第四十六話 上演の時/亮輔サイド

 ついに迎えてしまった上演の時。既に衣装に身を包んだ俺は、舞台袖に待機し、幕が上がる瞬間を戦々恐々せんせんきょうきょうとしながら待っていた。


 俺達が演じるのは、元々膨大な長さのある『ロミオとジュリエット』を小一時間ほどにまとめた、言わばダイジェスト版。映画などでも二時間はある内容を更に削っているので、物語の進行が多少駆け足にはなってしまっているが、これでも脚本を担当した須賀さんが苦心くしんに苦心を重ねて完成させた台本である。最低限『ロミオとジュリエット』という作品の全貌が見える程度の仕上がりだが、高校生のクラス発表としてみれば、充分な出来にはなっているだろう。


 とは言え、である。舞台に立つということ自体がほぼ未経験と言っていい俺だ。これから大勢の人の前で演技をしなければならないと思うと、眩暈がしてくる。ちなみに両親とはだいぶ前に合流して皇さんのことも紹介済み。執事云々の話をした時は目を丸くして驚いていたが、元が大らかで懐の広い両親である。すぐにその事実を受け入れて「ふつつかな息子ですが――」などと頭を上げていた。たぶん今頃は体育館に設置されたイスに陣取って、幕が上がるのを待っているはずだ。やたらテンションが高かったし、変な応援アイテムなど持ち込んでいないだろうかと心配になる。その想像が、俺をますます緊張させ、身体を強張らせた。


「大丈夫? 亮輔君」


 そんな俺に声をかけて来たのは、ジュリエットの衣装に身を包んだ皇さんだ。各衣装の中で一番予算がつぎ込まれたというその衣装は、ただでさえ華やかな皇さんの魅力を更に高め、まるで本物のジュリエットがそこにいるかのような感覚に陥る。


「あ、ああ、うん。ちょっと緊張し過ぎちゃって」


 思わず見入ってしまいそうになる美しさ。ロミオはあくまでシェイクスピアが生み出した架空の人物だが、ジュリエットを初めて見た時のロミオも、こんな気持ちだったのだろうか。


 と、ここで皇さんがちょっといたずらっぽい表情になる。


「あ、もしかして私のドレス姿に見惚みとれちゃった?」


 完全に図星だ。とは言え、それを素直に認めてしまうのは何だかはばかられたので、俺は咄嗟に話をらした。 


「皇さんなら、こんな間に合わせの衣装よりもずっと高価なドレスを着てるでしょ?」

「そりゃ~、まぁ、実家にいた時は親の都合でことあるごとに着てたけどさ。あれ、あんまり好きじゃないんだよね。他人にび売ってるみたいでさ」


 皇さんがふと真顔になる。その瞳はどこか遠くを見詰めているような気がした。しかし次の瞬間にはにっこりと笑顔を浮かべて、こう言う。


「でもこの衣装は好き。何て言うか、みんなの気持ちがこもってる」

「オーダーメイドの豪華なドレスよりも? あっちだって職人さん達の思いがこもってると思うけど」

「う~ん、それはそうかもだけどさ。一致団結って感じじゃないじゃん?」


 一致団結。そう言われると、確かにそんな気もする。オーダーメイドのドレスはデザインも裁縫技術も洗練されてはいるだろうが、そこに皇さんの意思は介在していない。一方、こちらのドレスは、衣装担当の生徒達と皇さんが一緒になって作り上げた世界で唯一つの一品だ。どちらに思い入れがあるかと問われれば、後者なのは間違いない。


