Aパート 4

 身分の貴賤きせんを問わず魚が好きな魚食都市である王都ラグネアにおいて、新鮮な魚を流通させる役割を担うのが振り売りたちだ。

 木桶を取り付けた天秤棒に魚を満載し、日頃から鍛えた健脚をもって街中を駆け巡る!


 言うまでもなく魚というのは足が早く、これを目抜き通りなどの固定店舗で扱いきることは不可能だ。

 かような店舗群には干物や塩魚を任せ、鮮魚に関しては振り売りたちがまかなう……。

 それこそが、日に千枚以上の金貨が動く王都水産市場の姿なのである。


「えっほ……えっほ……」


 そんな振り売りの一人――マイズは、今日もいつも通り天秤棒を担ぎながら、石畳で舗装された街並みを駆けていた。

 木桶の中身は……重い。

 ひとえに振り売りと言っても、大別するならば二種類に分けられる。

 一つは、一般家庭を訪ねてはこれを売る家売り。

 そしてもう一つは、顔馴染みの飲食店などにこれを卸す店売りである。

 その内、マイズは後者に属する振り売りであった。


 勇者が伝承に伝わる大将軍を下してからというもの……。

 祝杯へしゃれこもうとする人々を迎え入れる飲食店も、それに魚を供給するマイズらもてんてこ舞いの忙しさであった。

 商売人である以上、これには嬉しい悲鳴を上げてしかるべきなのであるが、ともあれ、忙しいものは忙しい。


「おっと、ごめんよ! お魚様のお通りだい!」


 にわか景気でごった返す街中を、熟練の勘働きと足さばきで縫うようにしながら、駆け抜けていく。

 マイズほどの振り売りともなれば、目の前を行き交う人々の動きが手に取るように分かる。

 十数える先までの未来を幻視し、それにのっとって動く……。

 武芸者めいた身のこなしは見事のひと言であり、この技によって王都の食を支えていることにマイズら振り売りは誇りを抱いているのだ。


「――うわっと!?」


 だから、突如として現れた人影にぶつかってしまい、のみならず尻餅をついて大事な魚たちをぶちまけてしまうというのは、マイズにとって痛恨事であった。


「あちち……」


 混乱した頭をさする。

 突発的な事態に、目まぐるしく知恵を働かせているから痛いのではない。

 ただ純粋に、ぶつけてしまった衝撃で痛かった。

 まるで、鉄板に直接頭突きをしたかのような……。

 そのような鈍痛どんつうを、マイズの額は訴えていた。


「す、すまねえ……見えてなかったんでさあ……!」


 とにもかくにも、謝罪の言葉を告げる。

 このような痛みを感じるということは、ぶつかってしまった相手は騎士様であるに違いなかった。

 魔人族が再動するまでは違ったのだが……。

 王城へ鉱石魔人が攻め入って以降は、騎士団長の下知により騎士全員が常在戦場の気構えで鎧を装着し行動しているのだ。


 それにしても、見えていた視界の中に騎士様の姿なんてなかったような……?

 それに、さっきから何で周りの人らは静まり返っているんだ?


 そのような疑念を抱きながら、顔を上げる。

 上げて、その顔が引きつった。


「フシュルルルルル……」


 マイズがぶつかったのは、騎士ではない。

 のみならず、人間ですらなかった。

 こちらを見下ろす異形の怪物をひと言で表現するならば、これは、


 ――怪奇なる蜘蛛くも男。


 ……ということになるだろう。


 まるで、人間の顔とクモのそれをデタラメに張り合わせたような……。

 クモ男と呼ぶしかない怪人が備えた口器はあまりに凶暴であり、園芸用の大ばさみを髣髴ほうふつとさせた。

 昆虫じみているのは頭部ばかりでなく、その全身もそうである。


 紫色の甲殻が、四肢の先に至るまでを覆い……。

 関節部では、剥き出しの筋繊維がミリミリと音を立てている。

 手指の先からは、研ぎ澄まされた爪が伸びており……。

 背部に羽織った奇怪な文様の編み込まれたマントは、まるでそれ自身が意思を持つ生き物のようにうごめいていた。


「うわ……っ!? うわあああああ……っ!?」


 たまらず叫び、尻をついたまま後ずさる。

 そうしながら、マイズの脳裏に浮かび上がったのは、


 ――ブラックホッパー!?


 もはや王都の顔役とも言える、勇者の変身した姿であった。

 そう……目の前に立つ怪人と変身した勇者には、どこか共通した印象がある。

 かたやクモ……。

 かたやバッタ……。

 両者は共に昆虫の特質を備えており、特に全身を甲殻が覆っているという点では、色の違いを除けばうり二つと言って良いのだ。


「シュルシュルシュル……」


 だが、すぐにそんな考えを振り払う。

 凱旋や復興作業に従事するホッパーの姿は見物したことがあるが、かの勇者は姿こそ異形であれど、その目には理性の光を宿しており、どこか勇壮さを感じさせた。

 ひるがえって、このクモ男はどうか……?


 口器からヨダレを垂らしながらこちらを見やる巨大な複眼には、知性など一寸たりとて感じられない。


 ――化け物だ!?


 ――こいつはただただ、化け物なのだ!?


 ――ならば、俺はどうなっちまう!?


 自然界において、絶対的捕食者の射程圏内に捉らえられた被捕食者は、意外にも一切の抵抗を見せず成すがまま命を断たれることがある。

 今のマイズは、それだ。

 脳裏を幾重いくえもの死に様が錯綜さくそうしておりながら、しかし、体はなんの反応もできずにいるのである。


「ゲッヘゲッヘゲッヘゲッヘ……」


 そしてクモ男が――動いた!

 おお……全開にされた口器の、なんと恐ろしいことであろうか……!

 クモ男は屈みこむと、その牙で……!


 ――地面に落ちてる魚を、手すら使わずにくわえたのである。


「――は?」


 マイズの口から、間抜けな声が漏れた。


「――え?」


「――魚?」


 それは動くともできず、息を殺しながら見守っていた周囲の人々も同様である。


「シュルルルルルルルルルル……!」


 牙で魚をくわえたまま、器用? にもクモ男が口からクモ糸を吐き出す。

 それは近くにあった建物の屋根に貼りつき、クモ男は背部のマントを滑空翼のごとく巧みに操りながら、糸を伝ってたちまちそこへ登って行った。

 ……おそらく、現れた時はこれの逆で、突如マイズの前へ降り立ったに違いない。


「……魔人?」


「……魔人? でいいんだよな? 今の……」


「クモみたいな魔人? が……」


「魚をくわえて……」


「逃げて行った……?」


 周囲の人々が、口々に疑問符まじりの言葉を交わし合う。


「……なんだったんだあ?」


 謎の……。

 本当に謎の、としか言いようがない魚泥棒に大事な魚を奪われたマイズは、ただただ逃げ去って行った方角を見やることしかできなかった。

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