ブラックな神殿で働き過ぎた聖女、闇堕ちして最強の黒魔導師になる

九頭七尾(くずしちお)

短編です

「もう限界だわ……」


 自室のベッドに倒れ込む。

 思わず零れた言葉の通り、私の心はすでに限界を迎えていた。


『アンリ、君には聖女としての才能があるようだね。その力を活かして、大勢の人たちを救ってくれないか?』


 孤児院で育った私は、才能を見出されて神殿に入った。

 思わず泣いてしまったのは、何の取り柄もないと思っていた自分に、誰かを助けられる力があることが嬉しかったからだ。


 見習いの聖女として白魔法の訓練を初めると、私はあっという間にその才能を開花させていった。

 同時に女神様への信仰も深まり、神殿内でもたった数人しかいない聖女に任命されたときには、私は生涯を女神様と神殿のために捧げようと純粋無垢な気持ちで誓ったものだ。


 だけど。

 そんな私を待っていたのは、地獄のような日々だった。


 信徒たちの怪我や病気を癒すため、朝から晩までひたすら回復魔法を使い続ける毎日。


 いや、それが命を救うために必要な措置であるとしたら、私もこの過酷さに耐えることができただろう。

 けれど私の元に連れてこられる患者たちは、不摂生によって身体を悪くした、いわば自業自得な貴族や金持ちばかりなのだ。


 偏食や過食による身体の不調や肥満症状、それに不特定多数との性交渉が原因と思われる様々な性病。

 そして、とっくに寿命を迎えているような老人たちの無駄な延命治療が、その大部分を占めていた。


 しかも彼らは総じて傲慢で、私たち聖女がその病を治すことを当然だと思っている。

 少しでも治療の際に痛みを感じたら、すぐに怒鳴り散らしてくるのだ。


「ばかもの! 痛いではないか……っ! この儂を誰だと思っておる! もっと丁寧に治癒を施さんか!」

「も、申し訳ありません……っ」


 だからこちらはただ治癒するだけでなく、鎮痛のための魔法も同時に使わなければならない。

 これには非常に高度な技術が必要で、神経をすり減らす。


 中には平気でこちらのお尻を触ってきたり、卑猥な言葉を言ってきたりする者もいる。

 そしてそれを少しでも咎めようものなら、逆ギレしてくる始末。


 こんな連中のために、なぜ私はここまで尽くさなければならないのか。


 一方で、どうも神殿は、本当に治療が必要な、けれど貧しい患者の受け入れを断っているようなのだ。

 お金にならない貧乏な人間は、神殿にとって救うべき対象ではないというのだろう。


「腐ってるわ……どいつもこいつも……」


 何が女神様だ。

 こんなことをお膝元の神殿に許しているなんて……。


「絶対に辞めてやるわ……こんなところ……」


 孤児院と神殿しか知らない私には、行くあてなどない。

 だけど、こんな場所に居続けるよりは、ずっとマシだろう。


 私は聖女を辞める決意を固めた。


「神殿長、お話があります」

「そんなに改まって、一体どうしたんだい、聖女アンリ」


 その日、意を決した私は、この神殿のトップであるポルン神殿長の執務室を訪れていた。

 神殿長としては異例なほど若く、しかも整った顔立ちのこの男は、孤児院にいた私をスカウトした人物でもある。


 女性信者たちからは大いに人気があったが、私はここ最近、この男の浮かべる笑みに何か薄ら寒いものを感じていた。


「単刀直入に言います。聖女を辞めたいと思います」

「ふふ、そうか。そろそろそんな時期だろうとは思っていたよ」

「……?」


 私の言葉に神殿長は驚くわけでもなく、まるで分かっていたかのような顔をする。

 その反応にイラっとしていると、神殿長が何かの合図のように手を叩いた。


「失礼します」


 部屋に一人の女性が入ってくる。

 神殿を守護する聖騎士だ。


「抵抗しても無駄です。大人しくしていてください」


 女ながら隊長職に就く彼女はそう鋭い口調で言い、こちらに近づいてくる。


「な、何を……っ!? 痛っ! 放して……っ!」


 私は彼女に羽交い絞めにされてしまった。

 同じ女とは思えない怪力で、振り解くことができない。


 そのまま強引に神殿の奥へと運ばれていく。

 普段は一部の人間しか入ることを許されていないその区画には、独房めいた部屋がずらりと並んでいた。


 私はそのうちの一つに押し込められてしまう。


「神殿にこんな場所があったなんて……」


 鉄格子の向こうで、神殿長が嗤う。


「覚えていないようだけれど、実は三年ほど前にも君はここに来ているんだよ」

「っ……それは一体、どういう意味、ですか……?」


 背筋がぞわりとした。

 そうだ……私は何か重要なことを……忘れていたような……。


「僕はね、定期的に君たちの心を綺麗にしてあげているんだよ。この神殿の在り方に疑問を抱いていたら信仰に没頭できないだろう?」

「ま、まさか……」


 私は、この男に洗脳されていた……?


 以前も同じ疑問を抱いたというのに、それをすっかり忘れさせられ、ずっと搾取され続けてきたのだ。


「ふざけないで……っ! 私たちを何だと思っているのっ!?」

「なぜそんなに怒っているんだい? 人々の傷を癒す。こんなに立派で誇り高い仕事は他にないだろうに」

「何が立派な仕事よ……っ! 本当に治療が必要な人々を蔑ろにし、裕福な者ばかりを優遇しているくせに……っ!」

「本当に治療が必要な人々? ははは、貧乏人など門前払いで構わないよ。どれだけ治したところで何の儲けにもならないからね」

「なっ……それでも信徒を導く者なの!?」


 ……この男に信仰などない。

 ただの醜い金の奴隷が、神殿長の皮を被っているだけだ。


「残念ながらどんなに喚こうと、僕の力にかかれば君はまた従順な聖女の一人に逆戻りだ。今日はこれから用事があるからね。は明日にしよう。それまでそこで自分の無力さでも呪っているがいいさ」

















「ふざけるなふざけるなふざけるな」


 独房の中、私は一人、呪詛にも似た言葉を吐き出し続けていた。

 あの腹立たしい神殿長の顔を思い浮かべると、腸が煮えくり返るような怒りが湧いてくる。


 だけど奴の力で、今のこの感情もすべて除去されてしまうらしい。

 そうして再びこの神殿の操り人形となった私は、再び醜い金持ちどもの無駄な治療のために過酷な労働の日々を過ごすことになるのだ。


「冗談じゃない……っ! 腐った豚どもなんかのために、私はもう自分の力を使いたくない……っ!」


 けれどそんな思いも虚しく、ただ時間だけが過ぎていく。


 独房の唯一の出口である鉄格子は硬く閉じられ、脱走することは不可能だ。

 攻撃的な魔法であれば鉄格子や壁を破壊することもできるのかもしれないが、私が唯一使うことができる白魔法ではどうしようもない。


 やがて怒りが絶望に代わり、打ちひしがれて項垂れるしかない私の目の前に、


「どうもこんばんは!」


 突如として人影が出現した。


 外はすでに夜。

 小さな通気窓から降り注ぐ月明かりに照らされ、その人影の正体が露になる。


 彼女はあまりにも美しかった。


 漆黒の艶やかな長い髪、小柄ながらスラリと伸びた手足、一流の芸術家が描いたかのような完璧に整った目鼻立ち。

 女神が降臨したと表現しても過言ではないくらい、現実離れした存在で。


「あなたを救いに来ちゃいました~っ☆」


 ただ、畏怖すら覚えるそうした見た目とは裏腹に、その第一声はおちゃらけたものだった。


「……は?」

「あー、その目、疑ってます? 疑っちゃってますよねー? でもでも、ほんとにほんとに救世主なんです! えっへん!」

「クソうざい……」


 思わず本音が漏れた。


「うわ、聖女とは思えない言葉遣い!」

「もう聖女とかどうでもいいし」

「うんうん。そうだよね、分かる分かる、その辛さ」


 こんな奴に何が分かるのか。


「分かるってば。だって見てたから、君のこと」

「っ……」


 こいつ今、私の心を読まなかった……?


「そんなことより、君、ここから出たいんだよね? いいよ。あたしが出してあげる! ただし、あたしと契約を結んでくれたらね!」

「分かった。お願いするわ」

「早っ!? え、そんなにすんなりOKしちゃって大丈夫? まだ契約の内容も話してないのに!」


 自称救世主は目を丸くして驚いているけど、そもそも私に他の選択肢はない。


「もちろんあんたのことなんて信じられないけど、たぶん今よりはマシでしょ。いえ、たとえ今より酷くなっても構わない。こんなクソなところに居続けることを思ったら、何だっていいわよ、何だって」

「凄い投げやりだねー」


 こいつが天使なのか悪魔なのか、私には分からない。

 もしかしたらヤバイ悪魔で、契約を結んだら最後、地獄のような未来が待っているのかもしれない。


 それでも、聖女として絞り尽くされ、そのまま一生を終えるよりはいいだろう。

 少なくとも自分の意思で選択したのであれば、どうなったとしても後悔はしない。


「あはは! いいね、その割り切った考え! やっぱりあたしの思った通りだ! それじゃ、早速やっちゃうね! もう後戻りはできないよ? それとも先に条件聞いておく?」

「要らない」


 私がぶっきら棒に言うと、自称救世主はニヤリと笑った。

 次の瞬間、私の足元に一瞬で魔法陣が出現していた。


 魔法陣を描いているのは漆黒の光。

 黒い光なんて初めて見た。


 不思議な現象をどこか他人事のようにぼんやり眺めていると、自称救世主がゆっくり近づいてきた。

 近くで見ると、やっぱり途轍もない美貌の持ち主だ。


 何をするのかと思いきや、彼女は私の額に軽く口づけしてから、


「――夜と闇を司る女神ニュクスの名にて、汝、アンリに命ずる」


 ……女神?


