窮地

 帝国軍の指揮官であるグレイ・アッシュロードが異変を察したのは、“駆け出し区域ビギナーズエリア” の後方に迷宮軍が逆々侵攻を仕掛けてきた三〇分後だった。

 一時間ごとに来るはずの定時報告がなかったからだが、それが早かったのか遅かったのか、判断に迷う微妙なタイミングだった。

 

 アッシュロードはその外見や行動とは裏腹に、よく言って苦労性。

 悪く言えば悲観的な思考をする男だ。

 常に最悪の事態を想定している……というか、考えてしまう。

 故に迷宮内部との連絡は密であり、厳重であった。

 伝令は常時二人組であり、片方に異変があった場合でも報告がなされる仕組みになっていた。

 その伝令がふたりともこない。


 伝令を出すのは “駆け出し区域” にある三つの玄室のうち、“第一” に置かれている前線司令部だ。

 最前線の “ウォール” が正常に機能しているなら、定時連絡を怠り滞らせるような真似はしないだろう。

 司令部要員の士官や兵は、あの狂君主の兵士たちである。

 アッシュロードがことさらに指示を出さなくても、それ以上の働きをしてくれる。


 後方基地リア・ベースの総司令部で、アッシュロードの数少ない特技がビンビンに警報を発していた――こいつはヤバい。

 “壁” はドーラ・ドラが寄って守っている。

 よほどのことがない限りは抜かれることはない。

 まして今の時間は、探索者最強のパーティである “緋色の矢” が守備に加わっている。

 “壁” が無効化される何かが起こったと考えるのが一番蓋然性が高い。


「迷宮で異変だ。前線基地で何かあったらしい。すぐに斥候を送って状況を確認させろ」


 指示を出しながら、アッシュロードはこのやり方では駄目だ――と直感していた。

 この司令部に居座っていては、状況の変化に対応できない。


「司令部を移動させる。迷宮の入り口だ」


 この辺りがアッシュロードの凄みだ。

 本来なら総司令部が移動するなど混乱の元でしかない。

 各方面からの報告や連絡が迷子になる。


 “風も林も火も、後ろの山が構えて動かないからこそ、存分にその力を発揮できるのだよ”


 トリニティ・レインがここにいれば、そういって彼を諫めたであろう。

 クソ喰らえである。

 今は状況の把握と、その状況のこれ以上の悪化を防ぐことが第一であり、他はすべて枝葉末節だ。

 アッシュロードは総司令部の要員の中で一番目端の利きそうな士官を残こし、後を任せた。

 大は軍の差し引きから小は今夜の晩飯の内容まで、すべて直感で片付けるアッシュロードには、彼の意図を汲み取り論理的に体系立て理論的に処理できる相方が必要なのだが、そのような人材は滅多にいない。

 こんな時こそトリニティにいてほしかったが、彼女の経綸の才は今や帝国の屋台骨となっている。


(……お互いに偉くなりすぎたな)


 アッシュロードは漆黒の外套マントを翻して司令部の天幕を出た。


◆◇◆


 パーシャは回廊の西から雄叫びを上げて迫ってくる四体の “毒巨人ポイゾンジャイアント” を見て、“第三” で休息を摂っていた一個小隊五〇人の兵士は全滅したと悟った。

 おそらく “毒巨人” を相手にする上でもっとも恐ろしい不意打ちからの毒息ブレスを浴びてしまったのだろう。

 なぜなら “毒巨人” には致命的な弱点があり、それを衝けさえすれば勝敗は一瞬で決するからだ。

 ここにこの巨体が現われたと言うことは、“第三” にいた守備兵たちは弱点を衝けなかったのだ。

 四体からもの毒息を受けては、一般の兵ではとても耐えられない。

 すなわち全滅だ。


 直前に大戦果を上げたばかりの四体の “毒巨人” にとって不運だったのは、次の獲物が彼らにとって最悪の相性の持ち主だったことだ。

 巨人族から見れば、その獲物は矮小で食いでがなく、手慰みにするにもひ弱で直ぐに死にそうで、獲物としてはまったく物足りなかった。

 だがその獲物――ホビットがを持ったとき、“毒巨人” たちにとってまさに天敵中の天敵となるのだ。


「――頼んだわよ、あたいの “いとしいしとmy precioussss” !」


 パーシャが叫び、右手を迫り来る “毒巨人” たちに突き出す。

 親指に嵌めた魔法の指輪が秘められた力を解放し、前方広範囲に不可視の有毒粒子を発生させる。

 四体の “毒巨人” たちは一瞬硬直し、細胞単位で分解された身体が突進の慣性で衝き崩れた。


 “ファイアー”“アース”“フロスト(氷)” そして “毒” の生粋の巨人族のうち、“炎” を除く他の種族はネームドレベル8”よりもモンスターレベルが低く、 “滅消ディストラクション” の魔法の好餌でしかないのである。

