第1章第4節「魔界に沈んだ町」

 パン屋からの帰り道、ジルはアンソニーが話していた開かずの間について考えていた。

 開かずの間と呼ばれる噂話は、町に住む人間なら誰もが知っている有名な話だった。噴水広場に存在するとある民家のことだ。アトランティスにおける標準的な民家と比べ、やや大きな古い家。かつてアトランティスに住んでいたとされる錬金術師グランチェスターが建てたという家で、その扉が開いたところを誰も見たことがないという。それどころか、中に誰か住んでいるのかも分かっていない。元保安官であるジルでさえ、総督府によって錬金術師の家として保存されている家には手を出すことができなかった。

 そんな経緯から開かずの間と呼ばれるようになった錬金術師の家。

 噴水広場に差し掛かかったジルは、遠巻きにそこを眺めた。一見すると、普通の民家に見えるが誰も出入りすることのない曰く付きの建物だ。扉の隣にはシャッターが見えることからガレージにもなっているらしい。煙突も普通のもので、怪しい点は何もない。

 開かずの間に関する噂について、ジルもまた奇妙だと思っている。だが、噂はあくまでも噂だ。もちろん真偽は分からないが、単に総督府に保存されているだけの由緒正しい錬金術師の家としか見ていなかった。

 そして、彼は思わず目を見張るような事態を目撃してしまった。

「まさか……」

 開かずの間と呼ばれた扉の前に突如として現れたのは黒い髪の少女だった。としか言えない事態。それでも少なからず、ジルには確信があった。彼女は錬金術師が住むという開かずの間から出てきたのだと。

「……さ、帰ろっか」

 彼女――――セツナは独り言を呟き、ジルの方を見ることなく広場を後にする。こちらに気づいていないのだろうか。

 対して、ジルはパンの入った紙袋を小脇に抱えて帽子を深く被り直すと、セツナの後を追った。

 噴水広場から出たセツナは、ゆったりとした大通りの歩道に沿って歩いている。大通りの信号は点灯しておらず、走っている車もない。車道は広い幅を持った四車線だが、実際にそこまで多くの交通があったわけではなかった。単に余った土地を舗装したところ広くなっただけで、渋滞が起きたこともない。とはいえ、おかげで穏やかな町の雰囲気を損なわずに済んだのは僥倖とも言える。

 今では乗り捨てられた車の方が目立っている大通り、セツナはしばらく歩いたところで歩道橋の階段を上がっていく。もちろん交通が皆無となった今は歩道橋を渡る意味などないはずだが、ゆったりと歩道橋を渡るセツナ。素直に後を追えば上で気づかれる可能性もあるため、ジルは下から見つからないように見上げる。彼女はを見せながら、妙に時間をかけて渡っているようだ。そして歩道橋から降りると、すぐに交差点を曲がった。ジルも彼女の後を追うために車道を急ぎ足に渡ると、交差点を曲がっていく。

 ゆったりとした通りは見通しが非常に良く、もし彼女が振り返ればすぐに見つかってしまうだろう。いつも以上に慎重に、電柱の物陰に隠れつつ後を追う。

 セツナはさらに次の交差点に差し掛かると、一階部分が吹き抜けの駐車場になっているレストランを通っていく。

 背の高い看板のネオンはついておらず、二階部分のレストランも電気はついていない。どの店もそうだが、町で営業している店はほぼ皆無に等しいと言っていいだろう。

 そんな寂れたファミリーレストランの駐車場を通り抜けるセツナを追うジル。

 その時、セツナは後ろを振り返った。

「……まずいっ」

 ジルは咄嗟に近くに停めてあった車のドアに手をかけ、中に乗り込む。隠れた彼をセツナが見ていたかどうか、ジルには確認する術がない。彼が乗り込んだ車は彼女から見て横向きに停められていたが、運転席側と彼女の間にはもう一台の車が挟まっていたのだ。

