機神の國
水渡暦斗
第1章 「機神」
第1章 第1話
悪い夢だと思いたかった。
こんな非日常、私は要らなかった。
平凡な日常が恋しいなどと思うのは、漫画の読み過ぎだろうか。
これが片付いたら元の日常に戻れるなんて幻想は、もう抱けない。
失ったモノは、もう帰ってこない。
大好きだった友達。
それが、目の前に立つ女に殺されるのを見ていることしか、私には出来ない。
でも、仕方ないじゃない。
私は彼女達と違って、あまりにも無力なのだから。
◇ ◆ ◇
夏休み明けのその日の天気は曇りで、私の心はとても晴れやかだった。
「直射日光無いだけでだいぶ楽だなぁ」
連日猛暑が続いたせいもあり、暑さに参っていた私は曇天を非常に喜んだ。曇天万歳。二学期が始まると思うと憂鬱ではあったが、バイト先と家族以外の人とまともに話す場がまた戻ってくるのだと考えれば仕方ない、と諦めもつく。
「
登校途中、を視界に捉えた。高校2年生の夏休み、直接彼女と会って遊ぶことはほとんどなく、ボイスチャットで会話しているだけだったのだ。それ故に、彼女の顔を見るのは久しぶりだった。
「おはよう
「うーんやっぱり生声は違うよねぇ、通話越しじゃない藍ちゃんボイスはやっぱ良いよ。クール系の凛とした声、どっかの声優さんみたいで私は大好きだよ」
「神樂それ、私じゃなくて声優が好きなんじゃないの?」
藍が私の両頬を摘まんでムニムニとしながら、呆れたような表情を作った。私こと
藍と合流した場所から学校まで、あと30分は歩かなければならない。となりのクラスの
始業式で眠たくなる校長の話を聞き、明日以降の授業や提出物とかの話を聞いただけで今日の学校は終了だ、ホームルームも終わった。
バイト代は先日入ったばかり、学生が帰りに寄り道するだけの資金は十分である。クラスのみんなと会うのも久しぶりだし、どこかで昼飯でも食べてから帰ろうかなんて考えていると、藍が背中から抱きついてきた。
「神樂、駅前のカフェ、食欲の秋フェアやってるんだけど行かない?」
耳元で囁くような甘い声を、こんな教室のド真ん中で出さないで欲しい。クラスの友達たちにとっては日常の光景と化していても、私の心臓に悪いのは変わりない。
けど、そんなことを今さら言葉にするのも面倒である。何せ藍は、分かっていてそれをやっているんだから。
「私もちょうど、帰りにどこかでご飯食べようと思ってたんだぁー。バイト代が入ったばかりなのよね」
「じゃあ決まりね。2人でデートと洒落込みましょう」
踊るよう跳んで離れて、上目遣いに顔を覗き込んでくる。可愛い。
「それじゃあ行きましょう」
腕に抱きついた藍に引っ張られて、引き摺られるように教室から飛び出ていった。
学校から駅前のカフェまで歩いて20分、尽きることのない雑談をしながら歩いていればその時間は一瞬だった。
「いやぁー、ちょうど席空いたところで良かったねぇー」
「ホントにね」
注文を済ませ、冷えた水を流し込んで汗を拭く。いくら雲に日が隠れているとはいえ、まだ夏を抜けきったばかり。少し外を歩けば汗をかかないはずがない。
「それで、常連のお客さんと仲良くなったんだっけ」
「そうなのよ。身長高めの美人さんでね、いつも違うお弁当買ってくの。お客さんが少なかったり、私がバイトあがりの時間に来たりすることが多くてねぇー。夏休みに、何回かご飯食べに行ったし」
如何にも胡散臭そうに聞いていた藍だったが、真顔になって手を握ってきた。
「それ、本当に大丈夫な人? 変な勧誘とか、事件に関わったりしてる人じゃない?」
心配するような声でそう言われて、傍から見たら確かに怪しい人だなと思った。
「あぁ、いやぁー、たぶん大丈夫じゃない? 店長の知り合いらしいし、うちの親も知ってるし……! あ、写真見る、写真?
