第4章第7節「天国と地獄の狭間で」
轟く衝撃波と眩しさに目を細めて腕を上げていたセツナは、ゆっくりと眼前に広がる光景を認識する。
「…………」
有機的な鱗と無機質な光沢を放つ肉体は、それ自体が堅牢な鎧のようにも見える。三メートル以上はあろうかという巨躯は宙に浮き、その背中には六枚の翼が伸び伸びと広がっていた。紅い光を放つ眼窩はセツナを見下ろし、頭部には二本の歪な角が世界を威嚇する。天使とも悪魔とも取れる、神々しくも禍々しい姿。
その間、睨み合いや対話はなかった。ただ、
にも関わらず、一対の魔剣は歪んだ虚空を斬るのみ。
セツナを見失った熾王が顔を見上げても、そこには何もない。ふと振り返ると、空間を裂いて現れたセツナが大通りに立っていた。彼女は攻撃を躱したどころか涼しげに後れ毛を耳にかけ直している。熾王に気づくと挑発するように首を傾げ、足の爪先でトンと地面を叩く。すると、彼女を中心にしてアスファルトが地盤ごとめくれ上がり、津波となって熾王へ押し寄せる。
敵との距離を縮める手段をなくした熾王だったが、彼は六枚の翼を広げ赤い空を舞う。最中、彼の肉体は明滅し女性的なものへ変化していく。高度を稼いだ彼女は上からセツナの姿を探そうとするも、先刻までいた大地は津波によって木っ端微塵に粉砕されていた。普通ならば、大地の津波に飲み込まれては無事ではすまないだろう。だが熾王は宙を漂う別の大地に立つセツナを見つけた。天と地の境がなくなり、こちらから見るとセツナは頭を下に向けて立ち尽くしているふうにも見える。
燃えたぎる瞳に敵を捉え突き進もうとすると、大きな影が覆い被さる。
見ると、空から降ってきたのは教会だった。なんと、セツナは手をあげて周囲を漂流していた教会の地盤を引き寄せ、熾王に衝突させようとしているのだ。
隕石の如く落下してきた教会に対し、熾王は両腕を交差させて一対の魔剣を浮遊させる。一対の魔剣を従えた熾王が腕を振ると、教会の大地を撫で切りにした。そのまま、熾王はセツナめがけて急降下する。一つの大地が粉砕され隕石の如く降る教会。天災と呼べるほどの破壊の渦中で、熾王は一対の魔剣を従えてセツナの元へ突き進む。砕かれた地盤が宙を舞い、それら一つ一つが行手を阻もうと彼女は止まらない。
ようやくセツナの姿を捉える頃には、熾王の肉体は再び男性的なものへ変貌。さらに両腕をそれぞれ分裂させ、四本の腕を使って魔剣ライフダスト、魔剣デスペナルティを両手で構える。
イヴを守ろうとするラスヴェートの意思。ラスヴェートと共に立ち向かおうとするイヴの意思。それぞれを湛え、熾王は突撃していく。
自由の為に携えた一対の魔剣、それが仇敵の体へと達する直前。
魔剣は何かの障壁に当たったかのように止まる。すると、セツナの周囲を中心にした空間にヒビが入り、彼女が超能力で生み出していた障壁が粉々に破壊された。光、音、風が遅れて響き渡り、全てが彼女を置き去りにして陥落する。もはや、彼女を守るものは何もない。
熾王は力を込めて、緩やかな時空間の中で身を翻して魔剣ライフダスト、魔剣デスペナルティを振るう。セツナにトドメを刺す為に。
が、
────バキィィィン! という甲高い音を立てて一対の魔剣は弾かれてしまった。
弾いたものの正体は、セツナが無造作に振るった裏拳。そのことに気づくと同時、彼女は手を広げて紅い光を集めると熾王に向けて放つ。流星のように放たれた魔力の光線は熾王の肩に命中、その大部分を抉り取っていく。
凄まじい衝撃を受けた熾王はあっという間に蒸発し、ラスヴェートとイヴの肉体を放り出す。宙に放り出されたラスヴェートは魔剣デスペナルティと共に奈落へと落ちていく。気を失ってしまい、抵抗することもままならなかっただろう。そして、同じく弾き飛ばされた魔剣ライフダストは地面に突き刺さり、イヴはそのすぐ側に打ち上げられた。
