序章 世界を犯すものども
1.『運命の道』
運命というのが定めであるのなら、この世の選択肢はすべて無意味ということになるだろうか。
行き着く結末はもうこれと決まっていて、そこに至るまでの道筋が変わるだけ。人間の選択によって運命が捻じ曲げられないとしたら。
今そこにいる、これまでのあなたの迷いも決意も、すべて無意味なのだろうか。これからのあなたの迷いも決意も、すべて無意味なのだろうか。
少なくとも、今まさに終わりを迎えつつあるこの男には、過去の選択などどうでもよいことであると思えた。
現場は惨憺たる有様だった。トンネル内の玉突き事故。トラックとトラックの衝突。前方急停止した2トンの鉄塊に100キロ以上で追突した愚かな居眠り運転手は糊のように血しぶきを広げて事切れている。
中山孝太郎にとって不幸であったのは、そのトラックに大量の鉄パイプが積まれていたことであった。
彼はその事故を二台のトラックの更に後ろから見ていた。中古で購入した軽のハンドルを握り、適切な距離を取って慎重に高速道路を走行していた。たとえ前方のトラックが急停止したとしても確実に止まれるように。
しかしトラックがこちらへ跳ね返ってくるかのような動きをするとは予測できなかった。トラックは実際に跳ね返ったわけではないが、その壁にぶつかったような急停止は彼の目にそう映った。
簡略に縛られていた鉄パイプは鋭く銃弾のようになって彼の車の窓ガラスを破り、ついでのように彼の右肺をえぐり取ると、そのまま路面に突き刺さって楔となった。
ごぽり、と泡立つような音ともに彼の口から血が溢れ出る。助からないことは一瞬で知れた。
だが、死の恐怖を感じる暇はなかった。
「おにいちゃぁぁぁん! どこ!? おにいちゃぁぁん!!」
彼はただ自分を探し求める妹の声に未来を案じた。――生命保険は妹に渡る、お金の心配はない、こういう時のために施設も見学してある、大丈夫、ちよ、泣くな、未来はまだ続いてる、生きていける。
打ち込まれた楔の衝撃に、後部座席で寝ていた孝太郎の妹ちよは車外に放り出されていた。トンネルの壁に背中からぶつかって、全身に耐えようのない激痛が走っていることだろう。しかし彼がサイドミラーから見る限り、這って叫べるくらいには元気であるようだった。
「ねぇ! 返事してよ! どこぉ!? おにいちゃぁぁん」
ちよはやみくもに、きょろきょろと忙しなく首を動かして兄を探している。
孝太郎が返事をしない限り、彼女にはそれを知る術がなかった。
ちよは目が見えない。その目は全く光を通してくれない。
孝太郎は思う。妹のために、やれるだけをやってきたはずだ。父と母が早くに死んでからずっと、俺は頑張れたはずだ。ちよ、大丈夫、いつか悲しみを乗り越えられる。今までもそうであったように。大丈夫。大丈夫。
――――そうか?
ホントにそうなのか。生命保険の請求は正しくされるのか。施設へ確かに入れるのか。父と母が死んで、他に頼れる身よりもいない。俺が死んだら妹は一人だ。独りぼっちだ。ちよは目が見えないんだぞ。俺がいてやらないでどうする。
ダメだ。ダメだダメだダメだ。まだ俺が、側にいてやらないとダメだ。まだ終われない。
「ち……ょ……」
絞り出した声は言葉になっていない。ただ風が吹き抜けるような乾いた音が鳴るだけだった。
孝太郎の眼はやがてちよの姿を歪ませ、徐々にその泣き声も遠のいていく。暗闇が四方に壁となって迫ってくるような感覚に、彼は初めて怯えた。
だが、その女の声は恐怖する彼の脳裏に裂くように響いた。
『おー、こりゃヒドイ』
孝太郎の頭の中に凛と広がったその声は、しかしどこか気だるげで、ヒドイと言う割には言葉に生気が宿っていないように思えた。言わなければならないので言った。そんな感じである。
孝太郎は叫んだ。声の主がどこにいるのか分からないが、声の届く距離にいると分かれば最後の力を振り絞って叫ぶのに十分だと思えた。
「助けてくれ! ……!?」
ハッキリとそう口にできたことに彼は肝を抜かれた。鉄パイプに貫かれた胸の痛みも不思議と消え失せている。
しかし実は、孝太郎の口は動いていなかった。彼は自分自身の脳に響いた心の声をそれと勘違いしている。
『おー、もちろん。ただな、タダでは助けられねー』
孝太郎は即答する。
「何でもする! 何でもするから頼む、妹を助けてやってくれ!」
『おー、――えっ?』
それは女の思っていた返答とは大きく違っていたようだった。
孝太郎は女の一言を勘違いする。
「何でもする! だから妹を助けてくれ! そこに倒れてる女の子だ!」
『あーいや、聞き直したわけじゃねーよ。ちょっとな、戸惑ってる。――あの子は無事だぜ? 助けてくれってんならお前だろ。このままだと死ぬぞ』
「そうだもう死んじまう! だから頼む。あの子の面倒を見てくれないか、俺の代わりに」
『はぁ?』
女の戸惑いはますます深まったようだが、孝太郎は気づかずに続ける。
「そうか、もう死ぬ男に何ができるんだって話だな? たしかに何でもはできないが、金ならある! 妹に降りる保険金とは別に俺の貯金がある! それを好きにしてくれていいから5年、いや7年、妹が二十歳になるまで守ってほしい」
『……あー』
女は自分と孝太郎の根本的な認識の誤差に気づいた。
『そうだよな。その傷こっちじゃ助からねーもんな。奇跡でもなけりゃ』
「……どういうことだ?」
女の声は説明を避けるかのように、間髪入れずに話を続けた。
『いいぜ、面倒見てやるよ。金は要らない。ただ……何でもしてくれるっつったよな』
「ああ」
『いいね。契約成立だ。約束は必ず守ってやる。――だから今は、安心して休むといい』
その言葉を聞くと同時に、孝太郎の意識はすうっと空気が抜けるように闇へ
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