言い訳だと分かってはいるが、言葉を並べ立て、取り出したスマホの写真を藍に見せる。スマホを奪い取り
「早苗さんたちも知ってるのなら、まぁ良いけれど……。けど気を付けなよ、神樂って誰にでも分け隔てなく優しいから、勘違いした人とか絶対いるんだから。」
話が一区切りついたところで、ちょうどパスタが運ばれてきた。それから昼食を終えるまで藍からのお説教は耐えることが無かったけれど、それはそれで楽しかったと言えるかもしれない。
カフェから出て再び初秋の空気に曝される。この後はどうするの、と問いかけると、藍は申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん神樂、私これから別の用事あるのよ」
「それってどっち方面なの?」
「帰り道の反対、隣駅の方よ」
だから駅近くで昼食を済ませたのか、とジト目で睨めば、困った顔を浮かべてしまった。
「本当は気にしてないから、そんな顔しないでって。久しぶりに一緒にご飯食べて楽しかったから大丈夫」
「ありがとう、神樂」
それじゃあ、と別れて反対方向へと歩き出すと、背中に再び藍の声が届いた。
「知らない人についていっちゃダメだからね!」
まだその話を引き摺るのかと、呆れ顔で振り向いて頷けば、彼女は満足げな表情をして手を振った。
1人カラオケを終えて帰路。夏が終わったばかりとはいえ、夏至はとうに過ぎて秋だ。日が沈むのも早くなったと感じる。
「フリータイムだからって長く居すぎちゃったなぁー、もうこんな時間だわ」
独り言を呟いて、家の方へ急ぎ足で歩いていく。私の家に門限はないが、連絡もなしに夕飯に遅れればお母さんから叱られてしまう。
なるべく早く家に着くために、人気がない近道を駆ける。誰もいないだろうと細道を飛び出そうとして、人影に気が付いて急ブレーキをかけた。
「ご、ごめんなさい!」
何にも優先してまず謝らねばと思い、謝罪を口にする。
相手は長身の男性で、どこかで見たような翠玉の瞳をしていた。無表情にこちらに目を向け、わずかだが眉間に皺を寄せている。周囲には他に誰もいない、もし暴力を振るわれでもしたらどうしよう、などと思考を巡らせてると、男性は私から視線を外して、頭をポンッと叩いた。
「気を付けろ、女。怒鳴られでもして泣くのは
やけに冷たい手の男性は、それだけ言って去っていく。あの人の言う通り、怒鳴られなくて本当に良かった。
「すいませんでした!」
もう一度謝罪を口にして、急ぎすぎない程度の走りで家へと向かった。
◇ ◆ ◇
夏休み明け初日の今日はとても素晴らしい日だった。久しぶりに神樂の顔を見ることができたし、一緒にご飯を食べた。
夏休み中の神樂とはボイスチャットくらいでしか話さなかったから、直接会うのはやはり違う。あの日本人らしい黒茶色のミディアムショートの髪に焦げ茶色の瞳も、気の抜けた可愛い声も、全て直接目にしなければ意味がない。そんなこと、神樂の前では絶対口には出さないのだけれども。
ただ一つだけ気になったことは、神樂のバイト先に来るらしい変な客のことだった。彼女はどうにも人を疑うことを知らず、誰とでも仲良くなる性質の持ち主だ。それが良いか悪いかは場合によりけりだが、今回の件は私にとって「良くない」に分類される。
神樂には悪いが、私の用事とはその女のことだ。神樂の出勤日にしか来ていない可能性もあるが、その場合はまた来ればいい。幸いなことに、その女の顔は写真を見て覚えたのだから。
◇ ◆ ◇
家に着いたのは18時半で、あと10分もすれば夕食が完成する頃合いだった。お母さんからは「友達と遊ぶのは良いけど、時間は連絡しておきなさいって言ってるでしょう」と怒られてしまった、全く以てその通りなので何も言い返せない。
夕食とお風呂を済ませ、明日提出の課題のラストスパートを駆け抜けつつ時折タイムラインを眺めていると、とあるニュースが視界に入った。
「『隣駅の建築中のビルが倒壊・死者無し、重症者数名』って、うわぁー」
ふと、藍は用事で隣駅の方に行ったのではなかったかと思い出した。お風呂を上がったばかりだというのに、嫌な汗が流れてくる。内から出る焦燥感を抑えきれず、藍に電話をかけた。
「電話出ない……。藍、大丈夫かなぁー……」
とりあえずチャットだけ送っておこう。課題はまだ終わっていないが、最悪先生に怒られれば良い。それよりも親友の安否が心配だ。
髪を乾かし、外出用の服装に着替える。どうせ誰にも見られないのだ、ジャージで構わないでしょう。スマホと財布をポケットに入れ、親に一言告げて家を出た。
