー様の手で……!」
「それは発想が飛躍しすぎだろ。少しは落ち着けや」
シクシクと泣き続けるフィーリアに呆れるエドガー。
躊躇わず誰かの手にかかることを選ぼうとするとは、食欲に忠実な女である。
どこまでも悲観的な二人に、ラッシュは苦笑する。
「そんなに心配しなくても大丈夫だ。お前たちが思っているほど、そこまで追い込まれている訳でもないさ」
「で、でもっ! この雪の中、食料まで失っては……!」
「そう、その雪だ。確かにこの吹雪は予想外だった。正直、このまま登り続けていたら誰かしら逸れていたかもしれない。だがな、こんな雪がそう長く続くと思うか?」
言いながら、ラッシュは洞窟の外を指す。
フィーリアはつられて外を見た。今も外では、相変わらず雪が降り続けている。歩くのも困難な、凍えるほどの吹雪だ。この中を歩けばたちまち体力を奪われ、遠からず死に至るだろう。
「……いえ、これだけ強い雪なら、そう長くは続かないと思います」
「だろう? こんな大雪に当たったのは運が無かったがな、こうして身を隠す場所を見つけられたんだ。ここなら何日だって居られるし、食料を奪われたとはいえ今回は多めに用意している。皆で節約すれば、二十日は優に保つだろう。なにも焦る必要なんてないんだよ」
ラッシュの説明に、二人はあっ、と驚くような表情を見せる。
「そ、そっか。何も不安に思う必要なんてなかったのか」
「気づきませんでした。私、食べ物を取られたことで頭がいっぱいで」
「なに、それじゃあ仕方ねぇよ。冷静になれって言う方が無理だ」
ほっとする二人に、ラッシュは軽く笑って見せた。
「とらえず数日ここで休んで、雪が止むのを待とう。食料に余裕があるなら、そのまま登頂を続ける。心許なくなったら一度戻って、また挑戦すればいい。それだけの話さ」
「そうですね。また登るのは面倒ですけど、仕方ないですね」
「なんでぇ、助かると思ったら急に元気になりやがって。現金な奴だ」
「しょ、しょうがないでしょ! 本当にもう駄目かと思ったんですから!」
「私もです。てっきり助からないかと。あっ、でも節約するとなると、お腹いっぱいにはなれませんね。それはちょっと辛いです」
「お前は別に問題ないだろう。胸に脂肪を溜め込んでんだから、いざとなったらそこから栄養を取り出せ」
「酷いっ!? そんな器用な真似出来ませんよ〜!」
外は極寒の吹雪であったが、洞窟の中は和気藹々とした空気が出来上がっていた。
とても危険な場所にいるとは思えない。まるでピクニックにでも出かけているような、そんな明るい雰囲気だった。
――この時までは。
♦︎ ♦︎
――ヒュゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
洞窟での避難を始めて三日。
外は全てを凍り尽くすような猛吹雪に襲われていた。
寒冷地を住処とすら魔物ですら凍えて死んでもおかしくない、それほどの吹雪だった。
雪しかない外の景色を見ながら、ジーナは難しい顔で言う。
「おい、一向に止む気配がないんだが」
「ああ、そうだな」
平坦な声音でラッシュは相槌を打った。
引き継ぐようにネコタが続ける。
「あの、気のせいかなと思ったんですけど。もしかしなくても、この間より雪が強くなってませんか?」
「ああ、そうみたいだな」
心ここに在らずといった調子で、ラッシュは応えた。
唸るような低い声で、ジーナは呟く。
「おい、オヤジ。一つ思ったことがあるんだが」
「なんだ?」
「お前、言ってたよな? これだけの大雪なら数日で止む。それから登るか降りるか決めればいいってよ」
「ああ、言ったな」
「この雪、本当にすぐに止むのか?」
「………………」
ラッシュは何も言わなかった。
それはラッシュ自身、薄々感づいていたことでもあった。
「ここに来たばかりの頃でも、前が見えなくなるほどの吹雪だった。だが、今はその時よりも更に強くなっていやがる。まさかとは思うが……この雪、まだ序の口なんじゃねぇか?」
「………………」
