心象風景

(大人は馬鹿ニャ! 大馬鹿ニャ!)


 六芒魔方陣に寝かされたエバとリンダの足元で精神同調チューニングの呪文の詠唱を始めたを見て、ノーラは焦っていた。

 大いに焦っていた。

 どのくらい焦っていたかというと、その場で駆け足して前後左右を見渡し、無意識に打開策を探すほどに焦っていた。


(大人は馬鹿ニャ! 大馬鹿ニャ!)


 ノーラは地団駄に近いその場駆け足を続けながら、もう一度心の中で叫んだ。

 あの “リンダ” という女は絶対にマズい。

 危ない臭いがプンプンして、平べったい猫の鼻さえ折れ曲がりそうだ。

 あんな女をエバを助けるためにエバの中に入れるなんて、だ。


(マズいニャ! マズいニャ! マズいニャ! エバはニャーの友だちニャ!)


 それだけではない。

 エバはノーラの命の恩人でもある。

 あの時エバがいなければ、自分はトレバーンの近侍の騎士に斬り捨てられていただろう。

 今度は自分がエバを助ける番だ――助けなければならない。

 幼心にそこまでは思い至るものの、そこから先が思いつかない。わからない。閃かない。


(どうすればいいんニャ! どうすればいいんニャ! どうすればいいんニャ!)


 母であるドーラには、こういう時は “一歩下がって考えろ” ――と教えられてきたが、一歩下がればそこはもう地下室の結露した岩壁で、これ以上は下がれない。


(マンマ、ニャーはどうしたらいいんニャ! マンマ!)


 母のドーラは何かにつけて、娘であるノーラに生き残るための知恵を授けてきた。

 “こまった時は一歩下がって考える” ――はその代表的なものだったし、他にも “カツオブシとニボシならニボシの方が身体にいい” というのもあった。

 しかし、この状況で使える “マンマの知恵袋” はなんだ!?

 焦れば焦るほど、袋から使えそうな知恵は見つからないし、出てこない。

 今はカツオブシをなめてる場合でも、ニボシを囓っている場合でもない。


 そうこうしているうちに の詠唱は終わりに近づき、呪文は完成しようとしていた。

 最後の韻が踏まれ、発動の印が結ばれる。


(――ニャーーーーーーッ!!!!!!!)


 ノーラは一目散に走った。

 結局どうすればいいのか、思いつかなかった。わからなかった。閃かなかった。

 だから走るしかなかった。

 走ってエバと一緒にいるしか、一緒にいてエバを守るしかなかった。

 だからノーラは走って、飛び跳ねて、エバの上に覆い被さった。

 精神同調の呪文が完成し、ノーラの意識は魔法によって


(いいかい、ノーラ。猫ってのはね、本当にヤバい時には身体が固まって動けなくなっちまうんだ。だからもしあんたがそういう目に遭ったら、とにかく動きな。なに、なんにも考えなくていい。良いも悪いも関係ない。好きも嫌いもクソ喰らえで、とにかく動くんだ。いいかい? 忘れるんじゃないよ?)