街灯が幾らか点いているだけの夜道は暗く、何か出てくるのではないかという漫画の読みすぎかよという感情に襲われた。向かう先は藍の家だ。早く藍の安否を確認したいと、細い裏道を、夕方のように人にぶつかりそうになる事だけはないようにと気を付けながら、早歩きで通っていく。
その最中、足元からポチャンッ、と水溜まりを踏んだ音がした。雨なんて昨日今日と降っていないはずだ。ここら辺はたまに通るが、水が溜まるような室外機のような機械も置いていない。なら、果たし何を踏んだんだろうかと疑問を抱いた。
歩く速度が、自然と遅くなる。何かに導かれるように、藍の家の方向ではなく狭い空き地の方へと足が向いた。しかし嫌な空気だな、という思いが膨らむ。先程から、何か変な臭いがする。絶対に知っている、しかし感じる頻度は高くない臭いだ。
確か今日は、明日は昼夜問わず曇りだったはずなのだ。家にいるときに雨が降った音も聞いていない。だというのに、空き地に足を踏み入れた瞬間、地面がぬかるんでいることに気が付いた。タイミング良く、と言っていいのか怪しいが、雲が晴れて月の姿が露になる。月光に照らされて、私の眼前に広がる光景がはっきりと、私の瞳に写し出される。
「……え?」
言葉を失った。最初に目に飛び込んできたのは、怪しく光る赤黒い色。あたりに転がる、サイコロのような肉の塊。そして、天を塞ぐように張り巡らされた、銀色に輝く蜘蛛の巣。
「ぇ……?」
声の出し方を忘れたみたいに、私は口から空気を漏らした。
理解が追い付かないわけではない。不思議なほどに、私は今目の前に広がる光景を理解していた。ならば、何故動けないのか。
私は、恐怖しているのだ。今すぐこの場から逃げなければならないという思いが頭の中を走り回っているのに、メドゥーサに睨みつけられたかのように脚が動かない。どうすればいい、どうやって動けばいいと考えるよりも先に、私はポケットの中にある家の鍵を取り出した。
「
太腿にジャージの上から、鍵を突き刺した。右脚から広がる激痛と、視界に広がるのと同じ色の液体の生暖かさに、一気に意識が覚醒する。
変な臭いは鉄の臭い、つまりは血の臭いだった。さっき踏んだ水溜まりも十中八九血だまりだろう。
気付いた瞬間、吐き気がこみ上げてくる。だけれど、こんなところで夕飯をぶちまけて、何がいるかわからないこの空間から脱出するのが遅れるのは真っ平ごめんだ。
太腿から流れ続けて止まることを知らない血も、カシャンッと音を立てて落とした家の鍵も知ったことじゃない。駆けだす。ぬかるんだ地面に足を取られて転びそうになるのを堪えて、全力疾走を開始した。
「何よ、何なのよアレ……!?」
通りに出るべく道を曲がったと同時、反対側から足音が聞こえてくる。思わず助けてくださいと口にしようと振り返り、しかし、その口を閉じてしまった。
「そこの君!」
全身黒の作業着の男たち。アレは違う、普通の人ではないし捕まったら何をされるかわからないと思い、私は前を向きなおして疾走する。待て、という怒鳴り声と共に足音は私を追ってくる。間違いなく、アレは私を捕えようとしている。逃げる必要があるのだろうか、いやでもアレは怖いじゃない。刹那の間に自問自答を数度繰り返している間に通りに出る。
どうしよう、どっちに逃げたらと思った瞬間、十字路を凄まじい速度で自動車が曲がってきた。驚き、思わず転びそうになりながら靴が脱げかけた。
「ごめんよ」
私の目の前に止まった車のドアが開き、思い切り手を引かれて放り込まれる。そのせいで、脱げかけていた靴が完全に脱げて道路へと飛ばされた。これが誘拐だったら思い切った犯行だ。
「ぅわぁッ⁉」
助手席へ顔を埋めるようにダイブし、ドアを閉める音が聞こえる前に自動車が発進した。
「すまないね。少々荒っぽかったようだが、どうやら何かから逃げていたようだったからね」
そう言いながらドアを閉めた自動車の運転手は、昼間に藍に話したお客さん、成平千尋だった。
◇ ◆ ◇
全身黒の作業着の男たちは、突如現れた自動車によって少女の姿を見失った。追いつく間もなく発信していったためにナンバーを確認している余裕はなかったが、少女が履いていた靴が落ちている。何かの役に立つかもしれない。一人の男がそれを拾おうとしゃがんだ瞬間、路地裏に一番近かった男が姿を消した。壁に何度も打ち付けられる音が響く。最後にわずかな悲鳴が聞こえ、あたりは再びの静寂を取り戻した。
驚愕は一瞬、残った男たちは腰のホルダーから銃を取りだし、少女が現れ、男が消えていった闇の中へと駆けていった。
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