「あたしらがここに来た時はまだマシな方で、これからもっと強い雪が降るんじゃねぇか?」
「………………」
「この雪じゃあ、外に出れば確実に死ぬ。だから、あたしらはここでこの雪が止むのを待つしかねぇ。だが、それまで食料は保つのか?」
「………………」
「そもそも、この雪は本当に止むのか?」
「………………」
沈黙が、全てを物語っていた。
それでも、ラッシュは何も言おうとはしなかった。
それを認めれば、確実に責められる。責任は絶対に負わないという、汚い大人の処世術であった。
「なんとか言えやこらああああああああ!」
「ぐっ、ぐえっ!? やっ、やめっ!」
「ジーナさん! ストップ! 落ち着いてください!」
「これが落ち着いていられるか! どうすんだこれ! またこの状況かよ! テメェは何度ミスれば気がすむんだ! ワザとやってんのか! ああ!?」
「そんなこと言われても! 常識で考えれば、俺は間違ってないだろ! お前だって納得して……」
「言い訳してんじゃねぇ! どう責任とってくれんだよ!」
「落ち着けってば! ラッシュさんを責めても仕方ないだろ!」
ネコタに抑えられ、ジーナは乱暴にラッシュを離す。
なんとか宥められたことに、ネコタはほっと息を吐いた。
「落ち着きましょうよ。今回ばかりはラッシュさんを責めるのは間違ってます。それはジーナさんも分かるでしょう? 客観的に見ても、ラッシュさんの判断は正しかった。ただ、この山が例外だっただけです。違いますか?」
「……チッ!」
ジーナは不機嫌そうに舌打ちするが、それ以上何も言わなかった。
反論が無いということは、そういうことなのだろう。
ラッシュは息を整え、軽く頭を下げる。
「すまんな、ネコタ。助かったぜ」
「いえ、仲間割れしてる場合じゃないですからね。気にしないでください」
「いや、だが、俺の判断のせいで……」
「それを言うのはやめましょう。こんなの結果論ですよ。さっきも言いましたけど、ラッシュさんの判断は正しかったと思います」
気遣うような笑みを見せ、ネコタは言う。
「確かに厳しい状況かもしれませんが、【迷いの森】よりはマシですよ。あの時は最悪、抜け出せない可能性がありました。でも今回は、時間が経てばいずれ雪は止みます。長い時間がかかるかもしれませんが、それまで保たせればいいだけです。今は我慢の時ですよ」
「ああ、この雪で外に出るのは自殺行為だ。今はとにかく耐えよう」
「チッ、分かったよ。大人しくしてりゃいいんだろ」
ジーナはふて腐れた様子で、ドカリとその場に座り込んだ。
不満そうではあるが、一応ネコタの説得に受け入れたようだ。
これまでの旅で経験を積んだおかげか、今のネコタにはジーナが耳を貸すに値するだけの力があった。少しずつではあるが、ネコタも勇者として成長しているのかもしれない。
「苛立つのは分かりますけど、気楽にいきましょう。ほら、今回はエドガーさん達を見習って……」
成長を証明するかのように、余裕すら感じる笑みを浮かべ、ネコタはエドガー達の方に目をやると――
「王様だ〜れだ! ……いぇ〜い! 俺だぁ!」
「ふふっ、良かったね」
「あう〜、また外れ。残念です」
「そんじゃあ、どうしようっかな〜? ん〜、ん〜……決めた! 一番と二番が王様のホッペにチュー!」
「もうっ……エドガーのエッチ! 欲張りすぎだよ。一番と二番って、私達しか居ないじゃん」
「あわ、あわわわっ! エドガー様のほっぺに、キ、キスなんて……!」
「でへへへ、ごめんごめん。無理なら他のにするぜ」
「まったく、しょうがないなぁ。……少しだけだよ?」
「わっ、私だってこれくらいならっ! 〜〜〜〜っ! えいっ!」
「ウッヒョー! ぐへへへへっ! 王様サイコー!」
「………………」
――チャキッ。
「待てネコタ! いくらなんでも剣は駄目だ!」
「離してください! あいつだけは斬らないと! こんな状況でなに王様すぎるゲームなんかやってんじゃお前ぇえええええええ!」
