第1章第3節「魔界に沈んだ町」

 アトランティスは、閑静な風景が広がる小さな田舎町である。総督府が設置されているラフト教会を中心に、穏やかで広々とした街道に軒を連ねる家々はそれぞれの煙突を持つ。都会で見られるような高層ビルの類は一切なく、民家の小窓からでも町を見渡すことができた。近代の都市開発に置き去りにされ、観光地として注目を浴びることもなかった辺鄙な町ならではの雰囲気は、歴史の影でひっそりと力強く培われてきたものだ。

 しかし、そんなアトランティスにも明確な変化が訪れた。総督府は、そのきっかけとなった日を『パラダイムシフト』と公表した。

 もともと閉鎖的な町ではあったものの、パラダイムシフトが起きてからそれはより目に見える顕著なものとなっている。唯一町の外に繋がっていたはずの鉄道は姿を見せなくなり、車で町の外へ向かった者は二度と帰ることはなかった。相次ぐ不可解な失踪事件を受けて混乱に陥った住人たちは、町に閉じ込められたと騒ぎ立てた。頭上に現れた黒い太陽に正気を吸い込まれてしまったように。

 その後、幸か不幸か残された住人たちは閉ざされた町で静かに暮らしていた。町を行き交っていた人々の気配はすっかり消え、町は厳粛にすら思える静寂に包まれていた。

 そんな時が止まってしまったような町に、口笛を響かせて歩く男が一人。

 帽子を被った彼がいるのは、町の噴水広場だ。本来ならば時間帯によっては子どもが遊んでいたり、読書に耽る住人がいたりといった風景が見れる場所。現在では噴水こそ止まっていないものの、噴水の台座に腰掛ける者は誰もいない。あるのは、民家の窓辺でギィギィと風で音を奏でる開きっぱなしの窓、薄汚れて劣化した状態で干しっぱなしの洗濯物。稀に横切る人影は足を止めることなく立ち去っていく。

 帽子の男は口笛を吹きながら、広場に置かれたワゴンやテントの中を覗いていく。どれも出店として利用されていたものであるが、品物のほとんどは見る影もない。食料は全て住民たちに持って行かれてしまっているだろう。唯一残されていた古着は穴だらけで、花は全て枯れてしまっている。

 特に、消費される日用品や食料は町に残された人々にとって必要なもの。町に閉じ込められて外からの物流が断たれてしまった以上、町の中にあるものでやりくりしていかなければならない。必然的に、限りのある日用品や食料は調達――――悪く言えば盗むことになるのだ。致し方ないことではあるが、もぬけの殻になっている店を見ているとやるせない気持ちにもなる。

 陰鬱とした気分を紛らすように口笛を吹いて歩く彼が入って行ったのは、古い店だ。出入り口の上に垂れ下げられた鉄看板には『L’oiseau au Pain』とあり、パンを咥えた小鳥が刻まれている。どうやらパン屋だったらしい。しかしながら、中はもぬけの殻で焼きたてのパンはどこにもなかった。だが、男の鼻腔をくすぐるパンの香りは確かなもの。

「アンソニー。いるか?」

 明かりのついていないパン屋のカウンターを叩き、男は厨房へと声をかけた。

 しばらくすると、奥からやってきたのは白髪の老人だ。

「元気そうだな。ジル」

 ジルと呼ばれた男は帽子を取って挨拶を交わす。

「あぁ、そっちも元気そうでよかった」

「お互いにな」

 白髪の老人アンソニーは短く答え、しわだらけの笑みを作った。

 パラダイムシフトが起きて町から人が消え始めた今、こうして誰かと会えるというのは貴重な時間だ。時が止まって死んでしまった町の中で、生きていると実感できる数少ない機会なのだから。

「最近どう?」

 ジルがカウンターに肘を乗せて近況を尋ねると、アンソニーは最近のことを振り返った。

「皆、落ち着いたよ。この町は前よりも静かになった。単に、人が減っただけかもしれんがな」

 アトランティスは喧騒とは無縁の田舎町であるにせよ、今の静けさは異常といっていい。外を歩いてもすれ違うのは数人にも満たず、町に残っている資源を巡る争いもほとんど起こらなくなった。

 ジルがアンソニーのもとに来るまでに見てきた町の静けさ。彼がそのことに疑問を抱かなくなったのはいつ頃だったか。世界はそういう風に変わってしまったと受け入れている自分がいることを思い出し、ジルは辟易してため息をついた。

「慣れってのは恐ろしいもんだな。この町から夜がなくなった時は暗闇が恋しかったもんだが、今はそう思わない。むしろ、明るいだけマシさ。その光を出してるのが、得体の知れない黒い太陽だったとしても」

 パラダイムシフトが町にもたらした超常現象は、目に見える変化から目に見えない変化まで様々だ。町の外に出られないこともそうではあるが、住民たちが最初に実感したのは町に夜が訪れなくなったこと。黒い太陽が町を照らし始めて以来、それは決して沈まなかった。もっと言えば、白かった雲は透明な青と赤の星雲に姿を変え、雨はほとんど降らなくなっている。代わりに降るのは、雪とも灰とも言えない何かくらいだ。

「平穏と孤独ってのは紙一重だ」

 心ここに在らずといった様子のジルに、アンソニーは目を見て話しかける。

「俺たちは今まで静かに暮らしてきた。それは、俺たちもこの町も平穏を望んでいたから。だが、アトランティスは変化した。そこで暮らす俺たちがそれに飲み込まれるのは道理ってもんだ」