 意識を抜かれる瞬間、ノーラはようやくマンマの知恵袋の中から使えそうな言葉をみつけた。

 どうやら自分は間違ってはいなかったらしい。

 ノーラは満足して意識を抜かれた。


◆◇◆


「――くっ、いったい何事だ!?」


 トリニティは呪文の完成と同時に起こった精神波の逆流に、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

 頭を振って、揺らされた脳の状態を無理やり正常値に近づける。

 顔を上げ目蓋を開くと、そこには呆然とした様子のハンナやダイモンたち探索者がいた。

 彼女らの視線の先には、六芒魔方陣の中に並んで寝かされれているエバ・ライスライトとリンダ・リン。そして……。


「ノーラ!」


 トリニティ・レインが心底青ざめるなど、上帝トレバーンの勘気をこうむった時でさえ滅多にないことだった。


「おい、ノーラ!」


 ふらつく足でエバの上に倒れ込んでいるノーラに近づき、その身体に触れる。

 辛うじて理性が働き、無意識に揺すろうとする動作を抑制した。

 代わりに首筋に指を当て、脈を測る。

 正常だった。


「ど、どうですか……?」


 ようやく硬直の解けたハンナが、トリニティに負けず劣らずの血の気の引いた顔で訊ねた。


「生きている……生きてはいる」


 そこまで言って、トリニティは激発した。


「いったい何が起きたのだ!?」


 そんなことは問わずとも分かり切ってはいたが、自分の迂闊さへの憤りで自制が効かない。


「きゅ、急に飛び出してきたんだ……止める間もなくて」


 ダイモンが、こちらもやっと声を絞り出した。


「……くっ!」


 何が “大アカシニア最大最強の魔法使いスペルキャスター” だ、この大間抜けめ。

 幼子が時として予想だにしない行動を採るなど、想定の範囲内だろうに。

 そんなことに明晰な頭脳や、まして未来予知の “恩寵” や “聖寵” など必要ない。

 一般的な常識があればそれで十分だ。

 市井に生きる女なら誰しも、ノーラと共に強大な魔法を行使している現場に立ち合えば、あの子の手を握って絶対に離さなかったはずだ。

 自分はその程度の常識すらない、大間抜けの愚か者だ。

 トリニティは自分の頭をもぎとって、足元の剥き出しの岩盤に叩きつけてやりたかった。


「ノ、ノーラはどうなったのです? この子はいったい?」


「わからん……運が良ければリンダと共に、エバの精神と同調しただろう」


「運が悪ければ……」


「……」


 トリニティは答えなかった。答えようがなかった。

 そんなことは彼女にもわからないのだから。


◆◇◆


 リンダが家に戻って、この世界ではコスプレ以外の何物でもない装備を着替えようと思ったとき、突然頭上の空間が歪んで、幼女 “猫人族フェルミス” のノーラ・ノラが現われた。

 現われただけでなく、あろうことかリンダの上に落ちてきた。

 自身が宙空から出現し、アスファルトの路上に尻餅を突いていたリンダである。

 いくら俊敏な盗賊シーフといえど、かわしようがなかった。


 ドサッ!


「――うっ!!?」


 腹の上にボウリングのボールよりもよほど重い物体を落とされ、リンダが呻く。

 息が出来ない。

 いくら打撃に強い革鎧レザーアーマーを着込んでるとはいっても、防御力には限度がある。


(―― 猫なんだから、受け身ぐらいとってよ!)


 顔を顰めながらリンダは身体を起こし、自分の上の子猫人に毒突いた。


「ちょっと、なんであんたがここにいるのよ――」


「……」


「ちょっと、どうしたのよ? ねえ、ちょっと」


 異変に気づいたリンダが、ノーラの身体を揺する。

 ノーラは完全に意識を失っていて、ピクリとも反応を示さない。


「冗談はやめてよね」


 リンダは自分が動揺していることに気づいて、

 壊れ、凍てついていた自分の心が、馴染んだ世界の馴染んだ空気に触れて、再び動き出してしまったのではないか。


(ほんと冗談はやめてよ)


 リンダは波立った心を無理やり抑えつけ、鎮めた。

 ここは枝葉瑞穂の心象風景でしかなく、自分がいた――自分の世界ではないのだ。

 あの娘が心に描いた風景で動揺させられるなど、屈辱以外のなにものでもない。

 気を失ったままのノーラを身体の上からどかすと、リンダは立ち上がってぐったりと弛緩している猫人フェルミスの幼女を見下ろした。


(……このままここに放っておいても多分問題にはならない)


 ここは現実の世界ではない。

 あくまで枝葉瑞穂が心の中に描き出した世界だ。

 猫人の子供がうろついていたところで、


(……でも)


 ノーラは不確定要素だ。

 目の届かない場所で妙な真似をされて、それが自分の妨げになったら困る。

 そう、自分は目的があってこの世界にきたのだ。

 その妨げになるような存在は……。

 リンダは左の腰に手を伸ばした。

 すでに馴染んで久しい短剣ショートソードの金属製の柄に、指先が触れる……。



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