アトボロス第三部冒頭 「第156話 坑道の荷車」
「腰を入れて押せ、われらの穴が一番遅いわ!」
荷車をいっしょに押すでもなく、五十のなかほどに見える犬人の男が吠えた。第十三番坑道長だ。いつものように荷車の背後で怒鳴っている。
「なんだ、モルアム、その目は!」
「いえ、なんでもありません」
アトボロス王に会いたかった。この坑道に吹く風とは、真逆のような少年だった。
ここの風は、汗の匂いとほこり、そして鉄鉱石からにじみでる匂いもある。鉄鉱石の匂いは鉄の匂いで、なぜか血の匂いに似ていた。
それにくらべ、アトボロス王の風は、どこまでも爽やかだった。「なぜか荒野にさいた
アトボロス王に会いたいが、五年間、レヴェノアの街へは出入り禁止とされている。それに、おれには会う資格などない。
父がしていた密偵の仕事は、他愛のないものだった。文官で日ごろに見る数字を、アッシリアの手の者に話す。それだけで金になった。
ここの坑道長のように、人の金をくすねるわけでもない。それほど悪いことだとも思わなかった。
いや、悪いのか。
アトボロス王の信頼を裏切ったと、おれはなげいているが、そのまえに領主だったペルメドス。彼を長年にわたって
文官長となったペルメドスと仕事をしてわかった。才気にあふれ、仁と徳を重んじる人であった。
「ほれ、もっと押さぬか!」
坑道長がまた大声をだす。荷車用の道は押しやすいように平たくなっているが、ひたすら坂道を登ることになる。男三人で押し、上からおなじく三人の男が綱で引いていた。
二手に分けているのは、下で押す者が足をすべらせたときのためだ。上から綱で引いていれば、いざというとき踏んばって止められる。一台の荷車に六人の男で取りくんでいるが、坂の傾斜はきつく、それほど速くは進まない。
「使えんやつらめ!」
ならば、自身が押せばいいだろう。そう言い返したくなったが、おれも坑道長と変らぬ
荷車に肩をつけ、ふんばった。動きがすこし速くなる。それでも子供が歩くより遅かった。
「
聞きまちがえだろうか。精霊の護文。その名を聞いた気がする。いや、まちがいではない。からだに力がみなぎってくる。
歩く子供を追い越せそうな速さになった。坂をあがりきる。押していた三人も、上で引いていた三人も息を切らし、ひたいの汗をぬぐった。
「モルアム、すこし話がある」
坑道の入口から声をかけられた。入口からは光がさすのでまぶしく、声を発した者の顔がわからない。
「だれだ、おめえ、おれに許可なく話すんじゃねえ!」
荷車を押してもいないのに、息を切らし坂をあがってきた坑道長が怒鳴った。
「ほう、
「あたりめえだ。なにをするにも、このおれさま、坑道長の許可がいる」
入口からの光を背景にした影が動きを止めた。おそらく、あきれている。おれもここで働き始めて、まず最初にあきれたからだ。
「そうか。では、坑道長の任を解く。このラウリオン鉱山から立ち去るがよい」
「なんだてめえ、そんな権限、持ってねえだろ!」
「残念ながら、持っておるの」
人影が歩き、入口の光からずれて顔が見えた。
「宰相・・・・・・」
こんなところで見るはずのない顔がそこにあった。レヴェノア王国、第二の権力を持つ老猿人。ボンフェラート宰相だ。
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