 ジルが感じている孤独は、平穏だということの裏返し。混乱に陥っていた頃と比べれば、町の様相は落ち着いてきたと言える。資源を巡る争いや、不可解な現象に頭を悩ませていた日々は遠い昔のようにさえ思う。その根底にあるのは、ジル自身も言っていた慣れだ。

 とはいえ、この異常事態すらも慣れてしまった現状。それをかつてと同じ平穏と呼ぶには程遠いかもしれない。だが、それこそが今ある日常でもある。

「”この町の運命は俺たちの運命”、だろ?」

 ジルは皮肉としてある言葉を引用してみせた。町の総督府が掲げていたスローガンだ。

「甘んじて受け入れるさ。その結果が、この有様だよ。……せめて良い知らせの一つくらいあったっていいと思わないか?」

 いくら現状に慣れたと言っても、町は悪い方向に進むばかり。町で起きる超常現象は神隠しの如く人々を次々と失踪させ、生き残った自分たちは町の外に出ることさえ許されない。

 自棄気味になっていたジルの態度を受け、アンソニーはこんな話をしだす。

「この店の主がいなくなってから、腹を空かせた客がよく来るようになった。この町は相変わらず静かだが、ここは他よりも少しだけ賑やかだ」

 それは、白い髭を蓄えたアンソニーなりの良い知らせだった。彼の渋い微笑みを見て、ジルも素直に頷く。

「こう言っちゃなんだが、正直言っていなくなってよかったよ。ヤツは店のパンを独り占めしてたんだ。みんなに配らなきゃ、飢え死にしちまう」

 実は、アンソニーはパン屋の店主ではなく、本来の店主はつい最近失踪してしまったのだ。また、その店主はパンを住民たちに配らず独り占めしていた。だがいなくなってしまったため、アンソニーが跡を継いでパンを焼き続けている。

「そういう時こそ、保安官の出番なんだがな」

「だな。けどあいにく、俺はクビになっちまった」

 ジルは、アトランティスの元保安官である。パラダイムシフトが起きてから解雇されたのだが、保安官として町の混乱はいくつも目にしてきた。町で相次いだ失踪事件、不可解な現象。そのどれもが、対処しきれないものだった。

「どのみちアトランティスの秩序を保つのは無理だった。友達がいなくなった、死んだはずの家族の姿を見た、おまけに家畜を惨殺した吸血鬼女……手に負えないよ」

 理不尽。人の力ではどうしようもない出来事に直面し、ジルたちは状況を飲み込むことさえままならなかった。全てを諦めて、世界の終わりを受け入れることが救いに繋がる。そう思えるほどに、追い詰められていた。

 酷く荒んだ精神状態からは、到底立ち直れるものではない。それでも、彼はこうして生きている。

「お前さんはよくやってきたさ」

 アンソニーは慰めるとも諭すとも取れる口ぶりで言う。

「この店の主がいなくなった時、ここを野放しにすることだってできたはずだ。だがお前さんは、ここの運営を続けることを提案した。もしそうしなかったら、もっと多くの人間が腹を満たせなかっただろう」

 アンソニーの言う通り、ジルはパン屋の運営を続けることを提案した。パンを独り占めにしていた店主がいなくなったことで、店からパンがなくなるのは時間の問題。だが、パンを焼き続ければより多くのパンを分け合えることができる。当たり前のことではあるが、残されたパンを盗むことを考えていた住民たちには思いつかなかったこと。

「それを言うなら、引き継ぐことを名乗り出てくれた方こそ立派だ。パンを焼く知識のある人間は、他にいなかったし」

 もちろん、パンを焼くためには知識がいる。その知識もなく提案したジルだったが、幸運にもアンソニーが名乗り出てくれた。今にして見れば、彼が引き受けてくれなければ提案は無意味なものになっていたはず。彼には感謝してもしきれない。

「あぁ、あれは嘘だ」

「え?」

 衝撃の告白に面食らうジル。彼の反応を尻目に、アンソニーは厨房へ戻ると何やら茶色い紙袋を持ってくる。

「誰も名乗り出ないなら、自分でやるしかない。だろ? それとも、俺が焼いたパンはいらないってか?」

 カウンターに置かれた紙袋からは、パン生地の香りが漂ってくる。店に入った時に微かに感じた匂いの元はこれだ。

 人が消えた町で、新しく焼かれたパンを食べられることがどれほど幸せなことか。

「ありがとう」

 紙袋を受け取ったジルは、紙袋の中を見る。ひとつひとつのパンは小さく、数も決して多くはない。だがカビの生えたパンよりも遥かに良いだろう。たとえ、それが素人の焼いたパンだったとしてもこの町ではご馳走だ。

「また来てくれよ」

「次会う時まで、お互い生きてれば良いけど」

 冗談を交え、ジルは帽子を被る。

 次に来る日がいつになるかは分からない。パンを焼くための材料も有限ではないし、頻繁に顔を出すことを控えているため、今回二人が顔を合わせたのも久しぶりだった。夜がないこともあって、どれくらいの時間が空いているかまでは分からないが。

「心配するな。俺はあそこの噴水広場にある開かずの間が開く時を見るまでは、死ぬつもりはねぇよ」

「この町が大変な時だって、あそこは決して開かなかった。この町が滅ぶ日まで、きっと開くことはないだろうさ」

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