 かくて矮小だが俊敏極まるホビットが詠唱不要の “滅消の指輪” を持ったとき、“毒巨人” は莫大な経験値の山でしかなくなるのだ。

 乾いた大音と共に、大量の塵が回廊の床にぶちまけられる。


「ドーラ、こっちは終わったよ――ドーラ!?」


 目論見通り “滅菌” を終えたパーシャが勢い込んで振り返ると、そこには信じられない光景が拡がっていた。

 あのボーパルキャットが、探索者最強のマスターニンジャが、右腕を肘から下で切り落とされてうずくまっていたのだ。


「ドーラ!」


「――来るな!」


 苦痛に歪む声と表情で、ドーラが怒鳴る。

 パーシャ、カドモフ、フェリリルの三人が、その声に立ち竦んだ。


「……未熟者には過ぎたる品よ」


 ハイマスターが足元に転がっていたドーラの右手から、“手裏剣苦無” だけをむしり取った。


「……わしとこの苦無で葬ってやるのがせめてもの情け」


「情け? 笑わせるんじゃないよ……そんな感情一欠片も持ち合わせちゃいないくせに」


 ドーラ自慢の艶やかな体毛が脂汗に濡れている。

 利き腕を切り落とされた苦痛は凄まじいが、地獄の鬼も逃げ出す厳しい修行を潜り抜けた彼女である。

 痛みは耐えることも無視することもできた。

 しかし、師匠の口にした “男” の一言で激発してしまった己への動揺は隠しきれない。

 ドーラにしてみれば自身の忍者としてのアイデンティティを、自分の手で砕いてしまったようなものだ。


 ドーラは右腕の止血点を抑えていた左手を離し、左背に背負っていた予備の武器サイドアームを引き抜いた。

 “悪の曲剣イビル・サーバー” の曇りのない刀身が、くノ一の追い詰められた横顔を映す。

 もはや誰の目にも勝敗は明らかだった。

 ドーラ自身も、ここから逆転できるとは露程も考えていない。

 諦めたわけではない。

 冷徹な殺人機械としての頭脳がいくら回転しても、勝機を見出せないのである。

 せめて相打ちに。

 今のノーラの頭にあるのは、それだけだった。

 それだけだが、限りなく難しい仕事。


(……せめてこいつを道ずれにしてホビットたちを助けないとね。あの世であいつに合わせる顔がない)


 そう思ってから、ドーラは内心で苦笑した。

 こいつ師匠の言うとおりだ。


(……まぁ、二〇年も一緒にいれば情のひとつも移るってもんさね)


 苦笑しつつ、ドーラは悪くない気分だった。


 そして、ノーラ。

 隠密である素性を隠すために拾い育てた娘。

 欺瞞から始まった親子関係だったが、こちらにも確かな情が生まれていた。

 母親としての情。

 自分を失ったあとのあの子を思うと心が痛まぬわけではないが、これも人生だ。

 生きるために必要な知恵は、教えられる限り教えた。

 あとはあの子の自身の “生きる力” 次第だ。

 なによりあいつが、あの男がよろしくやってくれるだろう。

 何も心配することはない。


 いつのまにかドーラの動揺は治まっていた。

 大量の血を失ったというのに呼吸は穏やかで、心は水鏡のように静逸だった。


「……師匠。あたしはね、今すごく幸せな気分なんだよ」


「……」


「……こんな気持ち、師匠にはわからないだろうね」


 己がまだ女としての感情と母性を残していたことは、妙なこそばゆさと共に、これから死を迎える自分に何かを与えてくれる気がした。

 そして口元にアルカイックな笑みを浮かべて、ドーラは言うのだった。


「……さあ、死合おうじゃないか。“ザ・ハイマスター”」



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