第59話 ベラの答え

 ウィシュトリーの日、六時課(正午)の鐘がなる頃。ベラは約束の通り広場にいた。水飛沫の上がる噴水を眺めながら、彼の到着を待つ。


 ある人影が、彼女を見つけ、駆け寄ってくる。


「ごめんなさい。待たせてしまって」


「大丈夫よ。私も、今来たばかりなの」


(謝るのは、私の方)


 ダリルは、普段の仕事着とは違う、しわを丹念に伸ばされた服を着ていた。楽しみにしていたことが伝わってくる。緊張しているのか、ぎこちなく笑う彼の紅潮した頬を見ると、彼女の心はますます痛んだ。だが、彼女の決断は揺らがなかった。雲が、


 空気を押しつぶすように垂れ込める中、ベラが口を開く。


「ごめんなさい。あのね、折角誘ってくれたのに。その、ね。今日は行けなくなっちゃった……」


 ダリルの呆然とした顔が、ベラの心を締め付ける。雲は、どんどん分厚くなっている。空が、暗くなる。


「あのね、今日は無理だけど、その、今度、また今度会える日はないかしら? 誘ってくれて嬉しかったの。だけど、どうしても、諦められない人がいて、早く伝えなきゃいけないことがあって。本当にごめんなさい」


 ベラが勢いよく頭を下げる。ダリルは、ただ唇を震わせる。言うべき言葉を探すように。


「そう、そうでしたか……。では、仕方ありません」


「本当にごめんなさい」


 その場にいられなくなったベラは、もう一度頭を下げると、一目散に駆けだしていった。周囲にいた人がちらちらと立ち尽くす男を見やる。


ポツッ


 彼の頬が雨粒で濡れる。咄嗟に手の甲でそれを拭ったとき、彼はようやく我に返った。荷物を抱え直し、石畳の道を歩き始めた。遠くに、少女の姿が見える。


     ***


 ベラは、礼拝所の門前で、グリフの儀式が終わるのを待っていた。施しを求めて並んでいる人々が帰っていく流れに逆らうように、彼女は人混みをかき分けながら進んでいく。祭壇のある礼拝堂の奥へと進み、個室の並んでいる建物へ入る。


 アシュリーがいる部屋の前には、二人の女性が並んでいた。彼女らに続いて順番が来るのを待つ。


 甲高い笑い声が扉の向こうから聞こえてくる度に、いらいらしながら待っていると、ようやく彼女の番が来た。どうぞ、と声がかからないうちに中へ入る。


「約束は覚えているでしょうね、アシュリー」


「勿論」


 疲れた顔で椅子に座る彼が、力なく答える。


「だったら、今すぐついてきて頂戴」


 彼が立ち上がり、ベラの元へ来ると、すぐさまカソックの袖をつかみ、アシュリーを引っ張っていく。


「どうしたのベラちゃん」


「前に、会って欲しい人がいるって言ったでしょ」


 実の所、どこに行けば会えるのかよく分かっていなかった。彼を連れ出そうとする彼女を後押しするのは、変な義務感と衝動のみ。


 その時、アシュリーの足がぴたりと止まる。ライリーのいる部屋の前だった。扉の前には杖をついた老婆と、老婆の片腕を引っ張っている娘が立っている。


 娘が二人に気がつき、目をそらす。彼女はダリルの家にいた使用人であった。ベラに声を荒げてしまったことを、後ろめたく思っていたのだ。


 一方、アシュリーの視線は老婆に注がれていた。隣にいたベラにしか聞こえない位の声が漏れる。


「もしかして……ハンナ、さん?」


 呆気にとられているアシュリーをよそに。ベラは二人へ声を掛ける。


「あの、祓魔師の方を待っていらっしゃるの? だったらこちらでも話を聞いてくれるそうよ」


「ちょっとベラちゃん、勝手なことしないで。どうするつもり」


「だって、レディを待たせちゃ駄目でしょう? 知り合いなら尚更ね」


 アシュリーはやれやれと言わんばかりに首を振り、親子を部屋へ案内する。ベラは外からこっそり聞き耳を立てていた。


 娘が、自身の身の上と、老婆の起こす奇怪な行動について話す。ご主人一家には老いたせいだと思われているが、迷惑をこれ以上かける訳にはいかないから、藁にもすがる思いで来たと訴えかける。


 二人だけにして欲しいとアシュリーが語りかけると、使用人の女性が部屋から出てきた。何度も振り向いている。老婆が心配なのである。


 使用人がベラの隣で待っている。


「あの、この前お会いしたとき、お婆さんがアシュリーって言っていたのを覚えていますか?」


 ベラが、ぎこちなく話しかける。


「さっきの人がアシュリーなんです。誰かに、似ていると思いませんか?」


 二人の間に沈黙が訪れる。ベラは、空気に耐えきれず、つま先を床に何度も叩きつけた。


「……ええ。最初は何とも思わなかったのですが、部屋の中で良く見てみると、ご主人様や、若様とよく似ていらっしゃいました」


 ようやく語り始めた使用人の、張り詰めた表情が崩れる。


「思い出しました。幼い頃、母にお店へ連れていってもらったことがあるんです。その時、今の、物置部屋の窓から男の子が顔をのぞかせていたんです。なんとなく、そこに住んでいる子供なのだろうと思って、気にも留めていませんでしたが……。あの子だったのかもしれません」


 静かな時間が訪れる。それぞれが思いを馳せながら窓の向こうを眺める。パラパラと降っていた雨がいつの間にか止んでいた。

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