アグラ

イジス

アグラ

 昔、今から二千年ほど前の話である。当時、中央アジアでは戦乱が絶えなかった。さまざまな小国大国が乱立し、奴隷や土地の互いの利益をめぐって激しく争っていたのである。

 アグラはある国の勇猛な兵士だった。太い眉に大きな鼻の恐ろしい顔をした大男である。彼の重い足音をきくと、山の虎さえ道の上に姿を現さないほどだった。

 彼はいま、寺院の前の広場の石段の上で、鼾をかいて眠っていた。広場は参詣の人々や物売たちで一杯だった。荷を積んだ馬が蠅を追う尻尾を振るたびにかならず誰かの顏に当たった。

 そういう人混みのなかで、アグラは仰向けに目を閉じていた。久しぶりに戦場から帰ったので、ひどく疲れ切っていた。


 ごうごうと上げる鼾の下で、彼はふしぎな夢を見た。猿かなにかの獣を形をした黒い影が、胸の上で固まったり崩れたりしながら、

「わたしはこの寺院の霊である。もしお前が千人の命をこの寺に捧げるなら、極楽に往生することを約束してやろう」と告げた。

 汗びっしょりになって飛び起きたアグラに驚いて、近くで果物を売っていた男がきいた。

「兵隊さん、どうしなすった」

「夢をみた」

「なんだ、夢ですか。それでいい夢ですかい。それとも悪い夢」

「よい夢じゃった」

 そういうと、腰に提げていた刀を抜き放ち、果物売りの首をはねた。そして、群衆が上げる悲鳴の中でたちまち十人余りを切り殺した。


 彼は物心ついてよりこの方、戦場で多くの人間を殺してきた。いつしか大刀は血に錆び、盾は敵兵の涙で腐食した。兵士ばかりではない、攻め入った町で無辜の市民を手に掛けたことも一度ならずあった。そんな外道と同じ血塗られた生涯であれば、後生はいずれ地獄の猛火に焼かれるものと覚悟していた。

 が、このたび神は救いを示された。虹が雨雲を開くように運命に希望を投げかけたのである。今は道端の草も芳しい。彼の胸はよろこびに満ちていた。


 しかし、人を殺めて往生できる道理はない。それをさも出来るかのようにたぶらかしたのは、寺院に棲みついていた悪霊だった。が、彼がそれを知るはずもなかった。


 二十日余り経ったころ、月の満ち欠けの移ろいも糸のように細ったある日、彼が殺した人の数は九百九十九人になっていた。

 あと一人で満願成就である。極楽の蓮の香りはたしかにアグラの逞しい肩の辺りに漂い始めているようだった。

 朝から家を出て、渡し場に差し掛かると、女がひとり立っていた。船はあいにくの嵐で出なかったらしい。河の水は怒った龍の鱗のように起ち上っている。

 刀を手に近づくアグラを見て、女はおびえた。嵐を避けていた水鳥たちが、アグラの殺気に戦いて杭の蔭から飛び立って行った。

 女は二十歳くらいであろう。頬に若々しい血の色を漲らせていた。

「どうかお許し下さいまし。これより子を産みに里へ帰るところでございます。わたくしが死んではお腹の子も生きてはおられません」

 アグラはためらった。寺院の霊が示したのは千人の命である、あと一つでよい。二つまでは必要なかった。


 突然、槍がとんできて、アグラの腕を貫いた。驚いていると、河に立ち込めていた靄のなかから敵国の軍艦が巨大な影を揺らして現れた。渡し場の建物が火を噴いて崩れ落ちた。軍艦の上から火矢が辺りかまわず放たれていた。

「嵐にまぎれてやってきたのだ」

 風がいつしか雨を交えて吹き募ってきていた。アグラは腕から槍を引き抜いた。ちょうどよい、狡猾な蛇どもの首を一つでも刎ねれば俺は極楽へ往生できるのだ。

 人は等しく限りある命をもって生きる。その行きつく果てに、だれであろうと極楽を願って悪いはずはない。そこではすべての罪が赦されるのだ。

 彼は一歩を踏み出した。が、さきほどの女が腰にしがみついていた。

「お願いです、わたしを向こう岸まで連れて行ってくださいまし」

 アグラを見上げる顔は、火矢の滝で今にも焦げそうなほどに火照っていた。

大きな河だ。向こう岸は見えない。が、濃い靄の動くその先に、かすかな光を彼は見たような気がした。

「なぜ、わしにそのようなことを頼む」

「生まれて来る子のために」

 女はみずからの腹にほそい手を当てた。アグラの武骨な顔にある不思議な表情が浮かんだ。そのとき彼の胸に萌したのは、未だ世に生まれ来る以前の未生のころの記憶である。

 そうして、あと一人を殺せば極楽往生ができると信じていたアグラは、身重の女を抱き寄せると、暗い水に飛び込んで行った。


 嵐の大河は激しく渦巻いていた。大波は形を変えて寄せ離れ、覆いかぶさってはアグラを暗黒の底へ引き込もうとした。頭上では稲光が閃き、軍艦の襲撃を受けた渡し場とその付近の町は、地獄さながらに赤い炎に包まれていた。


 岸に着くとアグラは片膝を立てて女を地面に横たえた。息をたしかめると口元はあたたかい。気を失っていたが息はあった。お腹の子も大事ないようすである。

「よかった」

 そう一言をのこすと、巨体がぐらりと揺れ、そのまま地面に倒れ込んだ。槍に塗られていた毒が回ったのである。まもなくアグラの心臓は動かなくなった。

 戦場で多くの兵士を殺し、悪霊にたぶらかされたといえ市中でも九百九十九人を殺した。それがたった一人の女の命を救ったくらいで、とうてい極楽へは往生できなかったろう。が、アグラのたましいが向かった先は、そこが極楽ではなかったにしろ平穏な境地である。

 幸も不幸もない、人を傷つけることもなかった、ただあたたかく穏やかな人間のいちばん最初の思い出へ、アグラはかえっていった。


 

おわり

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アグラ イジス @izis

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