地底湖

「たった八区画ブロック(八〇メートル)か」


 トリニティは付近の偵察から戻ったボッシュの報告に、困惑と納得のない交ぜになった返事をした。


「……うむ。実測だとその程度だ」


 老ドワーフは白い眉と髭の奥で重々しく頷いた。

 その貫禄からどんな所作でも重厚に映ってしまうのが、城塞都市最強の戦士 “ボッシュ・ザ・グレート偉大なるボッシュ” なのである。


「ここも “魔女アンドリーナの迷宮” と同じと言うわけか。時空が歪んでいる」


 この広大な地底湖は、実測距離ではわずか八〇メートルほどしか幅がないのである。

 しかし、偵察に出たボッシュと “フレンドシップ7”の五人が戻ったのは、たっぷり三時間が経った頃だった。

 たった八〇メートルを少し調べて往復するだけで、それだけの時間が掛かったのである。


「それで、拠点になりそうな場所は見つかったか?」


「……ここだ」


「ここか」


「……ここだ」


「そうか」


 トリニティは、小さくため息を吐いた。

 ドワーフとは元来無口で無表情で、必要なとき以外は岩のように押し黙っているものだが、この老いたドワーフときたら必要なときでも岩のようだ。


 ボッシュが言うには、東は煉瓦造りの内壁が北に続いており、五区画先でやはり内壁にぶつかっている。

 南の行き当たりは厚い岩盤の壁で、おそらくは迷宮の外壁。

 南西の角に、地底湖側に玄室の壁があり、扉がふたつ付いている。

 扉の奥は二×二の玄室で、階下への階段があったが落盤で埋まっていた。

 おそらくこれが、“龍の文鎮” と下界とをつなぐ出入り口だろう。

 湖の水は海水であり飲料水としては利用できない。

 危険な生物はいないようだが、短時間の観察なので詳細は不明。

 今回の偵察では魔物と遭遇することはなかったので、生息しているモンスターのレベルも不明。


 結論。

 一〇〇〇人からの人間を一箇所にまとめておけるのは、現状ではここしかない。


「ご苦労だった。薪をいくらか用意してある。それで火を熾して休んでくれ」


 トリニティの労いの言葉を受けて、ボッシュとレットら “フレンドシップ7”の五人は、彼女の前から下がった。


「……薪はどのくらい保ちそうだ?」


「節約しても一〇日が限度でしょう」


 トリニティの問いに、側に控えていたハンナが答えた。

 薪は運良く再出現テレアウトしていた、使節団の箱馬車と輜重隊の荷馬車を物である。

 トリニティがトレバーンから下賜された御座馬車と、他の随員たちが座乗していた箱馬車。そして輜重隊の荷馬車を合せて三〇台。

 必要な分だけを叩き壊しながら薪として利用しているが、なにせ一〇〇〇人からの人間が暖を取るのである。

 木材は炭とは違い火持ちが悪いのだ。

 そして何より、食料と水である。


「リーンガミルが近づいていたため、輜重隊の食料も残り僅かな状態でした。一日の必要最低限を平等に配給しても、やはり七日……いえ五日が限界です」


 ハンナの表情が曇る。

 馬車が転移したのなら、なぜそれを引いていた馬も一緒に転移してこないのだ。

 馬車を引いていた馬や、騎士が騎乗していた馬がいれば、最悪それらを潰して命をつなぐこともできただろうに。

 いや、これでも不幸中の幸いなのだ……と今や有能な主計官となったバレンタイン家の令嬢は思い直した。

 輜重隊の荷馬車が転移してこなければ、自分たちは今夜?(もはや今が昼なのか夜なのか、それさえもわからない)の食事にも事欠くありさまだったのだから。


「……となると、やはり一番の問題は水か」


「……はい」


 補給計画の立案に長けたふたりの有能な人材は、恨めしげに目の前に広がる地底湖を見つめた。

 あれだけ満々とした水が手の届く距離にあるというのに、飲むことができないというのだから。


「今は床の窪みに溜った結露を舐めて渇きを凌いでいますが、やはりこの人数ですと……」


「……」


 少量の飲料水であるなら、トリニティの知識をもってすれば容易に作り出すことが可能だ。

 いやトリニティでなくとも、ヴァルレハやパーシャといった魔術師としての基本的な知識がある者なら、確保できるだろう。

 だが、ここでも随員の数が問題だった。

 必要なのは一〇〇〇人もの人間の渇きを癒し、生活生存に必要な量の水なのである。


 思案するトリニティ。

 この地底湖の一帯の湿度は、確実に飽和している――つまり一〇〇パーセントだ。

 自分たちを凍えさせ、そして渇きから救った結露の量からもそれは確かだろう。

 今度こそ本当に凍えることになるだろうが、最悪自分の魔術で……。