「――闇夜の力をその身に宿し、我が御使いとなれ」


 すでに先ほどまでの軽薄な雰囲気は一切なかった。

 厳かにその言葉が告げられると、突如として私の身体の中へと何か凄まじい力が入り込んでくる。


「~~っ!」

「さぁて、あなたの身体は受け入れることができるかな? あたしの力……女神の力を」

「あああああああああっ!?」


 同時に全身を激痛が襲った。

 暴れ狂う魔力に、今にも身体が引き千切れてしまいそうだ。


「あああああああああああああああああっ!?」


 気づけば私は絶叫している。

 その叫び声に混じって、腹立たしいほど落ち着いた声が遠くから聞こえてきた。


「あ、そう言えば言ってなかったけど。もし失敗しちゃったら、あなた死んじゃうから。そのときは御免ね?」


 そういうことは先に言えぇぇぇ……っ!

 いや、何も聞かなくていいって言ったのは私だけど!


 つーか、ただ外に出たいだけだったのに、これどうなってんのよ!?

 御使いって何っ!?


 それからどれだけの時間、地面をのた打ち回っただろう。

 ようやく痛みが落ち着いてきた頃には、私は汗で全身がびっしょりになっていた。


 どうやら私は耐え切ったらしい。


「へー、すごいすごい。思ったよりずっと早く制御しちゃった。最低でも丸一日はかかると思ってたのに」


 今のが丸一日も……冗談じゃない……。


 床に転がったまま睨みつける私を、どこか楽しそうに見下ろしながら、


「ともかく、これにて契約完了! パンパカパーン! おめでとうございます! あなたはあたし、女神ニュクスの、世界で唯一の眷属になりました!」

















 かちゃり、と。

 鍵が開く音がした。


「これが私の新しい力……」


 凝縮された闇がうねうねと蠢く。

 それは私の意思に従い、自由自在に動かすことができた。


 黒魔法の一種、闇を生み出し、操る魔法だ。

 私はこの魔法を使うことで、独房の鍵を開けることに成功していた。


 これまで白魔法しか使えなかった私が、急に黒魔法に目覚めたのは外でもない。

 謎の美女と契約を結んだからだ。


『いきなりここまで闇を操れるなんて! やっぱあなた才能あるよ! やっぱりあたしの目に狂いはなかったわね~』


 どこからともなく声だけが聞こえてくる。

 私と契約を結んだ黒髪の美女のものだが、その姿は独房の中にはない。


 夜が明けてくると、いつの間にか姿を消していたのだ。

 どうやら夜の間しか顕現することができないらしい。


「まだ色々と聞きたいことはあるけど……ひとまずここを抜け出すのが先決ね」


 私は重い鉄格子の扉を開いて、独房の外に出る。


 もちろん神殿内の警備は厳重だ。

 独房から出られたところで、途中で捕まってしまったら何の意味もない。


 独房が並んでいるこの区画を出るためには、警備のために配置された聖騎士たちがいる部屋を取らなければならないようだ。

 私はあえて堂々と彼らの前に姿を見せた。


「なっ……お前は確か、独房に入れられた……」

「一体どうやって出てきたんだ!?」


 慌てて立ち上がった彼らだが、その直後に地面にスっ転んだ。


「足が……っ!?」

「何だ、この黒いものは!?」


 彼らの足を掴んで転ばせたのは、私が操る闇だった。

 さらに私は彼らの口をそれで塞ぐ。


「「むぐぐぐ……っ?」」

「しばらく寝てなさい」


 彼らの額を指でさしながら命じると、二人ともすぐに夢の世界へと落ちていってしまった。


 強制誘眠魔法だ。

 白魔法にも同じように眠りを誘発する魔法はあるが、黒魔法のそれはより強力で、ほとんど気絶に近い。


 こうしてすんなり警備を片づけた私は、悠々と独房区画を後にする。


 その後、廊下で何度か人とすれ違ったが、普通に素通りすることができた。

 これは予想していた通りだけど、そもそも神殿内でも私が独房に放り込まれたことを知る者が少ないからだろう。


 いつものように聖女として振舞っていれば、ほとんど怪しまれずに済むはずだった。


「いつまで儂を待たせる気だっ!」


 そんな怒鳴り声が聞こえてきたのは、普段よく患者たちの治療を施している場所の近くを通りかかったときだった。


「……あの貴族」


 声を荒らげていた人物に見覚えがあった。

 それは主に私が治療を担当していた貴族の一人。


 傲慢を絵に描いたような男で、少しでも気に入らないことがあるとすぐに怒り出すクズみたいな人間だ。

 私も幾度となく怒鳴られたことがあって、顔を見るだけで吐き気がしてしまう。


 私が離脱したことで他の聖女が代理で治療を行うはずが、突然のことで手が回っていないのだろう。


 ……ちょうどいいわ。


 私は顔に接客用の笑みを張り付けると、その男のところへ近づいていった。


「お待たせしました」

「やっと来たか! 遅すぎるぞ!」

「失礼しました。ではこちらへどうぞ」


 なぜ私がここにいるのかと、応対していた見習い聖女が戸惑うのを余所に、私は男を空いている個室へと案内する。


「まったく、何をしていたのだ! 見てみろ、この足を! 昨日からずっと痛くて敵わんのだ! とっとと治してくれ!」


 ドアを閉めて二人きりになったところで、まだ偉そうに喚いている男へ、私は言った。


「少し黙ってくれませんか? 耳障りな上に、汚い唾が飛びますので」

「……は?」


 男は何を言われたのか分からなかったらしい。

 私は繰り返す。


「うるさいんで黙ってくれと言ってるんですけど?」

「っ!? き、貴様っ、何だその口の利きか…………っ!?」


 怒鳴りかけた男の口を、私は闇を操り強引に塞いでやった。


「そうそう。よくできましたね。これから治療を行いますので、ずっとそうして静かにしていてくださいね?」

「~~~~っ!?」


 闇が男の身体を引っ張った。

 無理やり診察台の上へ乗せると、そのまま拘束する。


「どうやら足が悪いようですが……その原因は見ての通り、あなたが豚のようにブクブク太っているからですよ。まったくもって笑える話ですよね? 自分の身体の管理もできない、動物並みの知能のあなたが国の政治を司る貴族の一人だなんて……」


