ケリュネイアの鹿
甘露
第一章
プロローグ
麗らかな色彩を帯びた木漏れ日が、ケリュネイアの輪郭を優しく照らして浮かび上がらせている。
百年、千年、と生きた巨木たちが彼女を祝福するようにさざめき始める。川のせせらぎが重なる。鳥や虫の鳴き声。それらを覆うように穏やかな風が鳴り吹き、微睡むような気配と厳かな気配が混じり合ったような、不思議な雰囲気が辺りには漂っている。とりわけ、中心にいるケリュネイアの姿は異彩を放っている。端的にそれを表すと、生まれたままの少女が立っている。
そう、ケリュネイアは全裸だった。
木漏れ日に照らされて輝く、絹糸のような
丸みを帯びた愛らしい鼻先に、あつぼったい唇、穢れなき聖女のような白い肌、豊満な胸、薄い桃色の乳頭、柔軟に帯びる筋肉、引き締まった臀部、影の切れ間のような陰毛、繊細で艶やかな爪先、一種の芸術品のような造形美。幼さと成熟さを、或いは貞淑と淫奔を兼ね備えたケリュネイアはゆっくりと瞼を閉じる。
そしてゆっくりと開ける。生き続ける世界の一瞬を切り取るように瞬きを繰り返す。変わらぬ世界をその翠玉の双眸で見つめ続ける。やがて、高らかに唄い始めるのだ。
ああ ケリュネイア
黄金の角に青銅の蹄を持つあの仔は草を食べているね
ほんとうによく食べるの みんなとは違うから
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
みんなが歩くとパカパカ鳴るのだけど
あの仔が歩くと音がしないの 歩いた場所に蹄の跡もない
そして兎に角速いわ
矢よりも速い
風よりも速い
みんなよりも速い
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
ああ ケリュネイア ああ ケリュネイア
ふとケリュネイアは唄うのを止める。
彼女の周りには、いつの間にかたくさんの鹿がいる。森の奥に潜んでいる筈の鹿たちが彼女の歌を聴きにやってくる。木の陰から伺う鹿、地面に寝そべり子守唄にする鹿、陽気に啼く鹿、ただ立って耳を澄ませる鹿。数十匹に及ぶ鹿たちが全裸の少女を取り囲む光景は絵画の一幕のような壮観さと、超自然的な事象に対する
また彼女の存在が
全裸であるのには彼女の極めて個人的な嗜好のみを以て為されている。彼女は根源的な自由を縛るような気にさせる服が好きではないのだった。実際問題、より開放的である彼女だからこそ、雄大な自然に溶け込み、そして警戒心もなく鹿たちが心を開いてくれる一助となっているのだ。人工的な物は極力排す。彼女はそれを感覚で理解していた。
一匹の鹿がケリュネイアの前にやってくる。彼女はゆっくりとした所作でその鹿の毛並みを撫でる。続くように方々から鹿が寄ってくる。彼女はやはりそっと撫でてやる。そしてまた唄った。
ああ ケリュネイア
黄金の角に青銅の蹄を持つあの仔は草を食べているね
ほんとうによく食べるの みんなとは違うから
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
みんなが歩くとパカパカ鳴るのだけど
あの仔が歩くと音がしないの 歩いた場所に蹄の跡もない
そして兎に角速いわ
矢よりも速く
風よりも速く
みんなよりも速い
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
ああ ケリュネイア ああ ケリュネイア
今はもうこれだけしか思い出せない古く懐かしい唄。
ケリュネイアの唄声は森中に響き渡る。鹿だけじゃない。鳥、兎、狐、猪と様々な動物が姿を現してくる。彼らは食物連鎖や弱肉強食の法則も忘我し、彼女の唄に酔いしれる。『獣を従える森の歌姫』……と、詩人がいたらそらんじたのかもしれない。文士がいたら神話の一節として書かれていたのかもしれない。しかし、これはごくごくありふれた日常の光景である。ケリュネイアにとっても、獣たちにとっても、世界にとっても、取るに足らない平和な昼下がりの……。
ああ ケリュネイア
黄金の角に青銅の蹄を持つあの仔は草を食べているね
ほんとうによく食べるの みんなとは違うから
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
みんなが歩くとパカパカ鳴るのだけど
あの仔が歩くと音がしないの 歩いた場所に蹄の跡もない
そして兎に角速いわ
矢よりも速い
風よりも速い
みんなよりも速い
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
ああ ケリュネイア ああ ケリュネイア
ああ ケリュネイア
黄金の角に青銅の蹄を持つあの仔は草を食べているね
ほんとうによく食べるの みんなとは違うから
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
みんなが歩くとパカパカ鳴るのだけど
あの仔が歩くと音がしないの 歩いた場所に蹄の跡もない
そして兎に角速いわ
矢よりも速い
風よりも速い
みんなよりも速い
そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ
ああ ケリュネイア ああ ケリュネイア
ケリュネイアは歌いながら、ゆっくりとすぐ傍の巨木をよじ登り始める。四肢を広げ、何もかもを明け透けにするその後ろ姿は、絵面そのものの女性らしさとは裏腹に、雄々しい胆力が垣間見える。
彼女の突然の行動を咎める者など誰もいない。ここには動物たちと彼女しかいないのだ。一番近い枝まで辿り着くと、其処に腰をおろした。ひんやりとした幹の感触が
ケリュネイアよりも遥かに生きてきた巨木であるから、その枝も少女を乗せるくらいは訳がなく、軋むことも揺れる事もなく、泰然自若としてその重みを受け止めている。その寛大さは人智を隔絶した自然の姿そのものである。彼らは何ものも拒むことがない。ただ黙して受け止めるだけだ。
「今日もあの仔はいない」
ケリュネイアは最期にそう言って歌を止めた。
静寂が突然やってくる。そしてやはり自然だけは、ケリュネイアにさえ干渉される事なく木々は緩やかに揺れ、川は流れ、風は吹く。動物たちは暫くその場所で茫然としたように留まっていた。
今日はもう終わりなのだ、と思い立ったものから順にその場を離れていく。ケリュネイアは枝先に引っ掛けていた弓を手に取った。
自製の弓だ。森の中にある比較的細い木を切り倒して作り出したものである。その術は昔に父に倣った。唄を教えてくれたのは母だった。同じように引っかけてあった矢筒から一本矢を引き抜く。
もちろん、すべてお手製のものだ。矢の先端は火で炙って硬くしてある。ケリュネイアはそっと左手で弓を構え、右手で矢を番える。木の繊維で出来た弦を引く。視線の先は一匹の鹿がいる。しかし、その鹿は直ぐに踵を返して何処かに消えていった。次は兎を見る。その次は猪。また鹿、狐、鳥と順に照準を定める。ケリュネイアは構えながらもそれを放つことはなく、やがてこの場にいるのは、彼女と一匹の兎だけになった。
無垢な赤い瞳で虚空を見つめる兎に矢先を向ける。
力強く弦を張った。
「貴方の生命に感謝を」
シュ、と短い風切り音が鳴る。
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