「気持ちは分かる! だが落ち着け! こんな時に殺し合いなんかしてる場合じゃないだろ!」
「よーし! そんじゃもうひとゲームやってみよー!」
「うん、今度こそ私が勝つから」
「いえ、私が貰います。絶対エドガー様を抱きしめますからねっ!」
♦︎ ♦︎
避難開始から、十日目。
――ヒュゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
ますます雪は強くなっていた。
「止む気配がまったくありませんね」
「ああ、そうだな。こりゃあさらに食料の節約を考えないとな」
「はぁ。今は食事だけが唯一の楽しみなのに……」
「そう言うな。何事も最悪に備えておかないとな。先のことを考えずに食べて、後悔するよりはよっぽどマシだろ?」
「雪が止まなかったら無駄な足掻きで終わるけどな」
「やめろ。想像させるな。いくらなんでもそんな……降り続ける訳が……」
「だ、大丈夫だですよ! きっと止みますって!」
「だといいけどな。はぁ、大して美味いもんでもねぇってのに、腹一杯食うことも出来ねぇとはな……」
珍しく消沈した様子で、ジーナはモソモソと保存食を口に入れる。
その気持ちを察し苦笑しつつ、ラッシュは言った。
「そう言うな。腹一杯食いたいのは皆同じだ。無い物ねだりしたってなんの意味も――」
なんとなしに、洞窟の奥に目を向ける。すると――
「何っが出るかな? 何っが出るかな? 手を叩くと何が出るかな〜? うわ〜、美味しい美味しい人参だぁ〜、っと!」
フリフリと尻を揺らし、グルグルと手を回して踊るエドガー。アメリアとフィーリアは、手をパチパチと叩き、わーっと黄色い声を上げていた。
お馴染みの長人参を取り出し、エドガーはアメリアに差し出す。
「はい、アメリア。たんとお食べ」
「うん、ありがとう、エドガー」
「ず、ズルいですっ! エドガー様っ! 私にもお慈悲を!」
「まぁそう慌てんなよ。今出してやるから。よっこいせ、っと。ほれ」
「わぁ! ありがとうございます!」
「この俺が作った特製の人参だ。しっかり味わって食べろよ」
「うんっ、エドガーの人参って、やっぱり美味しいね」
「な、なんですかこの人参!? すごく美味しいです! こんなの食べたことありませんっ!」
「はっはっは、そうがっつくなよ。足りなきゃまた作ってやる。もう少しゆっくり食べろや」
「ほ、本当ですか!? それならもう一本、いえ、出来れば二本……可能なら三本!」
「調子に乗るな雌豚。没収するか? あっ?」
「ひぃっ! ご、ごめんなさいっ!」
なんだか凄く盛り上がっていた。
食糧不足だったはずなのに、そこだけ美味しいものを食べて楽しそうだった。
同じ洞窟内で、圧倒的格差が発生していた。
「…………」
「…………」
「……分かった。分かったからそう睨むな」
目は口程に物を言う、とはよく言ったものだ。
言葉にせずとも、ネコタとジーナの目が促していた。
ラッシュはそれに逆らえず、肩を落としてエドガー達に近づく。
媚びたような笑みを浮かべ、もみ手をしながらエドガーに声をかけた。
「へへへっ、エドガーの旦那、ちょっといいですかい?」
「……なんだよ?」
楽しそうだった顔が一転、エドガーは鬱陶しそうな目をラッシュに向けた。
同じ気持ちだったのか、アメリアとフィーリアまでもが責めるような目を向けてくる。空気読めよ、と言わんばかりの態度だった。
ぶっ飛ばしてやろうかこいつら、とラッシュは思った。だが、そこは経験豊富な大人である。見事に本音を隠し、エドガーに頼み込む。
「なぁ、エドガーさん。俺たちにも人参を分けてくれませんかね? 腹が減ってるんだ。頼みますよ」
「断る」
「いや、そう冷たいこと言わずに……」
「駄目だ。お前らに食わせる物は何一つない」
キッパリと、エドガーは言い切った。
考慮する余地もない、といった冷たい反応だった。
――この腐れウサギ!
ピキリッ、とラッシュの額に筋が浮かぶ。いかん、落ち着け、ここは我慢だ。食料を手に入れるまででいい。手に入れた後はどうとでもしてやる!