 言いたい放題言われて、男の顔が怒りで真っ赤になる。


「んんんっ! んんんんんんっ、んんんんんんんんっ!?(貴様ぁっ! こんなことをして許されるとでも思っているのかっ!?)」


 何を叫んでいるか聞こえないが、何となく言っていることは分かった。


「もしかしてまだ自分の立場が上だとでも? 私がその気になれば、いつでも殺せるんですよ? ほら」


 男の首に闇を巻きつけ、軽く締めてやった。


「~~~~~~っ!?」


 見る見るうちに男の顔色が赤から青へと変色していく。

 首絞めから解放してやると、男はすっかり大人しくなっていた。


 完全に怯え切った目でこちらを見てくるので、私は優しい笑みを浮かべながら言う。


「幾ら足を治療したところで、このままだとまた壊してしまいます。そこで今回は根本的な治療を行いますね。簡単に言えば、この無駄な脂肪を取り除く治療です」

「っ!?」

「残念ながら、治療中は死ぬほどの激痛が伴いますが……いえ、もちろんいつものように痛みを抑えるようなことはしませんよ。だってあれ、大変ですからね」

「~~っ! んっ、んんんん……っ!(ひぃっ! た、助けてくれぇ……っ!)」


 涙を流して目で訴えてくる男に、私は変わらぬ笑顔で告げる。


「では治療を始めますね……せいぜい苦しむがいいわ、豚野郎」

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!?」






















「ひ、ひぎぃ……」


 私の施す治療がよっぽど痛かったようで、途中から男は白目を剥き、気を失ってしまった。

 口の端からは涎が、股の間からは汚らしい体液が垂れている。


 一方ぶよぶよだったその身体は随分とスマートになっていた。

 脂肪を綺麗さっぱり除去してあげたからだ。


 鎮痛なしで強引に除去するという荒療治のお陰で、かなり短い時間で済んだ。


「ちまちましたいつもの治療と違って楽しかったわね」


 これが聖女として最後の仕事。

 引退前にわざわざ治療してやったのだから、むしろ感謝してもらいたい。


 まぁちょっとやり過ぎて、骸骨みたいになっちゃったけど。


「それはそうと、確かにちゃんと白魔法も使えるみたいね」

『でしょでしょ』


 黒魔法を習得した代わりに白魔法が使えなくなったのでは……と心配していたが、奇遇だったようだ。

 もうここで誰かを治療する必要はないが、それでも白魔法は白魔法で色々と役に立つ。


「き、きさま……お、おぼえて、いろよ……わしに、こんな目を……ど、どうなっても、知らん、ぞ……」


 どうやら豚貴族あらため骸骨貴族が目を覚ましたらしい。

 まだビクビクと身体が痙攣しているけど、震える声で脅し文句を言いながら睨んでくる。


「ぶぐっ!?」


 私はその顔を踏みつけてやった。


「生憎と私は今日でここを辞めるんで。その怒りはどうぞ神殿に」


 今回のことでこの神殿が打撃を受けるというなら、むしろ願ったり叶ったりだった。


 しばらくは起き上がれないだろうクソ貴族をその場に放置し、私は診察室を出る。

 そのまま何食わぬ顔で廊下を歩いて建物の外へ。


 最大の懸念だった出入り口も、神官や聖騎士に止められることなく、あっさり通過できた。

 それは偶然にもちょうどある騒ぎと重なっていて、上手くその隙を突くことができたお陰でもある。


「お、お願いです! このままでは、うちの子が死んでしまいます! どうかっ! どうか治療を!」


 若い女性が必死に叫んでいたのである。


 身なりからして、あまり裕福とは思えない。

 平民の中でも、恐らく貧しい部類に入るだろう。


 そんな彼女の腕の中には、十歳くらいの男の子が抱きかかえられていた。


「うぅ……いたい……いたいよ……」

「だ、大丈夫だから! すぐに治してもらえるからね……っ!」


 息も絶え絶えに呻く子供に、彼女はそう懸命に訴える。

 だがそんな親子を前に、対応していた神官は淡々と無常な言葉を口にしたのだった。


「お引き取り下さい。残念ですが、治療代を支払うことができない方の治療をすることはできません」

「なぜですか!? 女神様にはっ……女神様には慈悲がないのですかっ!?」

「……それは女神様への冒涜ですよ? これ以上、聖務の邪魔をするというのなら、しかるべき処置を取らせていただきますが?」

「っ……」


 絶句する女性を余所に、その神官は近くにいた聖騎士に命じる。


「……こんな場所で喚かれては堪ったものではない。早くどこかへ連れていけ」

「はっ」


 聖騎士は頷くと、神官に縋りついていた女性を無理やり引き剥がした。

 絶望する女性は、そのまま引き摺られるようにして神殿の敷地外へと追い出されてしまったのだった。


「ああ……どうして……」

「なるほど。どうやら蛇の毒にやられたようね」


 聖騎士が戻っていった後、子供を抱えて座り込む彼女に私は声をかけた。

 女性はハッとしたようにこちらを見上げてくる。


「っ……あなたは……?」

「聖女よ。ただし、元、だけど」


 彼女の問いに軽く答えると、私は彼女の胸に抱えられた子供に軽く手を添える。


「アンチポイズン」


 解毒の魔法を使うと、毒に侵されて変色していた身体が、見る見るうちに元の色を取り戻していった。


「なっ……」

「これで大丈夫なはずよ」

「……あ、あれ? 痛く……ない……? ママ! 痛くなくなったよ!」


 先ほどまで朦朧としていた男の子が、すっかり元気になって母親に抱きついた。


「ああっ……よかった……っ! ありがとうございます! 本当にありがとうございます……っ!」

「おねーちゃん、ありがとう!」


 涙を流し、何度も頭を下げてお礼を言ってくる親子。

 ……これまで幾度となく治癒を施してきたけれど、久しく見ていなかった反応だった。


 それもこれも、クソ貴族どもが治療されるのが当たり前みたいな態度だったからだけど。


「あ、あの……す、少ないですが、これを……」


 しかもそう言って、申し訳なさそうにお金を差し出してくる。

 神殿が求める治療費からすれば微々たる額だけど、きっと貧しい彼女にとっては貴重なお金に違いない。


「要らないわ。その代わり」


 私はお金を断ると、男の子に向かって手を伸ばした。


 何だろう、という表情をしていたその下顎を、片手で思い切り掴んだ。


「「……え?」」


 そのまま頬に指が食い込むほど力を加える。


「いいいいいだひ!?」

「ちょっ……な、何を……っ?」


 私は男の子に顔を近づけ、至近距離から問う。


「質問に答えなさい。あんた、モグラヘビの巣穴を突いたわね?」

「っ……」

「モグラヘビは猛毒を持っているけど、普段は巣穴の奥に隠れていて、自分から人を襲うことなんて滅多にない大人しい蛇よ。だけどそれをいいことに、度胸試しとか言って馬鹿な子供がよく棒切れで穴を攻撃したりするのよね」

「っ……」

「さっき治療するとき、あんたの腕に歯型があったわ。足じゃなくて、腕の方にね。大方、巣穴を突いてるときに噛まれたんでしょ?」

「……ご、ごへんなひゃいっ……」

「二度とそんな真似するんじゃないわ。次は死ぬわよ?」

「は、はひ……」


 男の子が涙目で頷くと、私はようやく顔を離してやった。


「それと……もし今後、そんな馬鹿をやっている友達を見かけたら絶対に止めること。いいわね?」


 ブンブンと必死に頭を縦に振る男の子を後目に、私はその場を立ち去るのだった。








 







 神殿を逃げ出した私は、まず服を買うことにした。

 聖女が身に纏っているこのローブは、見る人が見ればすぐにそれと分かってしまう。


 すぐに着替えて一般人のフリをしなければ。

 私の脱走に気づいた神殿長が、いつ聖騎士たちに捜索命令を出すとも分からない。


 幸いお金はある。

 あのクズ貴族から、治療の際にこっそり金目の物を奪っておいたからだ。


 お陰で当面の間の資金には困りそうにない。

 あの親子からはした金を貰う必要はなかった。





「ありがとうございましたー」


 服屋を出た私は、すっかり普通の町娘の姿に変身していた。

 買ったばかりの衣服に店内で着替えさせてもらったのだ。


「……無駄に時間がかかってしまったわ」


 ずっとローブしか着ていなかったため、服の良し悪しなんて分からない。

 そのためすべて店員に任せた方が早いと思って頼んだのだけど……あれやこれやと何着も着せられて、結局余計に長引いてしまった。


 私の機嫌が悪くなったのが分かったのか、最後には店員の笑顔が引き攣ってたけど。


『ローブ姿もよかったけど、それも可愛いじゃん! とっても似合ってる! 店員さんグッジョブだね!』

「それはどうも」

『もっと喜んでよ~』

「そんなことより、あんたにもう少し詳しい話を聞かなくちゃいけないわね」


 というわけで、私は宿を取った。

 クズ貴族から拝借したお金がかなりの額だったので、それこそ貴族が泊まるようないい宿を取ることができた。


「何このベッド、ふかふかじゃない。毎日こんなところで寝ていたら確かにダメ人間になりそうね」


 神殿のベッドは粗末なものだった。

 それに聖女になると個室が与えられてはいたけれど、それでもこの部屋と比べたらほとんど倉庫と変わらないレベルだろう。


「色々と話を聞こうと思ってたけど……疲れたからひとまず寝るわ」


 考えてみたら昨晩はほとんど寝ていない。

 床の上をのた打ち回ってはいたけど。


 その後も慣れない黒魔法を使ったり、二度も治療を施したりと、体力は限界だった。

 そのままベッドに寝転がっていると、私は一瞬で寝落ちしてしまった。


 目が覚めたときは夜になっていた。


「あ、やっと起きた!」

「また現れた」


 ベッドの端に昨晩の黒髪美女が腰かけていた。


 相変わらずこの世離れした美貌だ。

 白い肌には瑕疵一つない。


「あたしは夜の女神だからねー」

「……」


 やっぱり聞き間違いじゃなかった。

 こいつはあのとき、自分のことを「夜と闇を司る女神ニュクス」だなんて自称していた。


 私がいたあの神殿が信仰しているのは、女神サリア。

 ニュクスなんて女神、聞いたこともなかった。


「どうせ名前も知られていない弱小女神なんでしょ」

「ぐさっ! そ、そんなにはっきり言わなくても! いやほんとのことだけど! こ、これでも元々は有名だったのよ! だけど、女神同士の抗争に負けちゃって……今はすっかり落ちぶれちゃったってわけ」


 元々孤児院で育った私は、あまり世の中のことを深く知らず、そのため神殿に入ってから色々と習うことになった。

 ただ、信仰対象だった女神サリアのことは詳しく教えてもらっても、他の神々のことは軽く触れた程度だ。


「ふーん。まぁ、何でもいいけど」


 彼女が本当に女神なのか、正直、確かめる術はない。


 だけど契約をしてしまった以上、もはや一蓮托生だ。

 ひとまず信じてみるしかないだろう。


 練習したこともない黒魔法がいきなり使えるようになったことからも明らかなように、私の中にはすでに以前とは別の力が存在している。

 今さら契約の破棄なんて不可能だろうし。


「いいねぇ、その達観した感じ!」

「それで、私は何をすればいいのよ?」

「何をって?」

「何かあるんでしょ? 私と契約をした目的が」


 単に黒魔法を使えるようになるというだけでは、あまりに虫がいい話だ。

 いや、そう言えば私、契約に失敗したら死んでるところだったんだっけ……。


「うーん。そうねぇ……特にない、かな」

「今は?」

「あはは、まぁ気にしないでよ! 別に地道な伝道活動をしてよとか、他の女神から信者を奪ってとか、そんなこと言わないから! これからのあなたは自由! なんでも好きなことして構わないよ!」


 ……自由、か。


 今までずっと神殿で仕事に追われてきた私にはなかったものだ。

 だから何をしてもいいと言われても、何をすればいいのか、すぐには思いつかない。


「それよりお腹が空いたわ。食事まだやってるかしら」

「ずるっ! これからのことより食べ物!?」

「だって、考えて出てくるようなものじゃないでしょ」


 ずっこけているニュクスを放っておいて、私は宿内にあるレストランへ向かう。


 ちょうど私が店に入ったとき、奥の方から怒鳴り声が聞こえてきた。


「おい! どうしてくれるんだ! 外国からわざわざ取り寄せた高価品なんだぞ!」

「も、申し訳ありません……っ!」


 真っ赤な顔でウェイトレスに憤っているのは商人風の客だ。

 いや、顔が赤いのはお酒が入っているせいかもしれない。


 どうやらウェイトレスが、誤って料理の汁を男の服にかけてしまったらしい。

 今にも泣き出しそうな顔で必死に謝るそのウェイトレスに、男は一転して嗜虐的な笑みを浮かべ始めた。


「……なぁ、嬢ちゃん。もし俺があんたに弁償を求めたら、間違いなく一生かかっても支払い切れないだろう金額になるぞ」

「そ、そんな……」

「だが俺も悪魔じゃない。嬢ちゃんの誠意次第では許してやってもいい」

「ほ、本当ですかっ?」

「ああ。だからよ……ちょっとこれから部屋に来てくれるよな?」

「っ……そ、それって……」

「くひひっ……嬢ちゃんは運がいい……若くて……いい身体してるからな……一晩だけで許して――」


 ばしゃあああん!


