27.コードルモールの祭事(6)
――ウォォオオオオオオオ!!
大歓声が聞こえる。競馬場を根底から揺るがすような、地鳴りのような歓声が上がっている。空気だけでなく大地を震わせて、そこにいる者の全ての『熱』を滾らせている。いや、あるいは『熱』が、彼らを震わせているのか。
「はぁぁぁぁああ!? バカ! ドジ! 勝てたのにっ!! なんでそんなコース走っちゃうわけ! ヘタクソ! ジョッキー辞めちまえ!! …………バァァァァアアアアアカ!!」
その中に元気に野次を飛ばすイングリットの姿もあった。地団太を踏んでまるで子どものようである。嗚呼、彼女の持つ丸められた新聞が孝太郎の顔に当たった。彼はそれをハエにするのと同じように厄介そうに手で追いやる。
「はぁ、落ち着け。テンション高すぎだ。――よくもまぁ腹から声が出る。勝っても負けても暴れやがって」
「うるさい! 私の完璧な予想がここまで外れるなんて……! イカサマだコンチクショー!」
イングリットは一度深く沈み込んだかと思うと、すぐに両手を上げて伸びをするかのように怒り出した。
孝太郎が呆れて言う。
「さっき同じこと言ってた知らないおっさんに『プークスクス、負けたからって情けなー。あんな風になったらオシマイじゃん?』って煽りかましてたのはどこのどいつだ?」
イングリットがポカンとした顔を作る。
「はい? 誰ですかその方? 存じ上げませんね」
「おい……」
「てか私の真似とかすんな。――はぁ、まったく、なってない。これだから食客力の低いペーペーは……。こういう時は、次があるよ、次のレースが! とか言って慰めてよ!」
そう言ってイングリットは孝太郎の肩を新聞紙で叩いた。そうしてまた彼に追いやられると、悔しそうな表情をして新聞紙を広げだした。
「くぅぅぅ! まさかトータル負けになるなんてっ!! もう次がメインレースじゃん!」
「……まだやる気だったのか」
「当たり前でしょ!? メインまでやるって言ったよね!?」
がっ、と勢いよく振り向いたイングリットは涙目だった。それはたっぷりの狂気を含んでギラついているようにも見える。
孝太郎は痛そうに頭に手をやった。
「泣くくらいならやらなきゃいいのに」
「うるさい! 今日はたまたまだしっ!」
「はぁ。――あんな話をしといて、まだ悠長に遊ぶ気があるとはな」
「それとこれとは別だから」
イングリットは新聞を食い入るように見ている。
「むしろあの計画は競馬に似てるっしょ?」
「……どこが?」
「どれだけ事前に調べて予測しても、運が絡むところ。――そういう意味で良い予行演習的なとこあるから」
「……そうか」
違うと思う。しかし孝太郎はとりあえず頷いた。確かにイングリットから聞いた一発逆転策は多分に運要素のあるものだった。第一段階から最後まで運が続かなければ失敗してしまう、綱渡りのような作戦だった。
正直に言えば穴だらけの、無謀無策に近いものだ。それを二人だけで練るのはあまりに不毛であるとして、孝太郎はイングリットに「もうルクスに帰ろう」と説得を試みた。
――まさか嫌がられるとはな。
再三帰宅を促したら噛みつかれそうになった。比喩ではない。
イングリットは、何が何でもメインレースまで見ると言って聞かなかった。この日のためにひと月以上前、自分がまだお姫様だったときから準備をしてきたのだと胸を張られた。準備というのはもちろん競馬予想もそうなのだが、彼女はそれよりも自分の馬が勝つための準備を念入りに行ってきたのだと誇らしげに語った。
そう、きっとイングリットは――。
「あぁっ!!」
「っうるさ! なんだいきなり!?」
ひっくり返るかのような叫び声を上げたイングリットに、孝太郎が嫌そうに眉を寄せた。周りの人も何かあったかと振り返っている。
イングリットは孝太郎の手をひっつかんだ。
「パドック!! もう始まってるっ! サンサンブロークンが出てる!!」
