2LDKの憑き物祓い

みなしろゆう

離人の少女

 ありもしない緑が反射する。


 雨に濡れた路面は鏡のように、道行く全てを映していた。

 横断歩道にさしかかり少女はふと足を止める、赤だった信号が青になって、

 人が流れていっても、赤い傘の少女は立ち止まったまま一点を見ていた。


 少女の足元、路面は変わらず道行く全てを映している。

 そこには当然少女の顔もあって、

 揺れる水面の中、気弱そうな顔が見つめ返してくるのに対し、少女は眉をひそめた。


 十七年間この顔で生きてきた少女だが、自分の顔が何かに映る度、思うことがある。

 なぜ自分がこの顔なのか、容姿の良い悪いではなく、単純に何故自分がこの姿なのかが分からない、

 見返してくる顔を、自分のものだと理解するのに、少女はいつも一拍を要していた。


 だって、どうみたってこの顔は人間だ。


 小さくため息を吐いて少女はにらめっこを辞めた。

 顔を上げ、二度目の青を待ち、横断歩道を渡る。

 引かれた白線は水を弾いているようでびしょ濡れだ、

 おまけにタイヤの跡と誰かの靴跡がつきすぎて、お世辞にも綺麗な白とは言えない。


 横断歩道を渡り切り、ガードレール沿いに坂を下っていく。

 立ち並ぶビルの外観は長らく変わらず、名前だけはころころ変わる。


 少女はまた、横断歩道に差し掛かった。

 青信号が点滅し、走る気もないので立ち止まる。

 立ち止まると俯いてしまうのが少女の癖で、今も自然と足元を見て、後悔した。

 ああ、見なければよかったと。


 足元には、先程と同様に濡れた路面がある。

 路面は──道行く者全てを映していた。


 少女の隣、二歩分空いた向こうに男が立っているのが映っている。

 だからなんだという話だけれど、少女は赤い傘の中、俯いたまま固まっていた。


 少女の視線を釘付けにしたのは、キラキラ光る小石でも無ければ雨粒のダンスでもない。

 もっともっと邪悪なものだ。


 男の肩に、黒い筒のような物が乗っている。

 よく見ればそれは五本指の腕で、しかし肩から先はなく、鉄骨のように太かった。

 まるで肩を組むような気軽さで、腕だけが乗っかっていて、男はぼんやりと前を見ている。


 少女は傘を握りしめて棒立ちのまま、口が乾いていくのを感じていた。

 叩き付けられるような凄まじい悪寒と共に感じる気配。

 ああ、この寒さは久しぶりだ、ここに居てはいけない余所者の気配。


 見えてはいけない、映ってはいけない、

 ありもしない存在の気配だ。


 信号が青になる。

 人の歩みが再開され、さっきとは別の理由で少女は波に遅れた。

 意を決して顔を上げ横に立つ男を見やる。


 と、そこにはもう誰もいなかった。

 人波に目をやるが、どこにもそれらしき姿はない。


 は、と鳴ったのは少女の喉。

 深く息をしながら、思わずつぶやく。



「……久しぶりに見たな」


 少女の呟きは赤い傘の中に溶け消え、

 深呼吸して気持ちを落ち着けた。

 今日はたまたま良くないものが見えてしまっただけで、別にいつもと変わらないと、

 そういうことにしようと思った。


 思ったのに。

 独りきりの雨の中、もうひとりが現れる。


「あの、ごめん。ちょっといいかな」


 若い男の声が、雨音と共に耳に入った。

 その声は明らかに少女に話しかけていて、また横断歩道を渡り損ねる。


 赤信号を眺めて、動き出した車が起こした風に煽られるように、振り向いた。

 本当は今すぐ走って帰りたいのに、呼び止めるなんてどこのどいつだ、

 キャッチもナンパも道案内も、今の今だけは腹の底からお断りである。


 隠しきれない不機嫌が漏れ出た顔で、少女は声の主を睨んだ。


 目が合ったのは、身長の高い細身の男。

 黒いリュックに、朝適当に選んできましたと言わんばかりの無難な服装、青い傘。

 雰囲気的にも大学生だろうか。

 少女には心当たりのない男である。


 男は少女を伺って、おそるおそるといった様子で口を開く。


「あの怪しいヤツではないんだ。でもひとつ聞きたくて

 ……今の。見えてたよね?君」


 投げられた言葉を理解して少女は肩を竦め、ため息を吐いて、面倒だと思う。

 何も言わずに踵を返し、青信号を見た。


「あっ……ごめんまって!おねがい!」


 歩き去ろうとした少女に、男は追い縋る。

 周囲に出来ていた信号待ちの人だかりが、一斉に男を見やった。


 中学生くらいの外見をした少女の手を掴み、引き止めている成人男性。

 浴びせられる目線に男が顔面蒼白になったのを感じとり、

 少女はため息を吐いて、もう一度振り返った。


 掴まれた腕を辿り、男を見る。

 男は訴えかけるような瞳で少女を見返す。


 少女は面倒だと思っているのを隠しもせずに口を開く。


「何の御用です?……まあ、今のままだとあなた、別の意味で御用ですけど」

「ちが、これはあの、僕の方にも生き死にがかかっていて……!」


 大慌てで少女から飛び退くように離れ、意味のわからないことを捲し立てる男に、

 少女は何度目かのため息と共に下を向く。

 濡れた路面には当然自分と、男が映り、そして見えたのは。


「あの、ね。君なら見えると思うんだけど」


 男の肩から、だらりと垂れ下がった、黒い腕。

 肩から先はなく、しかし今度は顔がついていた。

 顔は砕かれたように口を封じられ、長い舌が垂れ下がっている。

 ──寒気を通り越して吐き気。


「これが何なのか知らないかなって」


 声も言葉も、全部意識の外へ滑っていく。

 少女は路面に映った、絶対にあってはならないものを見つめ。

 男に取り憑いた化け物は、潰された口でけたりと笑った。



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