 ニヤニヤしながらウェイトレスの身体を舐め回すように見ていた男の頭に、大量の水がぶちまけられた。


 ま、私がやったんだけど。
















「な、な、何をする貴様っ!?」


 ポットに入っていた大量の水を頭から浴び、びしょ濡れになった男が激怒した。


「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ」

「そんな手の滑り方があるか!? 貴様は店員か!?」

「ただの通りすがりの客よ」

「こんな真似しやがって、ただで済むと――むぐむぐっ!?」


 うるさいので口を闇で塞ぐ。

 こいつの声で他の従業員や客が来ると厄介だし。


「え? ただで済むと何? 聞こえなかったんだけど?」

「むぐぐぐっ……」


 そのとき男が身体を捩らせたせいか、濡れた髪の毛がべちゃりと床に落ちた。

 代わりに現れたのは、つるつるの頭皮だ。


「ぶっ、めっちゃ禿げてるし」

「~~~~~~っ!」


 カツラを被って隠していただけあって、ハゲにコンプレックスでもあるのだろう。

 屈辱と憤怒で顔をさらに紅潮させ、男が飛びかかってきた。


 あらかじめ足に巻きつけておいた闇のせいで、思い切り転倒したけれど。


「酔っ払いはとっとと寝てなさい」

「……っ…………………………ぐがぁ……」


 私が強制誘眠魔法を使うと、目を血走らせて興奮していたのが嘘のように、あっさりと眠りに落ちてしまった。


「ちょっと強めにかけてやったから、明日の昼くらいまでは起きないでしょ。軽い記憶障害が出るレベルだし、目を覚ましたときには今夜のことなんて完全に忘れているはずよ」


 爆睡する男の禿げ頭を踏みながら、私は先ほどのウェイトレスに言う。

 たとえ服に染みがあっても、自分が知らないうちにやってしまったと勘違いするだろう。


「あ、あなたは、一体……」

「言ったでしょ。ただの通りすがりの客だって。うるさい客が近くにいると鬱陶しいからやっただけ。それより注文いいかしら?」

「は、はいっ……ありがとうございます!」


 しばらくして、爆睡する客は他の従業員によって運ばれていった。

 酔っ払って自分で水を被り、そのまま寝てしまったと思われたようだ。


 うるさい客がいなくなったお陰で、静かに食事をすることができたのだった。



    ◇ ◇ ◇



「ふふふ、あの独房から脱出してしまったのには驚いたけれど……」


 宿の前に、不敵な笑みを浮かべる端正な顔立ちの男がいた。


「どこに逃げたところで無駄だよ、アンリ。神殿の情報網にかかれば、君の居場所なんて簡単に特定できてしまうからね」


 神殿長のポルンだった。

 アンリが神殿を逃げ出したことに気づいた彼は、すぐに配下たちに彼女を捜索させ、そうしてこの宿に泊まっていることを突き止めたのである。


 神殿の聖騎士たちが宿の周囲を包囲し、すでに逃げ道は完全に封じている。


「宿の従業員によれば、先ほど食事を終えて部屋に戻ったところだそうです。命令を戴ければ、今すぐ捕えてまいりますが……」


 聖騎士たちを率いる女隊長の言葉に、ポルンは首を振った。


「いや、僕一人で十分さ。君たちは一応、出入り口を見張っておいてくれ」

「……畏まりました。ですが、十分にご注意ください。独房を警備していた聖騎士たちが、彼女が何か不思議な力を使っていたと申していましたので……」

「そうだねぇ……」


 一体どうやってあの独房を脱出したのか、ポルンにも見当がついていない。

 警備の騎士についても、白魔法を使って眠らせることは可能だが、どれだけ上手く不意を突いたところで、眠る前に反撃を受けてしまうだろう。


 加えて脱走の途中、彼女は患者をするという荒業まで行っている。

 それも白魔法だけでは色々と説明がつかなかった。


「まったく、それにしても随分と手荒な真似をしてくれたものだよ。お陰でわざわざ僕が直接、患者にを施さなければいけなかったじゃないか」


 やれやれと溜息を吐きながら、宿のエントランスへと足を踏み入れる。

 もちろんすでに宿のオーナーとは話を付けてあった。


「だけど改めて思ったよ。君の白魔法の実力は本物だ。ぜひこれからも我が神殿のためにその力を尽くし続けてもらわないとね」



    ◇ ◇ ◇



 カランコロン。


「……?」


 入り口の方で呼び鈴が鳴った。


 食事を終えた後、部屋に備え付けられていたバスルームで汗を流した私は、ベッドに寝転がってこれからのことを考えていたところだった。

 すでに夜も更けているけれど、昼の間にたっぷり寝たため、まったく眠くない。


「誰か来たみたい」

「……アンリ。気を付けて」


 ニュクスがいつになく真剣な顔で忠告してくる。


 ガチャリ、と鍵が開く音が響いた。


 もちろんこの部屋の鍵は今、私の手元にある。

 合鍵を持っているとしたら、この宿の従業員だろうけど……いきなり勝手に入ってくるだろうか。


 警戒していると、そいつが悠然と姿を現した。


「やあ、アンリ。どうだったかな、束の間の自由は」


 さも当然のように部屋に入ってきたのは、私が最も嫌悪している男だった。


「っ……ポルン神殿長っ……」

「ふふふ、どうしてここにいることが分かったんだという顔をしているね。残念だけれど、君の居場所を突き止めるくらい、僕にはとても容易いことなんだ」


 いつまでもこの宿に居続けるのは危険だとは思っていた。

 だけど、まさかこんなに早く見つかってしまうとは想定外だ。


「さあ、僕と一緒に神殿に帰ろう。今ならすべて許してあげるよ」

「……はっ」

「?」

「あはははははっ!」


 私は思わず大声で笑ってしまっていた。


「……何がおかしいんだい?」

「あははっ……おかしいっていうか、嬉しくて」

「嬉しい?」

「だって、あんたの方からわざわざ出向いてくれるなんて……」


 私は口端を吊り上げ、飛んで火にいる夏の虫に感謝の言葉を贈った。


「お陰であんたに私が受けた屈辱、今ここでたっぷりお返しできるわ……っ! それでこそ心置きなく自由を謳歌できるってものよね……っ!」
















「君が僕にお返しする? ふふふ、それはなかなか面白い冗談だね」

「冗談? これが冗談に見えるかしら!?」


 私の身体から漆黒の闇が噴き出してくる。


「っ……それは……黒魔法か! なぜ君が……」

「あんたに教える義理なんてないわ!」


 私が操る闇が何本もの触手のようにうねりながら伸長し、ポルン目がけて飛んでいく。


 パァンッ!


「っ!?」


 だけどポルンの身体の手前で、どういうわけか闇が弾かれてしまう。

 何度やっても一緒で、まるで奴の身体の周りに壁があるかのようだった。


「まさか、結界……?」

「ふふふ、ご名答だ。立場上この身に危険が及ぶことも多くてね。だから常に結界を張って生きているんだ。自分で言うのもなんだけれど、どんな攻撃だろうと防ぐことができる、とても優秀な結界だよ。残念ながら君のそれは僕の前では無力だ」

「くっ……」


 ポルンは勝ち誇ったような顔をしながら、その腕を私に向けて突き出してきた。


「今度は僕の方からいこうか」


 次の瞬間、奴の手から放たれたのは光の波動だ。

 それが私の身体を吹き飛ばし、部屋の壁に叩きつけられてしまった。


「がっ……この……」

「僕の白魔法は特殊でねぇ。こんなふうに攻撃に使うこともできるんだよ。他にも……こんなふうに敵を拘束したりとか」


 ポルンが軽く指で円を描くと、空中に光環が出現した。

 それを四度繰り返したかと思うと、それらが一斉にこちらへ飛来してくる。


 光環は私の両腕両足に着弾し、そのままそこに定着。

 焼けるような痛みに襲われ、私は思わず身を捩った。


 けれど手足をまったく動かせない。

 まるでその場に固定されてしまったかのように、ビクともしないのだ。


「こんなこともできるよ」

「……っ!」


 四つの光環がそれぞれ違う方向へと動き出し、私の手足を引っ張り上げた。

 私は壁に貼りつけられたような状態で宙に浮かんでしまい、さらにそのままポルンの方へと引き寄せられていった。


 顔を歪める私を楽しそうに見ながら、ポルンが手を伸ばしてくる。


「さあ、アンリ。心を無にして僕を受け入れるんだ。そうすれば痛くないからね。すぐに気持ちが楽になるよ。早く純粋無垢な君に戻ってくれ」


 私の額に手を添えながら、ポルンが精神操作の魔法を発動させた。


「あああああっ!?」


 頭の中に異物が捻じ込まれるような感覚に、私は思わず絶叫する。


「大丈夫だよ、アンリ。君の幸せは僕とともにある。これからはもう何も考えずに、ただただ聖女としての任務を全うするんだ」

「あ、あああ……あ……あ……」

「そう、その調子だ。君に怒りの心なんて似合わない。どんなことがあっても、女神様と神殿のために生きていくんだ」

「あ、あ……あ…………は、はい……ポルン、神殿、長……」

「ふふふ……そうだ、アンリ。君は本当にいい子だねぇ。ほら、言ってごらん。自分がこれからどういう生き方をしていくのかを」

「はい……ポルン神殿長の御言葉に従い、日々、信徒たちを癒すことに邁進いたします――」







「――なーんて言うとでも思った?」







「……え?」

「誰があんたの言うことなんて聞くかっ、死ねクソ野郎っ!!」


 私は握り締めた拳を、奴の下顎目がけて思い切り振り上げた。


 ボバキォッ!!