「ふぅ……」

 跳ねる心臓を押さえつつ、ジルはなんとか外の様子を伺おうとする。しかし、間の位置に停められた車が邪魔で姿を見ることはできない。もし、彼女が気づいていればまだこちらを見ているだろうし、車から降りるに降りれない状況。かといって、このままでは彼女を見失ってしまう。

 息を整えたジルは意を決して車から降りようとした――――が、降りることはできなかった。

「おい、どうなってる?」

 なぜなら、ドアが開かなかったからだ。

 鍵はかけていないし、そもそも鍵は持っていないしかかってもいなかった。にも関わらず、ドアが開くことはなかった。野ざらしの影響で錆び付いたせいかと思い、強く力を込めてもビクともしない。

 さらに間もなく、車に驚くべきことが起きていると気づく。

「嘘だろ……?」

 運転席に座るジルは車の揺れを感じた。それはエンジンをかけた時にも似た感覚。端的に言えば、車はゆっくりと前へ進み始めていたのだ。

 車は乗り捨てられてから長い月日が経過している。車内の物品は根こそぎ盗まれていて、ガソリンだって抜かれている。もっと言えば、車のキーがない。車を動かすことなんてできるはずがなかった。

 しかし、ジルを乗せた車は間違いなく前進していた。彼はひとまず車を止めようとするが、ブレーキペダルは下がらず、サイドブレーキも効かない。おまけに、アクセルは触れていないのに踏み込まれていた。

「くそ、勘弁しろよ……!」

 彼はブレーキで止めることを諦め、ハンドルを握る。手がつけられなくなる前に、どこか壁や別の車にぶつければ前進を止めることができる。そう思っての判断だったが、いくら力を込めたところでハンドルが動くことはなかった。それどころか、ハンドルは勝手に動き出し車道を走り始めた。

 半ばパニックを起こしていたジルは、ふと思い出す。先ほどまで追っていた少女は、まだそこにいるのか。

 汚れた窓越しに少女を最後に見た方を見ても、姿も影もなかった。

 少女を見失った上に、暴走する車に閉じ込められた。理解が追いつかない事態に彼は頭の中が真っ白に染め上げられる。

 と、次の瞬間。

 走行を続けていた車は、ゆっくりと減速して停車する。

「…………」

 ジルが顔を上げると、そこはレストランのある通りから少し離れた道路だった。周囲には葉のない木だけが歩道に等間隔に生えていて、それ以上の大きな特徴もない殺風景な町並みが広がっている。離れたところには疎らではあるが、小さな民家が見えた。アトランティスらしい長閑のどかな景色を見て、束の間の安心を覚えるジル。どうやらまだ生きているらしい。

「はぁ……」

 運転席の背もたれに頭をつけ脱力する。このまま町の人々と同じく失踪してしまうのかとも思ったが、それも免れることができた。

 ひとまず車から降りれるかどうかを確かめるためにも、ドアに手を触れる。その時。

 コツ、コツ、という乾いた靴音と共に、ドアミラーに映り込む影。

 ジルはまず目だけを動かして、現れた影を見る。影は前へと進み、そのまま車のボンネットに人差し指をつけた。人差し指がボンネットをなぞると、紅い光が生じる。まるで静電気のようにも見えるが、もっと超自然的な現象だった。

 彼女は人差し指でボンネットをなぞりながら車の正面に立つ。そして、彼女が手を離すと運転席のドアがひとりでに開かれた。

「…………」

 降りろ、ということなのだろう。

 ジルは帽子を取って助手席に置いていたパンの入った紙袋に被せる。それから素直に車から降りると改めて彼女と顔を合わせた。

 上は首にマフラーをしてチェック柄のシャツを羽織り、下はジーンズを履いたラフな格好。後ろで黒髪をお団子にまとめていて、化粧っ気はない。幼さの抜けきらない顔立ちから察するに、十六か十七歳くらいだろうか。