そうしてグイグイと引っ張る。イングリットは孝太郎に振り返ることもなく人混みの中に分け入ろうとする。
「ちょっ」
抗議する間もなくドンドン行かれ、人と人の間に揉まれて、孝太郎は為すすべなく引きずられていく。イングリットはするすると行けるが、孝太郎は彼女のように細身ではない。加えてイングリットから預かったリュックが人に当たる。
「いたたっ、スイマセン、スイマセン。――イン、頼むゆっくり……」
「さーんさーんぶろーくーん、私の世界いちー」
「……はぁ」
歌声は彼女の心をそのまま表したかのように明るく、孝太郎はそのあまりに楽しげな様子にただため息をつくしかなかった。
◇
二人はレース場の反対側に設置されているパドックに訪れた。パドックとはレースに出場する直前の馬たちを観客にお披露目する場所である。
その円形のパドックを馬たちはサークルを描くかのようにクルクルと周回している。観客はそれを柵の向こうから観察している。なお各馬の馬主たちは柵の内側、レース場に繋がる入口付近にたむろして、馬主同士誰が勝つかを予想していたりする。
「かぁーっ! イケメンだわー」
観客側に立つイングリットがおっさんのように叫んだ。額に手をやって「まいりましたー」と言わんばかりにその顔を歪ませている。
孝太郎は彼女の瞳に映り込んでいる馬を探している。しかし馬の顔なんてどれも同じように見える。名前と番号を示すゼッケンを鐙の下にそれぞれ掛けられているが、番号はわかっても名前がわからない。
「……どれ?」
「あの青鹿毛の子っ!」
イングリットが指差した方には、黒に少し茶色の馬がいた。
「青くないけど」
「青鹿毛は青色の馬って意味じゃないですぅー。これだから素人は……」
イングリットはやれやれと首を振ると、小気味よく指を回して得意げに語りだした。
「目とか鼻とかよく見てみ? ちょっと褐色になってるっしょ? ああいうのを青鹿毛っていうの」
「たしかに。――じゃあなんで青っていうんだ?」
「知らない」
イングリットは興味なさそうに続ける。その瞳はサンサンブロークンに向いて離れそうにない。
「成り立ちとか知らんし、それに、日本語が変なんだよね。英語だと……シールブラウンだし、ルクスでも茶色馬っていうよ」
「……織り交ぜて喋られても全くわからんな」
「え? わかってるじゃん」
「ちがう。多言語で喋ってる、ということに気付かない。ということだ」
孝太郎は嘆息した。
「そんな芸当ができるなら初めからそうしておけばよかったのに」
「えぇー、疲れるからヤダ。ずっとはムリ」
イングリットは柵に手をついてぐったりと肩を落とした。
「めっちゃ頭使うもん。ただでさえ競馬予想で疲れてるのに」
「……俺と話してるとき、日本語を混ぜるのはいいのか?」
「ブブーっ! 残念! ちゃんと会話してあげてるときは全部日本語だし」
「なに!?」
孝太郎がギョッとしてイングリットを見た。イングリットはその端正な横顔をフードの間からのぞかせている。その美しい鼻に掛けられたメガネも、どこか知的に映る。
――まさかここまで流暢に日本語を扱えるとは。
「どうやって覚えた」
「……日本人に教えてもらったー。ま、王侯貴族の中になら割と扱える人いるし、そんな驚くことじゃないし。だから、ここなら結構会話聞かれてるんじゃないかな」
王侯貴族以外となると、牧場主でもなければ自分の馬を持つことはできないだろう。それかよほどの金持ちか、地域の有力者など限定される。とどのつまり、権威権力を保有していなければ馬主にはなれない。
そんな彼らがここに集まっている。
「……ルクス競馬場、元世界一の国の、国際レース場か」
「さすがっしょ?」
「まぁ、な」
ふと上を見れば空に鴉が鳴いている。日は沈み、コードルモールを赤く染め始めている。
「……」
胸に浮かんだ不穏な予感に、孝太郎は慌てて頭を振るのであった。
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