「ぶぐっ!?」


 骨が砕けるような痛々しい音とともに、ポルンの身体が宙に浮く。

 一瞬見事なエビ反りになった後、奴は頭から地面に落下していった。


「思った通り、至近距離に入り込まれたら結界は発動しないみたいね」

「あ、あが……あががっ……びゃっ、びゃっ、びゃかなっ……な、なじぇっ……?」


 顎が砕けたせいか、上手く喋れないようだ。

 自らの回復魔法でそれを治しながら、ポルンは必死に起き上がって私から距離を取ろうとする。


 けれど脳が揺れているのか、ガクガクと膝が震え、上手く歩くことができていない。

 よろけて近くのテーブルに身体をぶつけている。


 先ほどまでの余裕が嘘のような情けない姿だ。

 こいつを慕う女性信者たちにぜひとも見せてやりたいところだった。


「な、なぜ、僕の魔法が効かなかった……っ!?」


 ようやく喋れるようになったらしい。

 私はその疑問に答えてやることにした。


「昔のこととはいえ、あんたの魔法に操られてたのが悔しくて、機会があれば正面からぶち破ってやりたいと思ってたのよ」


 だから私は秘かに対策をしていたのだ。

 自分の精神世界に深く潜り込んで、そこに残された洗脳の痕跡を掻き集め、そこから奴の魔法を打ち砕く術を見つけ出したのである。


「そこへまんまと単身でやってきてくれたんだから、嬉しくて思わず笑ってしまったのよ。もっとも、こんなに早く見つかるとは思ってなかったけど」

「そ、そんな真似……できるわけがない……っ! しかもこの短時間に……っ!」

「じゃあ、もう一度試してみる?」

「っ……僕を、舐めるなぁっ!」


 私に優位に立たれたことがよほど気に喰わなかったのか、いつもの平静さを失ったように叫ぶと、再びあの光環を飛ばしてくる。

 けれど私はそれを凝縮させた闇で弾き返してやった。


「なっ……」

「そんなちゃちなもので私を捕えられると思う? お返しよ」


 闇がポルンの身体を覆い尽くそうとしたが、再びその眼前でせき止められてしまう。


「ははっ、無駄だ! 結界がある限り、僕にそれは効かない……っ!」

「邪魔ね、その結界」


 私は闇を槍のように鋭く尖った形へと凝縮すると、さらにそれを高速で回転させた。


 ギュルギュルギュルギュルギュルギュルギュルギュルッ!!


「な、な、な……」

「貫け」


 ガリガリガリガリッ――ズバァンッ!


「なぁっ!? ぼ、僕の結界がっ……破られたぁぁぁぁぁっ!?」


 結界を貫いたその勢いで、さらにポルンの右足へと突き刺す。


「ぎゃあああああああああっ!?」



















 槍と化した闇が結界を、そしてポルンの足を貫いた。


「ぎゃあああああああああっ!?」


 奴が絶叫するのもお構いなしに、そのまま闇を足に巻き付け、強引にこちらへと引き摺り寄せてやる。

 足元に転がってきたところで、私はにっこりと微笑みかけた。


「いらっしゃい、神、殿、長、様」

「ひぃっ!? ぶえ……っ!?」


 腹の上へ思い切り飛び乗ってやると、奴の口から変な声が出る。

 さらに先ほどの私のように両手両足を闇で拘束してあげながら、握りしめた拳を大きく振り上げると、


「せーの」

「や、やめっ――」


 ぼごっ!


 ポルンの顔面に私の拳が叩きつけられる。

 鼻が潰れ、赤い血が飛び散った。


「もう一発」

「ま、待っ――」


 ぼごっ!


 二発目もポルンの顔面を綺麗に捉えた。


「さらにもう一発」

「もうやめてくれっ! 僕が悪か――」


 ぼごっ!


「ひ、ひぎっ……あ、謝るっ……謝るからっ……そして約束するっ……もう二度と、君に手を出そうなんてし――」


 ぼごっ!


「あぐぁ……だ、だからっ……頼むっ……も、もう――」


 ぼごっ!


 必死な懇願など無視し、私はポルンの顔面を殴り続けた。

 瞼が腫れ上がり、鼻が折れ曲がり、顎が砕け、頬が凹み、歯が抜け、端正な顔が見る見るうちに醜く歪んでいく。


『あはは……なかなか容赦ないねぇ』


 容赦?

 なにそれ美味しいの?


 やがて私が手を止めたときには、もはや同一人物とは思えないくらい顔面が崩壊していた。


「……ぁ……ぃ……ぁ……」

「ま、どうせ回復魔法で治っちゃうだろうけど」


 一生この顔のままでいてもらいたいところだが、仕方がない。

 ようやく溜飲を下げた私は、マウントを解除する。


「……どうやらお仲間が来たみたいね」


 廊下の方から複数の人の気配。

 なかなかこいつが戻ってこないせいか、配下の聖騎士たちが様子を見に来たようだ。


「さて、どうしたものかしら」

『うわ、包囲されちゃったみたい』


 窓から外を覗いてみると、暗闇の中に幾つもの武装した人影が見えた。

 ニュクスが言う通り、宿の周囲は完全に包囲されているようだ。


 さすがにあれを突破するのは容易ではないだろう。


「ひゃ、ひゃははは……っ! ひゃんへんはっはへぇ、はんひ! ほのひひひみがははるうんへいはひゃはらひゃい!(残念だったねぇ、アンリ! どのみち君の辿る運命は変わらない!)」