完全に悪党の発想である。
「そこをなんとか頼みますよ! ねっ? 俺たちを助けると思って、どうかこの通り!」
「いや、別にお前らを助けようだなんて思わないから」
「このっ……! ふざけんなよクソウサギ! 贔屓ばっかしてんじゃねぇよ! 俺たちの何が気にくわねぇってんだ! ああっ!?」
豹変し、怒鳴るラッシュに呆れた目を向け、やれやれとエドガーは首を振った。
「礼儀知らずに食料を分ける理由など無いが、それ以前の問題だ。前にも言っただろう? 俺の人参は、俺の魔力、体力を使って作るもんだ。本来なら、こんな状況で作る余裕はない」
「じゃあなんでその二人には分けてんだよ!? おかしいだろうが!」
「最も体力のない二人に気遣って食料を分けることは、おかしなことか?」
「…………いや、正しい判断だ」
「そうだよな。それなら、分ける相手を選ぶ俺と、後先のことを考えず空腹を満たそうとするお前。間違っているのはどちらだ?」
「…………………………………………俺です」
凄まじいまでの敗北感だった。
ラッシュは頭を上げることが出来なかった。
正しいのはどちらかではなく、間違っているのはどちらかを問うあたりに、ウサギの性格の悪さが滲み出ていた。
完全なる勝利に、ウサギさんはニッコリと笑った。そして、しっしと手を振る。
「分かったら、とっとと元の場所に戻れ。空気が悪くなる」
「はい、どうもすみませんでした……」
「あっ、あのっ、エドガー様? どうしても分けてあげられませんか? ラッシュさん達も仲間なんですし……」
「あいつらはお前らより体力があるから、分ける必要ないと判断したんだが、そうだな。そこまで言うなら、お前の分から分けてやるか」
「凄いね、フィーリアは。私にはそんな余裕なんてないよ」
「あっ、いえ! やっぱり今のはなしでっ! 実はすぐに倒れそうなくらいお腹が減ってるんです!」
フィーリアの優しさは、一瞬で風に流されていった。
誰しも自分の身が一番可愛いという真理を、彼女は教えてくれた。
肩を落とし、すごすごとラッシュはネコタ達の元に戻る。
「すまん、やっぱり駄目だったわ」
「いえ、期待してませんでしたので」
「ああ。駄目で元々だ。予想通り駄目だったってだけのことだ」
二人は目も合わせず、外の吹雪を見ながら言った。
その声から失望の色がハッキリと取れた。
ラッシュは密かに泣いた。
♦︎ ♦︎
避難開始から二十日目。ここまでなら余裕で食料は保つ。そうラッシュが予想した期日である。
――ヒュゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
吹雪は、未だ止まない。
「いい加減、気分が落ち込んでくるね……」
「はい、外を思いっきり走り回りたいですね……」
アメリアとフィーリアは外の景色を見ながら、力なく呟いた。
エドガーのおかげで体力的に余裕があるとはいえ、こうも洞窟に閉じ籠りっぱなしでは、精神的な疲労が溜まってしまう。
特にフィーリアの疲労は濃い。生涯もう二度と言わないような台詞であった。
なお、ネコタ達はもはや声も出していなかった。空腹とストレスで心が荒み、瘴気すら漂わせている。今代の勇者とその周りには闇落ちの素質があるようだった。
誰もが落ち込むこの状況で、エドガーはなお泰然とした様子だった。どこか達観した、余裕すら感じる表情で火の番をしている。
「止まない雪はない。暗く、辛い日が続くとしても、いつか晴れる日が来る。その苦しみが長ければ長いほど、辛ければ辛いほど、喜びもまた大きくなる。俯くな、顔を上げろ。そうすりゃあいつの間にか、道が開けるもんだ」
「やだっ、エドガーったら……ッ!」
「もうっ、素敵すぎます……ッ!」
エドガーの言葉に二人は頬を上気させ、熱い瞳で見つめていた。完全に雌の顔である。
そのやり取りが気に入らなかったのか、チッ、と。ネコタが珍しく舌打ちをする。
「どこかで聞いたような台詞で偉そうに……」
「おやおや〜!? 何か聞こえた気がしたけど、気のせいかな〜!? そういえば誰だったっけな〜! 食料を奪われた間抜けな奴は〜! こんな時に食料を奪われるとか切腹もんだろ! 死んだ方がいいんじゃない!?」
「……ッ! クソウサギが……!」
「ごめんなさいっ……! 間抜けな足手纏いでごめんなさい……!」
ギリィッ! と、ネコタは歯が軋むほど噛みしめる。事実なだけに何も言い返せない。だからこそ鬱屈が溜まる。確実に【勇者】の闇堕ちは進んでいた。
