道化

 その日の朝、ドーラ・ドラがグレイ・アッシュロードのアドレスに行くと、相棒は焚き火の側で毛布にくるまり、赤子のような深い眠りに落ちていた。

 焚き火の燃料は足されてすぐらしく、赤々と燃えている。

 男の側には炎に照らされた、鉄鍋とフライパンとすず製の小箱が並んでいた。

 小娘たちは、今日も甲斐甲斐しく競い合っているようだ。


 急ぐわけでもない。

 猫人フェルミスのくノ一は、相棒が目覚めるまで待つことにした。

 あの “大天使アークエンジェル” との死闘後、アッシュロードは不眠に苛まれていた。

 寝付くには大量の葡萄酒が必要で、ドーラは密かに融通してやっていたのだ。

 だがこの日の朝、アッシュロードの周囲に飲み干された空の革袋は転がっていない。

 どうやら昨夜は酒の力を借りることなく眠りに就けたようだ。


 やがて閉じた目蓋が微かに揺らぎ、覚醒の気配があった。

 ほどなくアッシュロードは目を覚まし、しばらく毛布にくるまったまま未練たらしくモゾモゾしたのち、よろぼうように身体を起こした。

 相変わらず老いた大型犬のように冴えない面だが、昨日までほどやつれてはいない。


「よく眠れたみたいだね」


「…………寝足りねぇ」


 かたわらにいたドーラに驚くでもなく、アッシュロードは目をショボショボさせてボヤいた。


「寝過ぎても怠くなるだけさね――こいつを飲んでシャキッとしな」


 ドーラは鉄鍋から錫のカップで白湯を汲むと、アッシュロードに差し出した。


「…………コーヒーが飲みてえ」


「あんた、好きだからね」


 野蛮人で馬鹿舌。

 食事も酒も安物・安酒で問題のないアッシュロードの数少ない贅沢が、遙か南方からもたらされるコーヒーだった。

 もっともそれは単に代替品がないからで、茶の類いではアッシュロードのを満足させることは出来ないだけだ

 それでも熱い液体が食道を通過すると、いくぶん意識の焦点が合った。


「不眠は去ったのかい?」


「……多分な」


 ズズッと最後の白湯を啜り終えると、ゴキゴキと凝り固まった首や肩の筋肉を解しながら、アッシュロードは答えた。

 しんどい戦いの後にはままあることだ。

 身体はへとへとに疲れているのに、神経は昂ぶったまま。

 大概、酒浸っているうちに治るもんだが……。


「……ギッタンギッタンにされたからな」


「? ギッタンギッタン?」


 怪訝な顔をするドーラに、アッシュロードは焚き火の側に置かれている鍋とフライパンと錫製の小箱に顎をしゃくった。


「――ああ、そういうことか。それはご愁傷様だったね」


「……酷い目に遭った」


 アッシュロードは昨日、を頭にふたつずつ年の離れた三姉妹に、乗っかられたり引っ張られたり押し潰されたり、にヘトヘトになって戻ってきたのだ。

 しかし、お陰で身心の疲れの帳尻が合い、久しぶりにグッスリ眠ることができた。


「怪我の功名ってわけかい」


 アッシュロードは答えず、三つ並んだ朝食のひとつをモソモソと口に運んだ。

 睡眠不足が解消されたせいだろう。噛むほどに無性に腹が空いてきて、モソモソはすぐにガツガツに変わった。

 まるで成長期の食欲が戻ってきたような勢いで、アッシュロードは結局用意されていた三人前の朝食すべてを平らげてしまった。

 美味かった。


 数週間ぶりの満足の行く食事を終え、ホッと虚脱状態のアッシュロードをドーラは黙って観察している。

 懸念していた不調は治まったように見える。

 ドーラの視線の先で、男が膝に手を置き立ち上がった。


「散々にボコられた傷が、ようやく回復したみてえだ」


 身体の各部を点検するように動かしたあと、アッシュロードが言った。


「今度会ったらガブに何か礼をしねえとな――天使の好物ってのはなんだと思う?」


「……」


「ドーラ?」


「え? あ、なんだい?」


「天使の好物だ。おっかねえ弟から姉に、なんか礼をしなくちゃなんねえだろ。天使ってのは普段なに食ってんだ?」


「そうさね。きっとあんたがくれるなら、なんでも喜ぶと思うよ」


「~そういう答えが一番困るんだが」


「なに言ってんだい。それよりもいいのかい。あの娘たちを差し置いてガブに礼だなんて、知られたらむくれちまうよ」


 ドーラの言葉に、アッシュロードは『……うっ』と詰まってしまった。

 確かに言うとおりだ。

 これ以上、押しくら饅頭のにされるのは御免である。


「そ、そうだな。礼は精神的なもんでいいだろ。俺たちはパーティの仲間だからな。仲間に礼品を贈るなんて変な話だ」


 それは、まるで道化であった。

 姉の熾天使セラフに助けられたと思い込んでいるアッシュロードを見て、ドーラは思った。

 この男はこうして、真実からどんどん遠ざかった人生を歩んでいくのだ。

 そうとは気づかぬままに、虚構の上に虚構を積み上げていく。

 なにもかも姉天使ガブリエルの言うとおりだ。

 人の記憶――心は、決して他の人間が足を踏み入れてはいけない聖域。

 その聖域を侵された者は、道化に堕ちる。

 奴隷でさえ、心は自由。

 この男には、その自由すらない。


(……いいよ、付き合ってやるよ。誰も観ていない舞台で道化を演じ続けるのは、いくらなんでも寂しすぎるさね。幕が下りるその時まで、あたしが見届けてやるよ)


「――んで、どうした?」


 自分を見つめるドーラの諦観の思いには気づかずに、アッシュロードが訊ねた。


「どうしたとは?」


「俺が起きるのを待ってたんだろ? 仕事か?」


「いや、別にそんな大したもんじゃないさね。ここのところ、あんたの調子が悪かったからちょいと様子を――」


 その時、乱れた跫音が駆け寄ってきた。

 ドスン! と勢いよく誰かがアッシュロードに抱きつく。


「おい、どうした?」


 戸惑いながら、震えながらすがりつく華奢な肩に語りかけるアッシュロード。

 

「ア、アッシュ……アッシュ」


 ハンナ・バレンタインが、真っ青な顔を上げた。


「トリニティ……トリニティ様が……」


「「――!?」」


 急報を受け、対策本部の天幕に駆け付けたアッシュロードとドーラが見たものは、執務用の椅子に落ちたトリニティ・レインの法衣ローブと、そこから零れた大量の灰だった。



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