 何本も歯が抜け落ち、絶望的な活舌のポルンが嘲笑してくる。


「ひゃれらにひゅははっへ、まひゃひんへんにほほふ(彼らに捕まって、また神殿に戻る)――ぶぎゃっ!?」


 そのムカつく顔面を蹴っていると、部屋に聖騎士が入ってきた。


「申し訳ありません、神殿長! あまりに戻りが遅いため――なっ……神殿長!?」


 私を独房へと押し込んだ、あの女隊長だ。

 ボロボロの顔で倒れる神殿長の姿に息を呑む彼女目がけて、私は闇で持ち上げたポルンの身体を思い切り放り投げる。


「くっ!? ま、待ちなさい!」


 躱すわけにもいかず、ポルンの下敷きになってしまったその隙を突いて、私は部屋から脱出した。


「「「っ!?」」」

「邪魔よ!」


 廊下に控えていた三人の聖騎士たちの足を闇に沈め、その隙に一気に突破する。

 背後から「待て!」「止まれ!」だの怒号が飛んできたが、そんなこと言われて止まるわけがない。常識で考えろ。


 しかし一体どうやって逃げるべきか。

 宿の出入り口からのこのこ出ていけば、奴らの思う壺だ。


 そのときだった。


「あ、あのっ!」

「……あんたは」


 女の声に振り返ると、そこにいたのは昨晩のウェイトレスだ。


「じゅ、従業員でも滅多に使わない勝手口があります……そこなら……」

「……案内してもらっていいかしら?」

「は、はい!」


 彼女に連れられ、宿の裏側へと走る。


「あ、あそこです」


 そこにあったのは小さなドアだ。

 埃を被っており、確かにほとんど使われていないらしい。


「ちゃ、ちゃんと開くか分かりませんが……」

「大丈夫。開かなければ無理やり抉じ開ければいいから」


 近くの小窓から外を覗いてみると、扉は細い裏通りに繋がっているらしい。

 見たところ聖騎士の姿はなく、罠ではなさそうだった。


「あの……く、詳しい事情は分かりません……でも、聖騎士さんたちに追われるような、悪い人じゃないと思って……それに、助けてもらいましたし……」

「……ありがとう。恩に着るわ」


 ドアノブを回して押すと、ドアがゆっくりと開いていった。

 外に飛び出す。


 真っ暗だ。

 けれど今の私は夜目が利く。


「っ! いたぞ! ターゲットだ!」

「絶対に逃がすな! 捕まえろ!」


 路地から出たところで、そこを見張っている聖騎士たちと遭遇してしまう。

 ただ、これくらいの数なら強引に突破できる。


 幸い私が操る闇が、夜の闇と完全に溶け込んでくれているため、彼らからすれば見えない何かが攻撃してきたように思えるようだ。


「がっ!? 何だ!?」

「な、仲間がいるのかっ!?」


 混乱している彼らの間を、闇に紛れながら通り抜けていった。


「……はぁ、はぁ、はぁ……ここまでくればひとまず大丈夫でしょ」


 それからニ十分ほどは走り続けただろうか。

 人気の少ない住宅街でようやく足を止めた私は、周囲を見回しながら呼吸を落ちつかせる。


「疲れたし、いったんどこかで休みたいわね。ただ、宿は避けないとダメそうね……。どうにか夜のうちに寝床を確保できればいいんだけれど……」



















 空き家を発見した私は、ひとまずそこで休息を取ることにした。


「空き家っていうか、別荘みたいな感じかも。生活感はないけど、掃除はされているみたいだし」


 ソファで横になりながら、ニュクスに言う。


「誰か来たら教えてね」

「あたしもずっと見張ってられるわけじゃないんだけどねー?」

「そうなの? あんたって暇じゃないの?」

「これでも色々と忙しいのよ~」


 どうやら常にこの世界に居られるわけではないらしい。

 女神だから天界でやらなければならない仕事があるようだった。


「仲間が欲しいわね。使い魔、っていうのかしら?」


 黒魔法は戦闘にも使える便利な魔法だということは分かったけれど、今回のように徒党を組んで襲われた場合、一人では対処し切れないかもしれない。

 このニュクスとかいう女神は現状、何の戦力にもならないようだし。


 神殿から再び追手が来る可能性は高いし、自由とやらを得るためにも、頼もしい仲間がいてくれたらありがたかった。

 幸い黒魔法を使えば、生き物を使い魔にすることが可能だという。


「と言っても、使い魔にできるような生き物がいないんだけど。犬猫じゃ意味ないだろうし」


 魔物なら戦うことができるだろうが、街の外に出なければ見つからない。


「召喚魔法で呼び出すのよ」

「召喚魔法?」


 ニュクスが言うには、召喚魔法は黒魔法の花形の一つらしい。


「異界から呼び出した魔物は強い力を持っていることが多いんだ」

「なるほど。私の目的に合致する可能性も高いってわけね」

「その代わり、隷属させるのが大変っていうデメリットもあるけどねー」


 というわけで、私は早速、召喚魔法を試してみることにした。


 やり方は簡単。

 床に魔法陣を描いて――後で消さないと――何らかの生贄を捧げながら、魔力を込めて魔法を発動させる。


「生贄……」

「一番いいのは自分の血かなー。他には生き物とか、大切にしてるモノとか。犠牲が大きければ大きいほど、より力のある存在が召喚されやすくなるよ!」


 人によっては腕とか目とか、身体の一部を捧げることもあるという。

 血と違って元には戻らない種類のものは、当然ながら大きな犠牲として判定されるらしい。


 私は少し考えて、


「じゃあ、右腕かな」

「……は? ちょっ、いきなり腕!?」

「だって、できるだけ強力な方がいいし」

「だからって、さすがに腕は……っ! え、冗談よね……?」


 何やら喚いている女神は放っておいて、私は右腕を掲げながら魔法陣に魔力を込めた。


「〝出でよ、異界に蠢くもの。我が右腕と引き換えに、我が元へその威容を現せ〟」


 次の瞬間、私の右腕が消失する。


 ……痛い。

 けど、白魔法で鎮痛させれば耐えられない痛みじゃない。


 一方、魔法陣からは凄まじい閃光が弾ける。

 やがてその光が収まったとき、そこには先ほどまではなかったはずの人影が出現していた。


 女だ。

 それも女神ニュクスに負けず劣らずの美貌の持ち主。


 ただ、ニュクスと大きく違うのが、その身体つきだ。

 豊満な胸部に、くびれた腰、そして後ろに突き出されるように上がった大きなお尻。


 加えて下着よりもなお布面積が少ない衣服で、身体の大事な部分をピンポイントで隠しているだけ。

 え、何この変態……?


 妖艶な雰囲気を醸し出すその痴女は、私を見ながら不敵な笑みを浮かべた。


「くくく、サキュバスの女王たるわらわを呼び出すとは……愚かぢゃのう、小娘よ」

「サキュバスの女王?」

「左様。わらわはリリム。淫魔の女王ぢゃ」


 ニュクスが驚きの声を上げた。


「なっ! サキュバスの女王!? いきなりそんな大物を呼び出すなんて!」

「ヤバい奴なの? 見た目の時点でヤバいけど」

「サキュバスは悪魔の一種よ! 人間を性的に誘惑し、虜にしてしまうの!」


 なるほど。

 だからこんな頭のおかしい格好をしているのか。


「今のアンリじゃ、このクラスの相手は制御できない! すぐに元の世界に戻して!」

「元の世界に戻すって……どうやってやるの?」

「くくっ、もう遅いわ!」


 リリムと名乗った女の瞳が怪しく光った。


「わらわの魅了からは何人たりとも逃れられはせぬ。くくく、久方ぶりの食事ぢゃ。たっぷり精気を吸い取ってやろう」


 ぺろりと長い舌で唇を舐めながら、こっちに近づいてくる。

 歩くだけでその豊か過ぎる胸が上下に大きく揺れた。


 ……イラッ。


 気が付けばその馬鹿でかい胸を、ハンマー状にした闇で思い切り叩いていた。


 ぼいんっ!


「~~~~っ!? な、何をするのぢゃ!?」

「あ? それこっちの台詞なんだけど? なにその胸? そんなに強調して、完全に私を挑発してるわよね?」

「っ!? そ、そんなことは……って、待つのぢゃ!? わらわの魅了が効いておらぬというのかっ!? そんなはずなない!」


 私はもう一発、闇ハンマーを憎き巨乳へと叩き込んでやる。


 ぼいんっ!


「その音も腹立つんだけど?」

「理不尽すぎぬか!? くっ、こんなはずは……っ! わらわの魅了が効かぬなど……」

「つーか、女の私が何であんたに魅了されなくちゃなんないのよ」


 男ならこいつの淫乱な身体に興奮するのかもしれないけど、女の私にとってはただただ腹立たしいだけだ。


「ふ、普通の淫魔ならともかく、女王たるわらわは老若男女問わずに魅了できるはずなのぢゃっ! たとえ相手が貧乳女ぢゃろうと決して例外では――」

「誰が貧乳女じゃゴルァァァァァッ!」

「ひぃぃぃっ!?」


 ニュクスが呆然としながら呟いた。


「えっと……相手、サキュバスの女王なんだけど……」




















 私は闇ハンマーで、何度も繰り返し淫乱女の馬鹿乳を殴りつけてやった。


 ぼいんっ! ぼいんっ! ぼいんっ!


「連打やめてぇぇぇっ!」

「ガードするな」


 しかも大き過ぎて腕からはみ出している。


「なるほど、ガードするフリして胸を強調する戦法ってわけね。クソあざとい死ね」

「邪推にも程があるぢゃろう!? そんな意図はないのぢゃ!」


 闇を淫乱女の腕に巻き付け、強引に胸から引き剥がしてやった。


「ひいぃっ! む、胸を殴るのはやめてほしいのぢゃっ!」

「じゃあ、そのデカケツの方にするわ」


 私は標的をお尻へ変えた。


 ばいんっ! ばいんっ! ばいんっ!


「お尻もやめるのぢゃっ! わ、悪かった! わらわが悪かったのぢゃぁぁぁぁぁぁっ!」


 泣きながら必死に謝ってくる淫乱女に、私は契約を迫る。


「じゃあ私の使い魔になりなさい」

「なる! なるから許して欲しいのぢゃ!」

「いいわ。契約を結ぶから少し大人しくしてなさい。……ちっ、馬鹿乳が邪魔ね」


 強引に胸を押し退けて、その中心に魔力を込めた指を突き入れる。


「んっ……」


 変な声を漏らす淫乱女の胸の真ん中に、契約を示す文様が刻まれた。

 これでこいつは私の命令に逆らうことも、私を害することもできなくなったはずだ。


「サキュバスの女王を……こんなに簡単に隷属させてしまうなんて……」


 唖然としているニュクスを余所に、私は早速とばかりに淫乱女へ命じた。


「とっととその腹立つ身体を隠しなさい。目障りだから」

「うぅ……このボディはわらわにとって最大のアイデンティティなのぢゃが……」

「何か言った?」

「な、何でもないのぢゃっ」


 淫乱女はどこからか持ってきたバスタオルで身体を覆い隠した。


 ぼいんっ!


「何でまた殴るのぢゃ!?」

「身体の凹凸が隠れてない。やり直し」

「厳しいのぢゃ……」


 淫乱女は涙目で厚手のコートを羽織る。


「まぁ良しとするわ」

「えーと……突っ込みどころが多過ぎて訳わかんないんだけど……とりあえずアンリ、その腕、大丈夫なの?」


 サキュバスを召喚する際に供物にした右腕は、肩から先が綺麗に無くなっていた。

 断面が鋭利な剣ですっぱり斬られたようになっている。


 自分で止血したので今はもう血が止まっているけど、服は真っ赤だ。

 もし鎮痛の魔法を使っていなかったら、今頃は激痛で喋ることもできないだろう。


「右腕がないと色々と不便よ?」

「それなら心配要らないわ。ほら」


 私は回復魔法を発動する。

 すると断面部分から少しずつ骨や肉が復活していった。


「なっ……欠損が治っていく……っ!?」

「ちょっと時間はかかるけど、これくらいは訳ないわよ。これでも元聖女なんだから」

「いや、だからって、部位欠損を治せるほどの回復魔法は……」


 神殿でもよくこの手の治療はさせられていた。

 どういうわけか、欠損の治癒が必要な患者は、私のところにばかり回されてくるのだ。


 激痛を伴うため強い鎮痛も必要で、しかも治療に時間がかかるから、本当に大変だった。

 自分の身体なら少し痛くても構わないので、もっと早く治すことができる。


「ったく、この程度の痛みくらい我慢しろっての」


 いつもなら二時間ぐらいかかっていたけど、三十分で終わってしまった。


「よし、元に戻ったわ」

「「……」」


 なぜかニュクスと淫乱女がそろって呆然としている。


 ちなみに生まれつきの障害とか、失って時間が経ち過ぎた怪我なんかは、さすがに治すことができない。


 なのに、それを何とかしろとか言ってくるクソな患者もいたりして……無理なものは無理だっての。

 まったく……思い出しただけで腹立ってくるわ。


 残念ながら、ああいう輩の頭の方も、回復魔法では治療することができないのだ。


「はあ、それより疲れたわ。ちょっと寝るから、あんた、怪しい奴が来ないか、外を見張ってなさい」

「りょ、了解なのぢゃ」


 私はソファの上に倒れ込み、深い眠りにつくのだった。



   ◇ ◇ ◇



「いきなり召喚魔法を成功させるだけでもすごいのに、まさかこんな大物を簡単に使い魔にしてしまうなんて……」


 ソファで眠るアンリの顔を覗き込みながら、ニュクスは驚嘆の息を吐く。


 何より自分の腕を捧げるという、常軌を逸した行為を平然と選択してしまえる精神。

 それに敵と認定した相手ならば、情け容赦なく対することができる冷酷さ。


 いずれも黒魔法の使い手として、申し分のない性質だった。


「加えて、あのレベルの白魔法をいとも容易く……この子、マジで天才かも……」


 一方、そんな女神の姿を見ることができないサキュバスの女王もまた、戦慄と共にアンリの寝顔を見つめていた。


「一体、何なのぢゃ、この娘は……。わらわの魅了が効かぬ上に、あんな高度な白魔法を……しかも欠損修復には相当な痛みが伴うはずなのに、平然と……げに恐ろしい娘ぢゃ……」


