太公望と鶏鍋①

「――太公望さん、釣れてますか?」


 わたしが声を掛けると、猫背さんが湖面に垂れた釣り糸をボーッと見つめたまま、


「……あんまり釣れてねぇ」


 億劫そうに足下に置いてある桶を指差しました。


「どれどれ? ――おお、そんなことはないですよ。みんなで食べる分には足りませんが、これはこれで魚醤の足しになりますよ」


 桶の中のお魚を見てはしゃぐわたしに、猫背なアッシュロードさんがゆるゆると顔を向けました。


「……飯か?」


「はい、飯です」


 ズイッと両手で下げてきた、熱々の水炊きの入った鉄鍋を差し出します。

 背中の背嚢にも腰の雑嚢にも、食器や調味料その他の品が詰められていて、キャンプ・DE・キャンプの準備は万端です。


「少し休憩しましょう。一日中ではさすがに疲れてしまいますよ」


「……座って釣り糸を垂れてるだけだ。一〇〇日だって疲れるものか」


「そうではなくて――」


 なんとも力のないアッシュロードさんに、柔らかく微笑みます。


「一日中、頭の中で大冒険を繰り返していては――という意味です」


「……」


 アッシュロードさんは緩慢な動作で釣り竿を置くと、お鍋を下ろすわたしに向き直りました。

 わたしは腰の雑嚢から、スープ鉢やらスプーンやらフォークやら、そしてもちろんライスライト特製のつけダレやらを取り出して、疲れた果てた老グレートデンのような気配を漂わせている人に差し出します。


「つけダレは濃い目なので、お鍋からお肉と一緒に煮汁も加えてください。昆布ケルプの出汁と合わさって、想像を絶する美味しさになりますよ。どれくらい美味しいかというと、想像を絶するので口では説明できないのです」


 アッシュロードさんは言われたとおり素直に、お鍋からお肉と煮汁をつけダレの入ったスープ鉢にすくいました。


(ああ……この人がこんな素直にわたしの言うこと聞くなんて。これは相当疲れていますね)


 気遣わしげなわたしの視線には気づかずに、アッシュロードさんは煮汁とつけダレがブレンドしたスープを一口啜りました。


「……うん、美味え」


「想像を絶するぐらいにですか?」


「……うん、想像を絶するぐらいに美味え」


 シャッ! と拳を握ります。

 釣り糸は垂れながら終日頭をフル回転させていたアッシュロードさんは、わたしと元気がないだけなのでしょうが、それでも嬉しいことには変わりありません。


「……肉も美味えが、この汁が美味え」


「昆布と魚醤のダブルうまみ成分グルタミンですからね」


「初めての味だが前にもどっかで味わった気がする……おめえはやっぱり料理が上手えな」


 アッシュロードさんは遠くを見つめるような瞳で、もぐもぐと口を動かしました。


(……それはどこの “街” でですか? わたしの知らない街ですか? それとも……)


「……この美味しさうまみの秘密を解明したのは、わたしと同じ国の人なのですよ。池田菊苗いけだきくなえという偉い学者の方で、その人の研究が、やがて新しい調味料として世界に広まっていったんです」


「……おめえは物知りだな」


「えへへ、ほんとはお父さんの受け売りなんです」


 わたしは照れて、頭に手をやる仕草をしてしまいました。

 それから顔を上げて、少しだけ真面目な顔で、


「よかったら、話してみませんか? ひとりで考え込むよりも、誰かと話をしているときの方が “悪巧み” が浮かぶものですよ。お父さんも仕事に行き詰まるとよくわたしとお話をするんです。わたしはこれでも聞き上手なんですよ」


 えっへん。


「わたしでは、あなたのお役には立てませんか?」


 冗談めかしたわたしの言葉に、アッシュロードさんはもぐもぐと鶏肉を噛みながら、やはり遠くを見つめるような瞳を浮かべています。

 そうしてしばらくしてから、その口から意外な言葉が漏れました。


「……そんなことねぇ」


「……え?」


「……出会ったばかりの頃ならいざしらず、今のおめえはそんなことねぇ」


 訊ねたわたしが虚を突かれてしまったほど、それは予想外の言葉でした。


「……おめえは才能があるうえに経験も積んだ、今じゃ一端いっぱしどころか一角ひとかどの聖職者……聖女だ。役に立たねえなんて……そんなことがあるわけがねぇ」


 それは……わたしがこの人から聞いた中で、これまでで一番嬉しい言葉でした。

 比肩できる言葉があるとするなら、あの人から “迷宮街” で受け取ったあの言葉だけでしょう。


「まさか……そんな言葉をいただけるとは思いませんでした」


 思わず涙ぐんでしまった……わたしです。


「……ライスライト。俺ぁ、別におまえを軽んじてるわけでも、見下してるわけでもねぇんだ。ただ前にも言ったかもしれねえが、俺ぁおめぇを汚しちゃなんねぇと思ってる……」


 いつの間にか食事の手を止めて、アッシュロードさんが言葉を続けてくれます。


「……おめえは便宜上は俺の所有物ってことになってるが、そんなのはとんでもねぇ。おめえは今、ここの人間の心の拠り所になりつつある。おめえが聖女だからじゃねぇ。おめえがおめえだから……エバ・ライスライトがエバ・ライスライトだからだ。それに比べて……」


「……それに比べて?」


「……それに比べて俺が今考えてるのは、狡くて、卑怯で、卑劣で、悪辣極まる汚物溜めみてえに汚ねえことだ。人を騙して、疑わせて、殺し合いをさせて、漁父の利を得ようとする……そんな人非人みてえなことだ……俺ぁ、こんなことにおめえを巻き込みたくはねえんだ」


 そういうと、アッシュロードさんはもそもそとまた鶏肉を食べ始めました。

 その表情は、まるで灰を噛んでいるような顔です。


「アッシュロードさん。あなたのお気持ち、とても嬉しいです」


 わたしは微笑みました。

 そして自分でもわかります。

 今浮かんでいるこの微笑みは、これまでの人生で一番大人びた微笑だと。


「でも、あなたの言う人を――わたしはもう幾人もあやめているのですよ」


 アッシュロードさんが驚いた顔で、わたしを見つめました。


「わたしは汚れていますか? 穢れてしまっていますか? 歪んでしまっていますか?」


 戦いはいつも自分のため。

 誰かを傷つけるためではなく、誰かを守ることになると信じて。

 大切な、誰かを。


 ――そうでしょう? アッシュロードさん。


「……」


 それは長い……とても長い沈黙でした。

 でも、アッシュロードさんは誤魔化すことなく、答えてくれました。


「……いや、おめえは汚れても、穢れて、歪んでもいねえ。おめえは……綺麗なままだ」


 それから、アッシュロードさんは言いました。


「……話、聞いてくれるか? あんまり気持ちのいい話じゃねえが」


「…………はい」



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