 こちらを見やる視線と瞳に敵意の色はないが、ただ漠然と見下ろされている感覚だけが彼の体を重くその場に縫い止めていた。

「君は……」

 目を合わせ、ジルは神妙な面持ちのまま問いかけようとする。一連の出来事で思考が麻痺していた彼の言葉の詰まりを察したのか、彼女は食い気味に答える。

「セツナ。あなたは?」

 冷たくトゲトゲとした視線と声で問われ、ジルは乾ききった舌を動かす。

「ジルだ。ジル・ベレスフォード。この町の保安官だ。……元保安官」

「そう」

 関心があるのかないのか分からない返事。セツナは凛とした佇まいをしているが、その表情を読むことはできない。元保安官であるジルから見ても、彼女から話を聞き出せるかは正直なところ不安だ。何よりも、彼女は一連の出来事に関係していることは間違いないのだから。

「で、……君に聞きたいことが山ほどあるんだけど」

「そっちこそ、私に何の用? ずっと後を尾けてたのは知ってる」

 ジルの問いかけに間髪入れず、セツナは言葉を重ねた。当然と言えば当然だ。一連の出来事のきっかけを振り返れば、こうなったのはジルが彼女を追いかけていたことにある。

「あぁ、すまない。君が開かずの間から出てくるところを偶然見かけてしまって……その」

 好奇心と言ってしまえばそれまでだが、彼はできる限り言葉を選ぼうと努めた。セツナの素性が分からない以上、下手なことを言って機嫌を損ねる真似は避けたい。

 だが、彼がパンク寸前の脳を回転させていたところ、セツナは一旦息を切ってから口を挟んだ。

「いいよ。聞かせてあげる。元、保安官なんでしょ?」

 思いのほか、交渉は上手く運んでいるらしい。未だ衝撃に頭が追いついていないのか、ジルはぎこちなく頷く。

「あぁ」

 現在のアトランティスで保安官を名乗ったところで、何の意味もなさない。とはいえ、セツナの口ぶりは保安官であることを意識していた。彼女の言動はいまいち掴めないが、素直に従ってくれはするようだ。

 ともあれ、ジルが今考えるべき問題となるのは、まず何から聞くかということ。

 彼の身に起きた一連の現象について、未だ現実のものという実感も湧いてこない。疑惑と興奮が錯綜して震える声を出し、ジルは一つずつ訊ねていくことにする。

「えーっと、さっきのは君がやったんだよね……?」

 一連の出来事。ジルが隠れ込んだ車がひとりでに走り出したこと。エンジンもかかならないはずなのに、彼女は指一本触れていないはずなのに。

「うん、そうだよ」

 あっさりと。

「見られちゃったんなら白状するけど……私、こう見えて超能力者なんだ」

 告白した。セツナは超能力者であるということを。

「へ、へぇ。やっぱりそうだよねそれは……すごいな。本当に、……あり得ない」

 普通なら信じられる話ではない。しかし、彼の身に起きたことはそうでないと説明がつかない。

 決してそうかもしれないという可能性の話などではなく、実際に起きた現実。

 つまり、信じざるを得ないのだ。

「サイコキネシス」

 彼女が言うと、ジルが開けっ放しにしていた車のドアがひとりでに閉まった。

「パラダイムシフトが起きてから、変わったのは町だけじゃない。もう慣れたけどね」

 サイコキネシスとは、いわゆる念動力のことを指す。テレキネシスとも呼ばれているが、彼女がサイコキネシスと呼ぶこと自体に意味があるかまでは分からない。ともかく、手で触れずに物を動かす超能力のことだ。

 ジルは超能力者の存在を信じてはいない。人間には勘が備わっているとは思っているが、具体的に何かを引き起こす力まではないはずだ。だが、彼がたった今見たものは、間違いなく超能力だった。

「…………」

 あまりの衝撃に動揺を隠せずにいるジル。思わず後退りしていた彼を見て、セツナはこんなことを提案した。

「ねぇ、立ち話もいいけど中で話さない? 私の家、すぐそこだから」

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