たった一撃で熾王を葬ったセツナは、奈落に落ちたラスヴェートを気にも留めずに一方を見やる。そう、曲がりなりにも自分の子供であるイヴを。
彼女の髪色はすっかり抜け落ち、ラスヴェートと同じ銀髪となっていた。それでも、彼女の顔を見間違えるはずもない。その、絶望に染まった表情を。
「…………来ないで」
イヴの下半身は欠けてしまい、腕も右腕しか残っていない。当然と言うべきか、血肉といったものはなかった。肉体は黒く崩れかけていて、体についた傷からは無機質な砂が絶えず零れ落ちている。まるで時を失って脆く崩れ去っていく砂時計のように。それでも、イヴは必死に動き続けていた。地面に刺さった魔剣ライフダストを求めて。
そんな哀れな姿を晒すイヴを見下ろし、セツナは口を開き何かを言おうとする。
いつかこうなることを、彼女は分かっていた。分かっていながら、セツナはイヴと一緒に暮らしてきた。イヴの正体を知ったのはしばらくしてからだったが、それでも殺さなかったのはセツナにも情けがあったから。避けられない運命だったとしても、少なくともセツナが一緒にいて面倒を見れば平気かもしれない、と。子どもを身籠ったからには責任を取るべき。ドロシーはそう言ったが、セツナは違った。
ドロシーがかけたのは希望であり、セツナがかけたのは愛情。しかし、いくらかけたものが違えど、運命は運命だ。一度砂時計を裏返してしまえば、如何なるものでさえ砂上の楼閣として崩れ去ってしまう。
奈落に呑み込まれようとしているイヴの真下からは茨が伸びてきている。地獄から彼女を引き戻そうとするかのように。
「……楽にしてあげる」
セツナがポツリと呟いてから間もなく。イヴは力尽きたのか、肉体の全てを灰に変えてしまった。セツナが手を下すまでもなく、彼女の目の前でイヴは還った。
その顛末を、彼女は目を逸らさずに見届けた。イヴを見捨てるのではなく、看取るために。
「…………」
これは、避けられない運命なのだ。セツナが幻影のイヴを妊娠した時から決まっていたこと。
結局、イヴは真実を理解することなく死んでいった。なぜ自分が生まれてはいけないのかを知ることなく、理不尽な絶望に押し潰された。全てセツナの思い描いた通りに、真実は不条理によって塗り潰されたのだ。どのみち苦痛を避けられないのならと、彼女はそれを選んだ。忌むべき真実を知るよりも、不条理に絶望する方がいい。そうすれば、誰を恨むこともなく余計な苦しみを負う必要はなくなる。
身勝手で許される判断でないことは分かりきっていた。だから許されようとも思わないと話した。全てはイヴをできる限り苦しませないため。しかし終わってみれば、所詮は自分が恨まれることが怖かっただけかもしれない。口でなんと言おうと、苦痛から逃げる言い訳でしかない。それでも、断ち切れぬ根を下ろす真実より、時が癒す
膝を折って遺灰に触れていた彼女は、魔界に沈みゆく景色を睥睨する。
イヴとラスヴェートの子宮となっていた町は、天国と地獄の狭間となる魔界の海を漂流した状態だった。それをセツナが超能力を用いて砕いたことで、子宮となった町は形を保てずに奈落へ呑まれていくことだろう。もう、彼らが町の外に転生することもないはずだ。
「……あっけないものね」
その時、セツナの背後から声がする。
振り向いて立ち上がると、そこにいたのは傷だらけのルミナだった。頭や口からは血が流れていて、セツナによる破壊を完全に免れていたわけではないらしい。おそらく、教会の瓦礫の下敷きになっていたところを自力で這い出してきたのだろう。