 過去、彼女の魅了を跳ね返した人間は誰一人としていなかった。

 淫魔の女王たる彼女にかかれば、魔物ですらその美貌に平伏すというのに。


 当然ながら、彼女は誰かに支配されたことなど一度もない。

 ましてや見張りを命じられるなんて……。


「……しかし、何ぢゃろう……この気持ちは……。こんなふうに束縛され、命令されるというのも……悪くない気が……いや……むしろ、興奮するというか……ハァハァ……」


 新たな性癖に目覚める淫魔の女王だった。



















「ふぁぁぁぁ……よく寝たわ」


 私は大きな欠伸とともに身体を起こした。


 窓からは明るい光が差し込んでいる。

 どうやら朝になったらしい。


 部屋にニュクスの姿は見当たらない。

 朝になったから消えてしまったのだろう。


「ん?」


 代わりに十歳くらいの女の子が、私が寝るソファにちょこんと腰かけていた。


「む? 起きたようぢゃのう」

「……誰よ、あんた?」

「わらわぢゃよ、わらわ。サキュバスの女王リリムぢゃ」

「え?」


 あの凹凸体型のエロ女が、こんな可愛らしい女の子に……?

 背が二十センチ以上は低くなり、手足も細く、顔つきも幼くなっている。


 胸も小さく……いや、小さくなってはいるけど……。


「おい、何でそれで私よりも大きい」

「ぎゃっ!? ちょっ、胸を鷲掴みするでないっ! し、仕方がないぢゃろう! 小さくなってこれなんぢゃから……っ!」


 とんだエロガキだ。

 子供になってもやはりサキュバスらしい。


「で、何で子供に?」

「わらわはサキュバスぢゃからの。昼の間は力が出ぬのぢゃ」


 どうやらニュクスと似たような理由らしい。


「何それ。じゃあ昼間は使えないじゃないの」

「さ、さすがに夜ほどではないが、これでも軽い魅了くらいならできるのぢゃ」


 とはいえ、聖騎士たちの集団に攻撃されたら、こんなチビサキュバスだけでは心許ない。


「ま、どのみち昼の間は動けないけど。街を出るとしたら夜ね」


 神殿からの追手を完全に振り切るには、やはりこの街を出るしかないだろう。

 だけど街の出入り口は見張られている可能性が高く、夜の闇に紛れた方がいい。


「いや……待てよ……あえてこちらから攻勢に出るということも……」


 ふとあるアイデアを思いつき、子供の姿になったリリムを見遣る。


「む? どうしたのぢゃ?」

「その子供の姿なら……ふふ、いけるかもしれないわね(にやり)」

「な、何か悪い笑みを浮かべておる……」



    ◇ ◇ ◇



「まだアンリは見つからないのか!」

「も、申し訳ありません……全力で探しているところなのですが……」

「必ず見つけ出せ! 絶対に街から逃がすんじゃないぞ!」

「は、はい……っ!」


 神殿長ポルンはいつになく苛立っていた。

 女隊長が執務室を出ていった後も、声を荒らげて机に拳を叩きつける。


「くそっ! この僕がっ……あんな小娘に……っ!」


 あの手痛い逆襲は、彼にとってかつてないほどの屈辱だった。


 孤児院にいたときに自ら見出し、神殿内でも群を抜くほどの力を持つ聖女にまで育て上げた娘――それがアンリだ。

 これからも彼の洗脳下で、その力を使い続けてくれると信じて疑ってはいなかった。


 それが気づけば、こちらの精神支配を打ち破ったばかりか、彼の自慢の顔をボコボコにしてきたのである。

 飼い犬に手を噛まれたどころの話ではない。


 しかし彼は決して敗北を認めたわけではなかった。


「ふ、ふふふ……だけど、アンリ、僕は執念深いんだ。君は絶対に逃がさないよ。そうだね……君のことだから、きっと夜を狙ってくるだろう。でも、街の出入り口は聖騎士たちがこれ以上ないほどの警備を敷いている。突破することは不可能だ。ふふ、結局のところ君はすでに袋のネズミなんだよ」


 むしろこちらの優位は変わらない。

 たった一人の娘が、彼とこの神殿の追跡から逃げ切れるはずがないのだ。


「それにしても、あの黒魔法は一体……」


 と、そのときだ。

 執務室のドアがノックされたのは。


「誰だ?」

「し、失礼するのぢゃ……いえ、失礼します」


 入ってきたのは見慣れない少女だった。


「わら……わたしは聖女見習いとして、今日からこの神殿でお世話になるリリムと言うです。神殿長様にご挨拶にきたです」

「聖女見習いだと? 今日から来る見習いなど、聞いていないが……」


 苛立ち混じりに少女を睨みつけたポルンだったが、そこで思わず息を呑んだ。


 ハッとするほど美しい少女だったのだ。


 まだ幼い。

 年齢は十歳かそこらだろうか。


 だがその顔立ちは芸術品のごとく端正で、あと五年もすれば、絶世の美女に成長するのは間違いないだろう。

 何より彼女には子供とは思えない色香があった。


 ポルンはゴクリと唾を飲み込んだ。


「(ふふふ、たまにはそういうのも悪くない、か。どのみちこの高ぶった気持ちを落ち着かせる予定だったしな……)」


 時刻は夕方。

 もう少しすれば陽が沈み、女の柔肌が欲しくなる時間がやってくる。


 彼はその二枚目な見た目を活かし、これまでに何人もの信徒や同僚に手を出してきた。

 信徒の中には、貴族の妻や娘までもが含まれているのだから驚きだ。


 無論バレれたらさすがの彼も終わりだ。

 しかし今まで一度も問題になったことがないのは、情事の度に精神魔法を使い、記憶を消しているからである。


「僕に付いてきなさい。これから聖女見習いとして必要なことをレクチャーしてあげようじゃないか。……手取り足取り、ね」

「は、はい」


 そうして彼は少女を寝室へと招き入れた。

 何の疑いもなく言うことを聞いてくれるその従順さに、つい笑いが零れそうになる。


 しかし彼は気づいていなかった。

 太陽が沈んでいくにつれて、少しずつ少女の身体が大人のそれへと変化してきていることに。


 顔つきも妖艶になり、瑞々しいその唇から密やかな呟きが漏れる。


「……くくく、それは楽しみぢゃのう。……わらわもたっぷりとその身体に教えてやろう。この世のものとは思えぬほどの快感をの……」






















 






 神殿で礼拝が行われていた。


 一週間の中でも、最も重要な日曜日の礼拝だ。

 そのため多くの有力者たちが訪れ、女神に祈りと賛美を捧げていく。


 普段はポルン神殿長が執り行っている日曜礼拝だったが、この日は時間になっても彼が姿を見せることはなかった。

 代わりに副神殿長が現れ、事情により今日は彼が神殿長の代理を務めると告げる。


 それを受けて、明らかに残念そうな顔になるのは、神殿長を目当てに礼拝に参加している女性信徒たちだ。


 何かあったのかしら、神殿長がいらっしゃらないなら来なければよかったわ、などと呟く彼女たちはこのとき、想像すらしていなかった。

 まさかこの後、とんでもない乱入者の登場で、今日の礼拝がめちゃくちゃになるなんて。


 それは讃美歌を歌っているときだった。


「「「きゃあああっ!?」」」


 礼拝堂の一画から悲鳴が轟く。

 一体何事かと、歌うのをやめた信徒たちが見たのは、




 全裸のポルン神殿長その人だった。




 いつもの礼拝では、豪奢な祭服に身を包み、時に真剣な顔で、時に爽やかな笑みを浮かべて説教をしている彼だ。

 それが一糸纏わぬ姿で、礼拝堂へと飛び込んできたのである。


 無論、下半身のアレも丸出しだ。


 加えて、明らかに様子がおかしい。

 いや、裸で礼拝堂に突入してくる時点で異常なのだが、それだけでなかったのだ。


 目が爛々と見開かれ、口端からは涎が垂れ、鼻息は荒々しい。

 まるで発情した獣のように興奮しているのは、彼の下腹部を見ても丸分かりだった。


「ぐひっ……ぐふふっ……リリムちゅぁあんっ……どこに隠れているんだぁい……ぐひゅっ……僕と、もっと気持ちいいこと、いっぱいしようよぉ……はぁはぁ……」


 驚愕する信徒たちを余所に、彼は甘ったるい声でそんなことを言いながら、礼拝堂の中をふらふらと彷徨い歩く。


 神殿長のあまりの変貌ぶりに呆然としていた神官たちが、そこでようやく動き出した。


「な、何をされているのですかっ!?」

「礼拝中ですよっ!?」


 彼ら神官は、騒然とする信徒たちから見えないよう身体で隠しながら、慌ててこの場から追い出そうとする。

 だが神殿長は自分の身体を掴んできた信徒へ、意味不明な言葉を吐きながら抱きついた。


「ああっ……リリムちゅあん……っ! ん~~~~っ!」

「ちょっ!? な、何をっ……」


 それどころか、男性神官へ口づけをしてしまう。


 礼拝堂内は大混乱だ。

 あれは本当に神殿長なのか、おかしくなったのでは、などという声が飛び交い、中には泣き出してしまう女性信徒もいる。


 どうにかポルン神殿長を礼拝堂から引きずり出したときには、もはや礼拝どころではなくなってしまっていた。



    ◇ ◇ ◇



「くくく、上手くいったのぢゃ。あれではもはや、そなたを追いかけるどころではなかろう」


 隠れ家に戻ってきたリリムの報告を受けて、私は思わず手を叩いた。


「よくやったわ。さすがサキュバスの女王。私には全然効かなかったけど、男相手には絶大な力ね」

「そなたが特別おかしいのぢゃがな……」

「ともかく、指示を出す人間がそうなったら聖騎士たちもかなり混乱するでしょ」


 敵の数が多いなら、司令官を直接叩く。

 簡単に言えば、それが私の作戦だった。


 そのため私はまずリリムを聖女見習いに装わせ、神殿内に侵入させることを考えた。

 子供の姿の彼女であれば、聖女見習いとして十分に通じるはずだと思っていたけれど、まんまとポルン神殿長のところまで辿り着くことができたようだ。


 あとは奴を誘惑させ、リリムの虜にしてしまえばいい。


「あやつを魅了するのは容易かったのぢゃ。元より神殿長のくせに女好きで、周りの女を食いまくっておったようぢゃからのう。なんならまだ子供状態のわらわにも手を出そうとしたほどじゃ」

