Lost Resort:Phantom Pregnancy

冠羽根

序章「夢心地」

序章「夢心地」

 すぅ、すぅ……。


 机に突っ伏して寝息を立てる少女が一人。上下する背中には陽だまりの布団がかけられていて、穏やかな微睡みを誘う。体を預けている机は温かな木で出来ており、複数の椅子が据え置かれている。光の射し込む足元には小さな埃が踊っていて、時折吹くそよ風が床板を踏み鳴らす。

 彼女が眠っている場所は、町の一角に存在する小さなアトリエだ。今は主人がいなくなってしまった場所だが、そこを流れる空気は決して廃れていない。眠る少女を迎え、微睡みへと誘ってしまうほどにそこはただ静かだった。

 そんなアトリエをたずねるそよ風は、窓辺のカーテンを優雅になびかせている。そよ風の通り道にあるのは何もカーテンだけではない。イーゼルに立てかけられた書きかけのキャンバス、机に突っ伏して眠る少女。そしてもう一人、眠っている少女と瓜二つの外見を持つ少女。彼女が見ているのは、天井を支える柱から伸びる梁に吊り下げられた鳥籠だった。

 しかし、鳥籠の中には小鳥の姿は見えない。鳥籠の扉は閉ざされているが、中にいた小鳥はどこに行ったのだろうか。そう連想する場面だが、彼女は違う。何もない鳥籠をただ純真な瞳で見つめ続けている。まるで中に閉じ込められた小鳥を見つめるかのように。

 しばらくして、彼女は吊り下げられた鳥籠に手を伸ばす。閉ざされた扉を開き、中にいた小鳥を出すように。もちろん、小鳥はいない。そこには、何もない。

 それでも、彼女は確かに見ていた。

 鳥籠の中にいた小鳥の姿を。

 物事は認識したものが全てであり、想像は所詮まやかしに過ぎない。たとえ、そこに存在していたとして確かめることができないのであれば、存在しないことと同じ。可能性とは、あくまでも現実の延長線上に過ぎない。だが、痕跡というものはそれらの存在を証明してくれるもの。

 その時、アトリエの出入り口に飾られていた鈴がカランカランと音を奏でる。それは人が扉を開けた時に鳴るはずの音。だが、今のアトリエには誰も足を踏み入れることがない。おそらく、風が鳴らしたのだろう。

 聞こえた鈴の音に目を覚ましたのか、机で眠っていた少女が目を開ける。上体を起こし、霞がかった意識の中を漂う。鈍い感覚のまま立ち上がり、体を伸ばして眠気を覚ます。

 彼女は自然とアトリエにあった柱時計に目をやった。今は何時だろう。そんな軽い気持ちの仕草。柱時計は頂上を指していたが、彼女の表情は思わしくない。思いのほか長い時間を眠っていたからではない。柱時計は頂上を指したまま動いていなかったからだ。

 静かにため息をつくと、彼女はポツリと呟く。誰へともなく、独り言のように。

「行くよ、イヴ」

 声に反応したのは、鳥籠を眺めていた少女だ。イヴと呼ばれた少女が反応したかも見ず、彼女はそそくさと出口へと向かう。イヴも置いて行かれないように追おうとするが、ふと横を向く。

 そこにあったのは、窓辺に括りつけられた風船。名残惜しそうに見つめるイヴは、出口に向かった少女を小さく呼び止めた。

「ねぇ、これ持って帰っていい?」

 呼び止められた彼女は静かに振り返る。外からの光を背に受けて表情はよく見えなかったが、彼女は次のように言った。

「好きにすれば」

 言い終わるよりも前に、踵を返す。

 イヴはすぐに窓辺にあった風船に手を伸ばして紐をほどこうとする。紐の結び方は単純なものだったが、少しもたつくイヴ。急いでいるせいか、手元が不器用なのか。ともかく、イヴがやっとの思いで紐をほどいた時、風船は窓から空へ飛び立ってしまった。力を抜いていたイヴの手からするりと紐が抜けてしまっていたのだ。

「あっ……」

 焦る頃には既に手遅れ。風船は既に手の届かない場所にあった。風に乗って、黒い太陽の輝く空へ向かっていく。まだ見たことのない空の上へ。

 あの風船はどこに行くのだろうか。

 空の上はどんな場所なのだろうか。

 湧き上がる疑問を胸に、イヴは空に浮かぶ風船を見上げる。

「イヴ」

 名前を呼ばれたことで我に返り、イヴは窓から身を引く。

 彼女がそれまで風船を見つめていた視線。そこにあったのは、単純な疑問だけではない。言うなれば、羨ましがる目線だった。

 空の上に行ける風船。

 空を飛べる鳥を羨む想いで。


 ────アトリエを出た後もなお、彼女は時折振り返っては空を見上げた。

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