そして流れ弾を食らったフィーリアは罪悪感で死にそうな顔をしていた。
悔しげなネコタの表情に、エドガーさんはご満悦だった。あの顔を見ているだけで、自分はまだやっていける。その自信がより深まった。控えめに言ってもクズである。
「うん、そうだね。こんな時だからこそ、元気を出さないとね。それに、私にはエドガーがいるもんね。寒くても、こうして抱きしめれば暖か――」
いつものように、アメリアはエドガーを抱きかかえようと手を伸ばす。だが、
――スッ。
……何が起きたのか、誰もが一瞬、理解出来なかった。
この場に居た全員が自分の目を疑った。それだけ信じられない光景だった。
自然な動きで、エドガーはアメリアの手を避けた。
洞窟の空気が、止まっていた。
「……エ、エドガー?」
何が起きたのか、未だに分かっていないような。
目の前の出来事を信じ切れないでいるような。
そんな愕然とした表情で、アメリアは呟いた。
「あっ、いや、違うんだ。これは――」
ハッ!? と。エドガーは慌てて取り繕うが、気まずそうに目を逸らす。
誤魔化しようがない。確かにウサギは、女の手から意思を持って逃れたのだ。
分かりきったことであるというのに、アメリアは必死に自分を誤魔化した。引き攣った笑みを浮かべ、震えた声で言った。
「はっ、ははっ。そ、そうだよね。なんだ、てっきり避けられちゃったのかと思ったよ。ほら、こっちおいで。抱きしめてあげるから」
ね? と可愛らしく首を傾げながら、ポンポンと膝を叩く。笑顔を作ってはいるものの、しかし、その瞳は不安に揺れていた。
何かの間違いだよね? 私、嫌われてなんかないよね?
言葉にせずとも伝わってくる、必死な感情。しかし、エドガーはチラリとそんな彼女を見ると、プイと背中を向ける。
「エ、エドガー? どうしたの? 早くおいでよ。ほらっ、おいでったら!」
「……ちょっと前から、言おうとは思ってたんだけどよ」
「な、なに? なんでも言ってよ。エドガーの言うことなら、なんでも聞くよ」
「おう、なら言うけどよ。その、あんまりベタベタしないでくんねぇかなって」
「え……? どうして……急にそんな、何を……」
「いや、たまにならいいんだけどよ。そう頻繁に抱きつかれると、正直気疲れするっていうか……はっきり言って、ちょっと鬱陶しいかなと」
「鬱陶しい……」
呆然と、エドガーを見つめ続けるアメリア。
そして、つーっと静かに涙を流し、顔を覆って泣きだした。
「あっ……あああああぁぁ……! エドガーがグレちゃった……! わっ、私のせいで……あんなに良い子だったのに……!」
「良い子? どのあたりが?」
「むしろ悪党だろ」
「最初からただのど畜生だったじゃねぇか」
ネコタ達は泣くアメリアに冷たかった。贔屓目にしても酷すぎる。評価は正しく行われなければならない。
あわあわとしながらも、フィーリアはアメリアを慰める。
「アメリアさんっ、そんなに泣かないでくださいっ! エドガー様も、今はちょっと機嫌が悪いだけですよっ! またすぐにいつものエドガー様に戻ってくれますから、だからそんなに悲しまないでっ、ね?」
フィーリアは励ますつもりで、優しく微笑みかけた。他意はない。本当に、アメリアに元気になってもらいたかっただけだ。
しかし、その気持ちは伝わらなかったらしい。
「……何で笑ってるの?」
「えっ?」
「私とエドガーが上手くいってないのが、そんなに面白い?」
「そ、そんなっ! 私、そんなこと少しも……!」
「嘘つき! 本当は喜んでるくせに! 私とエドガーが上手くいってないからチャンスだとか思ってるでしょ! この泥棒猫!」
「ちっ、違っ! そんなことこれっぽっちも……!」
とうとう仲の良かった二人の間でも争いが始まってしまった。
どうやら勇者パーティーの限界は近いらしい。
「いいね、この昼ドラめいたドロドロした空気。案外嫌いじゃない」
「アンタのせいだろうが」
そしてこのウサギやはりクソ外道である。
♦︎ ♦︎
避難開始から、とうとう三十日が経過した。
――ヒュゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
雪は、やはり止まない。
「………………」
「………………」
「………………」
ネコタ達三人は弱り切っていった。
それも当然である。彼らの食料は、数日ほど前に尽きていたのだから。
億劫な体を持ち上げ、ラッシュは黙り込む二人に声をかける。
「おい、生きてるか」
「当たり前だろうが……こんなとこで死ねるか……」