「とんだ性職者だったってわけね」


 まぁ奴の性癖なんてどうでもいい。

 これで街の脱出がやり易くなったはずだ。


「それと、言われた通りこれも盗ってきたのぢゃ。金庫の場所も暗証番号も、わらわが訊けばすんなり教えてくれたの」


 そう言ってリリムが差し出してきたのは、大量の金貨だった。


 もちろんポルン神殿長のところから奪ってきたものだ。

 奴の私財ではなく、たぶん神殿のお金だろうけれど。


「やっぱり随分と貯め込んでたわね。貴族や大商人から莫大な金を取ってたみたいだし、かなり儲けているとは思ってたけど」


 そのうちの幾らかは、私が患者を治癒したことで稼いだ分のはず。


 それなのに、ずっと雀の涙ほどの給金しか貰っていなかったのである。

 だから奪ったっていうより、単にその分を取り返しただけだ。


「なんにしても優秀な使い魔ができて助かったわ」

「くくっ、そうぢゃろうそうぢゃろう! なにせ淫魔の女王ぢゃからな! なぁに、もっと褒めでもええんぢゃぞ!」


 そんなことを言いながら、撫でて欲しそうに頭を差し出してくる。

 朝になってまた子供の姿に戻っているので違和感はないけれど、面倒なのでスルーして、代わりにしっしと手で払う。


「てなわけで、とりあえずもう用事はないから元の世界に戻っていいわよ」


 召喚魔法で呼び出した使い魔は、いったん元の場所に戻し、また必要があれば改めて呼び直すことができるのだ。


「一緒にいると脱出の邪魔になるし」

「なんという塩対応ぢゃ!? ぢゃが、それもいい……」


 なぜか恍惚とした顔をしながら、リリムの姿が消えていく。


「またいつでも呼ぶのぢゃぞ! お願いぢゃぞ!」


 そんな叫び声を残して帰っていった。
















 この街を脱出するのに、私はあえて昼間を選んだ。


 敵は間違いなく夜を警戒しているだろう。

 だからこそ、かえって明るい時間帯の方が突破しやすいのではないかと踏んだのだ。


 夜と違い、昼間は人通りが多い。

 そのため他の人たちに紛れやすいという利点もあった。


「お陰で城門のところまでは何事もなく来れたけれど……」


 旅人に扮した私は、少し離れた場所から門を見ていた。

 そこでは街の出入りのための検問が行われていて、それを待つ人たちでちょっとした行列ができている。


 幸い街に入るのに比べれば、出る方が厳しくない。

 簡単なチェックだけで通行できるらしく、行列もどんどん進んでいく。


 検問を行っているのは街の役人たちだが、神殿から私の情報が入っていて、止められる可能性もある。


「万一のときは強引に突破してやるしかないわね。衛士らしき連中が警備してるけど、こちら側はそんなに多くなさそうだし」


 少し緊張しながら、私は検問の順番を待つのだった。






「……あっさり外に出れたわ」


 拍子抜けだった。

 役人から幾つか簡単な質問をされ、それに答えたら特に咎められることもなく通り抜けられたのである。


 城門の先には石畳の街道が伸び、その両側にぽつぽつと家屋が並んでいる。

 城壁の外側にも住んでいる人たちがいるのだ。


「そこの女、待ちなさい……っ!」


 背後から鋭い女の声。

 それもどこかで聞いたことのあるものだった。


 振り返ると、そこにいたのはあの聖騎士の女隊長だ。

 仲間の姿は見当たらない。


「あんた一人だけ?」

「……神殿長の命令ですっ……たとえ一人になろうとも、絶対に逃がしはしません……っ!」

「ああ、なるほど。あいつにあんなことがあったから、聖騎士団自体は私の捜索を引き上げたってわけね。ただ、あんただけがそれに固執して、まだ私を捕まえようとしている」


 私の口振りから何かを悟ったのか、女隊長が眦を吊り上げた。


「やはり……っ! 神殿長をあのような目に遭わせたのはあなたの仕業ですか……っ!」

「さあ、どうかしらね。裸で礼拝堂に乱入するなんて真似、どうやったら強制的にやらせられるか、まったく分からないけれど」

「それを知っている時点で、もはや自白したようなものでしょう!? よくも神殿長をっ……」


 女隊長が剣を抜き、躍りかかってくる。


「絶対に許しません……っ!」

「許さない? それを言うなら、私じゃなくてクソ神殿長に言うべきでしょうが」

「っ……戯言を――がぁっ!?」


 足首を闇ですくわれ、豪快に転んでしまう女隊長。


「戯言なんかじゃないわ。まぁでも、自分じゃ気づかないのも仕方ないわね」

「くっ……先ほどから一体、何を言っているのですか……っ?」





「あんた、あの男に洗脳されてんのよ」





「な……そ、そのような嘘でわたくしを惑わそうなんてっ……その手に乗るものですか……っ!」

「本当よ。あんたはあいつに魔法で感情を操作されているわ。その忠誠心も、恋慕も、紛い物でしかないのよ」

「で、出鱈目を言わないでください……っ! わ、わたくしは……心から、ポルン様のことを……」

「その割に動揺してるじゃない。ま、それはそうか。裸で礼拝堂に突入するなんて、とんでもない不祥事を起こした相手。百年の恋だって冷めて当然なレベルだし、すでに心が揺らいでいるんでしょ」

「そ、そんなはずはっ……たとえ誰もがあの方を蔑んだとしても、わたくしだけは絶対に裏切りません……っ!」

「ふふ、その気持ち、魔法から解けても保っていられるかしらね?」


 闇で全身を拘束し、動けなくした女隊長へと近づいていった。


「な、何をっ……や、やめ……」

「大丈夫。洗脳を解くだけよ」


 彼女の頭に手を添えて、私はその精神を支配していた魔法を解除していく。


「ああああっ! ああああああああっ!」


 すると彼女は頭を抱えて絶叫し出した。


「いやっ……ち、違うっ……わたくしはっ……ポルン様のことをっ……あああっ……なのにっ……心の中から、段々と消えて……」


 彼女は地面に崩れ落ちる。

 わなわなと唇を震わせ、虚ろな目で呟く。


「そ、そんな……わたくしは……本当に……ずっと……自分の気持ちを操られて……」

「どうやら完全に解けたようね」

「……ひ、ひどい、です……。知らなければ……こんな虚無感にとらわれることも、なかったのに……わたくしはこれから、どうしたらいいというのですか……」


 そんなふうに筋違いな訴えを受けて、私は鼻を鳴らした。


「ふん、どうしたらいいって? あんた、誰かに命じられないと何もできないのかしら? 子供じゃないんだから自分で決めなさい」

「っ……」

「それが自由ってものなのよ」

「じ、自由……」


 自失状態の彼女を放置し、私は歩き出した。

 洗脳は解いてやったんだし、これ以上の面倒を見てやるほどお人好しじゃない。


「……ま、私もこれが初めての自由なんだけれどね」



    ◇ ◇ ◇



 街の一画。

 スラムと呼ばれる地域の片隅に、その孤児院はあった。


「まま! これみて!」

「あらどうしたの、その手紙と袋」

「おねーちゃんにもらった!」

「お姉ちゃん? 一体、誰が……これは……アンリから?」


 手紙を開いた初老の女性――孤児院の院長は、そこに書かれていた内容に驚く。


「〝事情があって、これからは仕送りができなくなります。その代わり、これを経営の足しに使ってください。アンリ〟……まったく、あの子ったら……」


 アンリはこの孤児院から巣立った子供の一人だった。

 その才能を見込まれてここを出ていき、現在は神殿で聖女として活躍している。


 そんな彼女はこの孤児院のために、給金の中から決して少なくないお金をずっと寄付し続けてくれていたのだ。


「要らないと言っても聞かないし……本当に、昔から優しい子なんだから……」


 生憎と手紙に詳しいことは書かれておらず、どんな事情があるのかは分からない。


「よくないことじゃなければいいんだけれど……でも、あの子のことだから、きっと大丈夫よね……。どんなことがあっても、私はあなたの味方よ、アンリ……」


 そんなことを考えながら、袋を開けた彼女は、


「……へ?」


 中に入っていた大量の金貨に腰を抜かすのだった。


「ききき、金貨ああああああああああっ!?」





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ブラックな神殿で働き過ぎた聖女、闇堕ちして最強の黒魔導師になる 九頭七尾(くずしちお) @kuzushichio

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