スイッチ
漆黒の
ガリッという硬い音を立てて、靴底のスパイクが氷に食い込む。
墨を塗ったような装甲は両の足だけでなく、男の全身を覆っている。
一切の艶のないその黒は、暗い迷宮では著しく視認性を低下させ、戦闘を有利に運ぶ。
だが……縄梯子を登りきってわずか数分。
早くもその黒い装甲に、うっすらと白い霜が降り始めていた。
「……やっぱり寒いね」
相棒である
グレイ・アッシュロードとドーラ・ドラ。
ふたりの古強者の探索者にとって、二度目の最上層である。
「……ああ」
やや遅れて、アッシュロードは同意した。
「……まさに白い地獄だ」
それは彼の腕の中で弱々しく微笑んだ少女が呟いた言葉だ。
直後、エバ・ライスライトは失神した。
彼女の仲間たちも大同小異、同じ有様だった。
全員がすぐに救護所に運ばれ、
負傷はなかったが、六人とも低体温症に陥り酷い凍傷を負っていた。
アッシュロードも担当の軍医や衛生兵を手伝い、エバに癒やしの加護を施した。
治療を受け炎の近くに置かれたことで、間もなく六人は意識を取り戻した。
リーダーのレトグリアスから語られた話は、その場に駆け付けたトリニティ・レインやドーラ・ドラ。そして “緋色の矢” 等の熟練探索者たちに衝撃を与えた。
行われた戦闘は二度。
生息する魔物の手強さは、
しかし
戦闘には勝利したものの、一
無理を押してでも進み、四層への縄梯子に引き返さなかったのは、結果として賢明な判断だったろう。
もし引き返していたら体力を失ったまま四層から徒歩で帰還せねばならず、途中で有力な魔物に捕捉された場合、窮地を招いていたかもしれなかった。
ひとつしかない “転移の冠” を温存できたのも大きい。
レトグリアス・サンフォード率いる “フレッドシップ7” は危機に陥りながらも、最上層の情報を収集するという最低限の仕事は果たしたのだった。
「……たった
凍傷は癒え体力は回復したといっても、レトグリアスたちの精神的な疲労は濃かった。
とって返すように探索を再開させるのは得策でないと判断したトリニティは、代わってアッシュロードとドーラの投入を決意した。
それでも、年若い後輩たちが探索を終えた区画を無視して進めば、時間の短縮になるだろう。
踏破済み区画の先を、
限られた資材しか持ち込めないバディが採れる、唯一の方法だった。
「……あたしも寒くて敵わないよ。とっとと三つ目の玄室を調べて帰ろうじゃないか」
“猫は寒いのは苦手なんだよ”
ドーラは最後に口の中で呟き、それっきり黙り込んだ。
四層からの縄梯子から数えて三つ目の玄室。
それはアッシュロードとドーラが登ってきた五層からの縄梯子から数えても、三つ目の玄室だった。
パーシャのマッピングによると四層と五層の縄梯子は、西と東で対照的な構造をした区画の両端にあったのだ。
ふたりは四層からの縄梯子に近い西半分の区画を無視して、中央にある玄室だけを調べる計画だった。
玄室の北側には前回レトグリアスたちが無視した未開封の扉があり、今日のふたりの目的はその扉の奥を調べることだ。
頭にホビットから渡された “転移の冠” を戴いたドーラが、先行して歩き出した。
他にも “空の魔除け” や “炎の杖” といった、この迷宮産の
“空の魔除け” は冷気に耐性があり、“炎の杖” は常時適度な熱を帯びている。
“空の魔除け” はアッシュロードが首から下げ、“炎の杖” はドーラが背負うことで温石の代わりにしていた。
石を焼いてボロ布で包んだだけの温石は、ここではあっという間に冷えて用をなさなくなってしまう。
ひとつめの玄室に魔物はいなかった。
これ幸いにと先に進む。
ふたつめの玄室で、この日初めての戦闘となった。
待ち構えていたのは “
勇猛で鳴る北方の
その狂戦士が五人。アッシュロードたちの姿を見るや否や、雄叫びを上げて突進してきた。
巨大な
血に飢えたベルセルクに寒さは関係ないのだろう。
戦いは早々に決着がついた。
冷静な思考と引き換えに超人的な膂力を得た “狂戦士” たちである。
五対二という数的な優位を活かす知性はなく、ただ力任せに戦斧を振り回すだけでは、百戦錬磨のふたりの古強者を相手取れるわけがなかった。
岩をも断つ一撃も空を切るばかりで、探索者の持つ漆黒の曲剣によって次々に斬り倒されていき、最後に残ったひとりも猫人のくノ一によって頸を刎ねられて終わった。
アッシュロードとドーラにとって極寒での初戦闘だったが、後輩の探索者たちよりも随分とマシな戦いぶりだったと言えるだろう。
ふたりに比べて “フレッドシップ7” の前衛たちは魔除けも杖も寒さに弱いホビットの魔術師に持たせてしまい、魔道具の加護を受けることができなかったのである。
魔道具のバフを集中できるのは、少人数パーティの有利な点だった。
加えてアッシュロードたちには、“
寒冷下では後輩たちよりは身体が動いた。
背嚢には固形燃料他の資材が詰まっていて、戦利品を持ち帰る余裕はない。
ふたりは玄室の隅に置かれている宝箱を無視して、次の玄室――目的の三つ目の玄室に進んだ。
新たな玄室に、敵の気配はない。
二×二区画の玄室の北東の北側に、今日の探索の目的である扉があった。
ドーラが歩み寄り、慎重に扉とその奥の空間に危険がないかを探る。
小さな三角形の耳がピンと立つ。
扉越しでは自慢の髭も空気の震えを捉えられない。
鼻もこの寒さでは役には立たない。
扉に罠はなく、猫の耳は異音を拾わなかった。
ドーラはうなずき、アッシュロードも目で答えた。
アッシュロードが力任せに扉を蹴り開け、間髪入れず得物を手にしたドーラが突入する。
そしてふたりの古強者は、あっと息を飲んだ。
そこにいたのは、蒼い鱗を持つ巨大な龍だった。
『――我は “
始点である縄梯子から、わずか八区画の距離だった。
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