「いつ死んでも……おかしくないですけどね……」
実際、未だにここまで喋る体力があることが驚異的だ。
雪を溶かせば水はある。とはいえ、水だけで腹を満たすのにも限界がある。
遠からず、体を動かすことも出来なくなるだろう。そうすれば死ぬだけだ。
確実に、三人は追い込まれていた。
「分かってるだろうが、このままだとそう長くは保たない。もうなりふり構ってはいられない。どんな手段を使ってでも、食料を手にしなければならない」
「んなことお前に言われんでも分かってるわ。それでも、どうしようもねぇからこうして苦しんでるんだろうが。ボケたかオヤジ」
「いや、ボケてるのはお前だ。本当はどうすればいいか、分かってるんだろう?」
見透かすような目で、ラッシュはジーナを見る。
ジーナは苦虫を噛み潰すような表情をすると、横目で洞窟の奥を見た。
「エドガー、その、いいかな?」
「エドガー様、私も……エドガー様?」
「………………」
「エドガー? どうしたの?」
「……ん? ああ、悪い、ぼうっとしてた。よっこいせ、っと。ほら、味わって食えよ」
「うわぁい! ありがとうございますっ!」
「エドガー、いつもありがとう。そうだ、お礼に抱っこしてあげるよ、ねっ?」
「いや、気分じゃねぇからいいわ」
「――ッ! そ、そっか。それならしょうがないね……気が変わったらいつでも言ってね。私はいつでも大丈夫だから……!」
どこかぎこちない雰囲気があるものの、ネコタ達と比べ、アメリア達はまだ明るかった。
分けられた食料はすでに食い尽くしていたが、彼女達にはエドガーの人参がある。やはり食料を持ったものはいつだって強い。
ただの人参なのに、ジーナにはそれがご馳走に見えた。ああ、一口齧ればどれだけ甘い汁が出てくるだろう。きっと、今まで食べたどんな食べ物よりも美味いに決まっている。
そんなジーナの心情を察してか、ラッシュは言った。
「俺たちがどうすべきか、もう分かってんだろ?」
「……どうしようもねぇだろ。あいつは絶対に渡さねぇよ。そんぐらいオヤジにも分かってんだろ」
「ああ、分かってるよ。だから、なりふり構わず願うのさ。死にたくないからな」
「そうですね。このまま餓えて死ぬよりは……」
力の無い瞳のまま、ネコタが立ち上がる。ラッシュもそれに続いた。気が進まなそうにするジーナだが、二人が立ち上がったのを見て諦めたように息を吐く。
楽しく食事をする三人に近づき、ラッシュは声をかける。
「なぁ、エドガー、ちょっといいか?」
「……ったく、また来たのか。お前も懲りないな」
「頼む、俺達の分も人参を作ってくれ。どうかこの通りだ!」
「だから言ってるだろ。俺の人参は、俺が心に決めた奴しか――」
「もう限界なんだ!! お前のポリシーに触れる事だってのは分かってる!! だが、そこを曲げて頼む!! 本当に、この通りだ!」
ラッシュは深く頭を下げた。
いつになく必死なラッシュに、エドガーはチラリと目を向ける。
「……ふん、どうやら本気で限界らしいな。だが、早いな? 食料がないとはいえ、少しばかり根性がないんじゃないか?」
「――ッ! テメェッ!」
「ジーナさん! 抑えて!」
ネコタに止められ、ジーナは歯噛みした。
そんな悔しげなジーナを見て、エドガーは嗜虐的な笑みを浮かべる。
「ふはははっ! どうやらよっぽどキツイようだな! あの、ジーナがここまで言われて黙っているとは!」
「――ッ! このクソウサギ……!」
「しかし、まぁ……ふむ。そこまで願うっていうなら、いいだろう。俺も鬼じゃない。分けてやるのもやぶさかではない」
「ほ、本当か!?」
ガバリと、ラッシュは頭を上げる。
今まで断固として譲らなかったウサギの、唯一の譲歩だ。驚かないはずがない。なんとかこれで生き延びられると、希望が見えた。
しかし、ウサギはそんな希望を嘲笑った。
「ああ、本当だよ。しかしまぁ、俺の誓いを破ってまで渡すんだ、それなりの誠意を見せてもらわんとな」
「誠意、だと?」
ラッシュは怪しんだ。
誠意など、このウサギに最も縁遠い言葉である。警戒するのも当然だった。
「一体何をしろっていうんだ?」
「ふん、そこは自分で考えて見せろと言いたいところだが、そうだな。お願いする立場なんだから、ちゃんとした姿勢で頼んでもらいたいところだな」
「……具体的には?」
「地べたに両手をつけて頭を下げるべきじゃないか?」
なんでもないように、エドガーは言った。
まるでそれが常識だろうといわんばかりであった。
ほんとコイツ、マジでド畜生……!