「ドロシーは何としてでもラスヴェートをこの町から出そうとしてたみたいだけど、それも叶わなかったわね」
ルミナは足を引きずりながらセツナの横に立つと、そこから魔界の景色を眺めた。
「もしも外の世界があるんだとしたら、イヴは出るべきじゃない。あの子の母親が私だったとしても、父親は間違いなく魔界に潜む何か。そいつが父親なのか本当の母親なのかは知らないけど、そんな忌まわしい子供を外の世界に産み落とせば、きっとこの町と同じ道を辿る羽目になる」
いくらセツナやドロシーが努力したとしても、彼らの本当の家族のことまではどうしようもない。だからと言って、彼らを育てあげて外の世界を侵蝕させるわけにもいかない。世界を存続させるためには、彼らは悪でしかないのだ。ならば、せめて母親であるセツナが引導を渡すべきというのは道理だ。
「ふふ、本当に可哀想ね。偶然にも授かった子供が悪魔だなんて。蝶のサナギだと思って大事に育てたら醜い蛾が出てくるようなものよ? ……でも、その忌まわしい子供はもういないわ」
ルミナは含みのある笑みを向ける。
「元の世界に戻りたくはないの?」
アトランティスは魔界の塵となって消えるだろう。だが、町の外に出る────元の世界に戻る方法がなくなったわけでもない。
二人の横合い、地面に突き刺さっている魔剣ライフダスト。生命を司る魔剣を使えば、元の世界に転生できる可能性があるかもしれない。ドロシーがラスヴェートにあの剣を預けたのも、そういった理由があったからだろう。
「お断り。私はここでいい」
しかし、セツナは魔剣ライフダストを取らなかった。自分にはチャンスを与えられる資格などないと思ったから。
事情は何であれ、身籠った子供を自身の手で殺したようなもの。彼女がしてきたことは冷酷なことであるし、自分自身の行いに嫌悪感を募らせてもいた。そんな人間の末路として、天国でも地獄でもないその狭間というのは相応しい。
そう考えて、セツナはルミナを残して奈落へ足を踏み出そうとする。曲がりなりにも自分の娘が落ちていった魔界へ。
「ほら忘れ物よ」
その一歩手前、ルミナが呼び止める。彼女が差し出したのは、教会に放り捨てた黒い手帳だった。
手帳には魔界レミューリアや生と死を司る魔剣について、イヴの正体に関する調査の結果が載せられている。今となっては必要のないものだが、一時期はセツナの日記としても使われていた。イヴとの暮らしについて記していた憶えがあるが、ルミナは中を見たのだろうか。
個人的なものを放っておくよりはと考え、セツナは渋々手帳を受け取る。すぐに背を向けると、ルミナはこんなことを訊ねてきた。
「残って……どうするつもり?」
セツナはあえて聞かなかったが、ルミナは中の日記を少しだけ見ていた。それを見るに、セツナは確かにイヴのことを大切に思っていたようだ。魔界で生まれた悪魔であることは関係なく、監視という名目で面倒を見るうちに情けが生まれた。だからこそ、セツナはアトランティスを破壊しなければならない状況になるまで行動を起こせなかった。
「もしかして、子供がまだ生きているとでも思っているのかしら?」
そんな彼女が魔界に残ると言ったのは、イヴへの愛情からではないか。元の世界に一人で戻る道を選ばずに、魔界で二人でいることを選ぼうとしているのではないか。
彼女がなんと答えるのか、ルミナは横顔を見つめ続ける。しかし、セツナは答えるよりも前に魔界の奈落へと身を投げた。
「…………それが答え、ね」
愛情というより、それは呪いと呼ぶに近しいのかもしれない。
残されたルミナは人知れず微笑み、地面に突き刺さっている魔剣ライフダストを見やった。
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