 トリニティがそこまで肚を決めかけたとき、彼女の杖に灯された魔法光の明かりの中に、猫背の男と両目を泣き腫らした少女が現われた。


「――お水、手に入るかもしれません」


◆◇◆





「……そろそろ戻るか」


「うぇ!?」


 アッシュロードさんがそういったとき、思わず牛車に轢死されたカエルのような声が漏れてしまいました。


「な、なんだよ?」


「い、いえ」


 せ、せっかくよい雰囲気だったのに……。


「あ~、みんなのところに戻るのは少し待ってください」


「あ? なんで?」


「か、顔を洗いたいのです。こんな顔ではみんなに会えませんよ」


(……人の服で鼻かんでおいてそりゃねえだろう)


「――あ! いま蔑んだ目をしましたね! 女の子はそういう視線には敏感なんですよ!」


「御託はいいから、早く済ませてくれ」


「もう、デリカシーがないのですから」


(……だから、人の服で鼻かんでおいてそりゃねえだろう)


 わたしは後ろ髪を引かれる思いで、アッシュロードさんから離れました。

 それでも心は軽かったです……あの日から一番。

 すぐ近くにこんなに大きな地底湖があるのですから、これを使わないという話はないでしょう。

 トトトッと水打ち際に走ったわたしの背中に、アッシュロードさんの鋭い声が届きます。


「おい! 毒水かもしれねえんだ! 迂闊に触るな! それにモンスターだっているかも!」


「――そうでした」


 水面に伸ばしかけた手を、慌てて引っ込めます。

 危ない、危ない。

 確かにアッシュロードさんの言うとおりです。


「「……」」


 わたしは後ずさると、隣にきたアッシュロードさんと並んで、しばらくの間ジッと暗くて広い湖を観察しました。

 途中からは、ふたりでしゃがみ込んで観察しました。

 仲良くぽつねんと膝を抱えて観察しました。


「……変な生き物はいなさそうですね」


「……おまえのいう “変な” がどの程度変なのかはわからんが、俺の中の “変” の基準だと、まあそうだな」


「はぁ……その捻くれた物言いに、今はもう愛情すら抱いています」


「……」


 わたしはしまったアッシュロードさんを無視して、ローブの袖をほんの少しだけ水面に浸すと反応を見ました。

 リトマス試験紙……とは行きませんが、強い酸性かアルカリ性だったら何かしらの変化があるはずです。


「変わりはありませんね」


「“酸の海” ってわけじゃないみたいだな」


「それをいうなら、“酸の湖” でしょう」


 恐る恐る指先を濡れた袖に触れてみましたが、痛みが走ることも、指先の皮膚が溶けてヌルヌルすることもありません。


「で、では、舐めてみますね。いざという時はお願いします」


 言外に “解毒キュア・ポイズン” 待機お願いします! の意を込めて、アッシュロードさんに頼みます。


「“手裏剣” がありゃなぁ」


 所持者に “毒” に対する抵抗力を与える “手裏剣苦無” ですが、残念なことにいまここにはありません。

 ドーラさんが所持していた品も、ビギナーズエリアの戦いで “達人ザ・ハイマスター” に奪われてしまいました。


「い、いきます」


「お、おう」


 ちょぴっ……ペロッ。


「ど、どうだ!? “解毒” の加護はいるか!?」


「うううっ――」


「ラ、ライスライト!? ま、待ってろ! 今、加護を――」


「美味いっ!」


「……」


「……」


「きゃーーっ! 湖に放り込まないでくださーい!」


「うるせえ! おまえ、さっきからちょっと増長してるぞ!」


「してません、してません! 軽い冗句ですよ! お茶目な冗談ですよ!」


 アッシュロードさんに抱きかかえられ、今にも湖に放り込まれそうになりながら、わたしは必死に弁明しました。


「……あ」


「な、なんだ? やっぱり毒か?」


「いえ、でもやっぱり塩っぱいですね」


「あ? 海水なのか? それなら飲めねえじゃねえか」


「確かに飲めないとは思いますが、でも海水とも違うような。海の水って、もっとこう『うげーーっ!』っていうくらいに塩辛いじゃないですか。このお水は『うん、塩っぱいね』っていう程度なんです」


「……」


 考え込む、アッシュロードさん。


「つまり、近くにドデカい岩塩の固まりでもあるか、あるいは……」


「湖の一部が海と繋がっている……?」


 わたしの当てずっぽうの考えに、珍しくアッシュロードさんがうなずいてくれました。



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