ピクピクと怒りに震えながらも、ラッシュは声を絞り出した。
「……それをすれば、俺たちにも分けてくれるんだな?」
「ああ、そうだな。
「お前、そこまで……ッ!」
その言葉の意味を、理解出来ないはずがない。
ここまで出来るのかと、ラッシュは怒るよりもいっそ恐怖した。
そしてネコタは、気づけば震えた声を出していた。
「あんたっ、人の心がないのかよ……ッ!」
「おやおや、失礼なことを言う。べつにいいんだよ? 僕はどっちでも」
「ふざけやがって! いい加減に──」
「止めろジーナ!」
殴りかかろうとするジーナにラッシュは一括する。
ジーナの反抗的な視線を受け止め、ラッシュはエドガーに向き直った。
誰もが忌避することだからこそ、大人が率先してやって見せるしかあるまい。
「どうかお願いします。俺達にも、人参を分けてください」
実に見事な土下座だった。ピンと伸びた姿勢で、美しいとさえ感じる。
大の大人が、人参一本のためにここまでする。
あまりの哀れさに、気づけばネコタは涙していた。
「ぷぐっ、ぐふふ! うん、うん、ラッシュ君、君の気持ちは伝わってきたよ。それで、そこの二人はどうするのかな?」
滑稽なものを見るように笑うウサギに、ネコタは燃えるような怒りを覚えた。
葛藤が心の中で荒れ狂う。しかし、ネコタは拳からフッと力を抜くと、ゆっくりと膝をついた。
「……お願い、します……どうか、僕にも……人参を、分けて……くだ、さい……ッ!」
これ以上ないほどの屈辱だった。
かつてないほど、恥ずかしい思いだった。
溢れる涙と震える声を、止められるはずもなかった。
「ぷっ、ぐはっ、ぶはっ! ぷっ、くくく! うん、うん、ネコタ君もよくお願いできたね。さて、それじゃあ後は……」
期待するように、エドガーはジーナを見た。
しかし、ジーナは強張った顔のまま、動こうとしなかった。
彼女の誇りが、このまま屈することをよしとしなかった。
「ジーナ、覚悟を決めろ」
「ジーナさん、今だけでもいいですから」
土下座をする二人に見上げられ、ジーナは怒りを吐き出すように息を吐く。
そして、ダラリと肩の力を抜き、ゆっくりと膝をついた。
「お願い、します……どうか、あたしにも……分けてください……」
おそらく、生涯することは無かったであろう行為。屈辱に身が震える。
顔を見れば殴り殺してしまいそうだ。だからこそ、ジーナはより深く頭を下げた。奇しくも、それが誰よりも深い謝罪となった。
「ぷひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! あのジーナちゃんまでもがこんな真似をするとは思ってもみなかったぜ! そうかそうか、そんなにお腹が減ってるのか! でもさ、だからってそんな格好までするなんて、恥ずかしくないの?」
自分で頭を下げさせたのにも関わらず、心から面白がり、煽りにかかるエドガー。外道の所業である。
しかし、三人はグッと堪えた。強く手を握りしめ、屈辱に耐える。
ひとしきり笑って涙を拭うと、エドガーは言う。
「ひーっ、ひーっ、あ〜笑った笑った。よし、そこまで誠意を見せたのなら、俺もちゃんと考えてやらないとな」
んー、と。わざとらしく首を傾げ、悩ましそうな声を出すエドガー。
しかし、彼はやはり人の心を持ち合わせていないど畜生だった。
「やっぱり駄目だ。お前らに渡す食料は無えわ。悪いが、諦めてそこで腹を空かせて死んでくれ」
「「「――――」」」
こいつだけは、殺しても許されるはずだ。
三人の心は一致した。
そうして、話はようやく冒頭に戻る。
――やはりいつだって、原因はこのクソウサギであった。
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