「みんなで作り上げた衣装を着た私に、亮輔君が見惚れてくれるなら、これ以上に嬉しいことはないよ」


 その言い方はずるいだろう。ここで感想を言うのを跳ね除けたら、クラスメイト達の思いすら放ってしまう最低な人間ではないか。


 仕方なく、俺は改めて皇さんを見詰める。どこまでも引き込まれそうになってしまう感覚をどうにか押さえながら、俺は小声でこう言った。


「すごく似合ってる」

「本当? わぁ~、嬉しいな。亮輔君に自分から服装を褒めてもらったのは初めてだから、今日は記念日だね?」

「大げさだよ。それに俺、そういうの覚えるの苦手だし」


 両親の結婚記念日なんかもろくに覚えていない俺である。仮に今後、俺に彼女が出来たとして、そういうのを言われだしたらと思うと、とても不安だ。


「大丈夫。私が憶えてればいいんだから。これからは毎年この日は飛び切りおめかしして、亮輔君に褒めてもらう日にしよう?」


 皇さんの中では、既に決定事項らしい。今みたいな生活がいつまで続くかわからないのに、彼女は今からノリノリである。


 そうこうしているうちに、開演五分前を告げるブザーが鳴った。体育館に満ちていた喧騒が徐々に静まり、始まりの時が近いことを告げる。


「皇さん! 位置についてもらえる?」


 裏方担当の男子生徒に声をかけられ、皇さんが振り向いた。


「わかった~」


 短くそう返答してから、改めて俺の方に向き直る。


「記念日のこと、約束ね?」


 言いながらウインクをして見せた皇さんの姿が、まぶたに焼き付いて離れない。着ているもの一つで、こうも印象が変わるのか。皇さんは元々お嬢様ではあるが、今はお姫様と言った方がしっくり来るような気さえする。そんな彼女の姿に、目を奪われた。何だろう、この感覚は。何だか気持ちがたかぶるような、それでいて、どこか落ち着くような、あべこべの感情。その正体を掴むことは出来なかったが、少なくとも、俺を縛っていた緊張の糸は完全にほどけて、むしろやる気が満ち溢れて来たのだった。


 そうして、開演を告げるブザーの音とともに幕が上がる。開幕のナレーションでモンタギュー家とキャピュレット家の関係がざっくりと説明されたら、早速ロミオのロザラインへの想いを独白するシーンだ。まだ舞台上は暗いし、スポットライトも当っていない。それでも幕は既に上がってしまった。舞台上は薄暗いとは言え、俺の姿はもう観客からは見えているはず。ナレーションが終われば、舞台上を照らすのライトが点灯し、俺にスポットライトが当る手はずになっているので、後はその瞬間を待つばかりだ。


 ナレーションが語るわずかな時間。俺は皇さんにならい、自分の中のスイッチを切り替える。俺、いや僕は今から朝霧亮輔ではなく、ロミオだ。キャピュレット家の人間であるロザラインへの片想いを抱え、悩み苦しむ一人の少年。朝霧亮輔は恋をしたことがないが、ロミオは違う。日々膨らんで行く想いを持て余し、苦悩の日々を送っているのだ。


 いつしかナレーションが終わり、あらゆるライトが俺を照らし出す。ついに僕――ロミオの出番が来た。ロザラインに想い焦がれる僕は、大きくため息をついてから、一人語り始める。彼女への想いを、全身全霊を込めて。その後に来る運命の出会いなど、この時は知りもせずに――。


 時は進み、死んでしまったジュリエットに会うために、キャピュレット家の霊廟れいびょうを訪れた僕は、パリスに遭遇。ジュリエットは自分の妻だと言い張り、戦いを挑んできたパリスを、僕は殺した。これでもう邪魔者はいない。ようやくジュリエットに会える。


 そうして横たわるジュリエットに、僕は語りかけた。


「やっと会えた。ねえジュリエット、二人はいつまでも一緒だって言ったじゃないか。あんなに暖かかった体が、こんなに凍りついて。ねえ、お願いだ、もう一度瞳を開いてくれ、もう一度僕を呼んでくれ。二人でどこまでも行こうって約束したじゃないか。橋の上で始めて逢って、舞踏会場で運命の再会、君が僕の名前を呼んでくれて、幸せに浮かれ騒いだ。そして僕達は誓いを立てて、二人で教会の鐘を聞いた。間違ったことなんて何もないのに、どうしてこんなにうまくいかないのだろう。ジュリエット、いがみ合いのない世界で、僕達これから幸せになろう。いつまでもいつまでも一緒に暮らそう。今、君のところに行くよ。ああジュリエット、まだ微かに暖かい。地上での最後のキスだ、お休みジュリエット」


 僕はジュリエットの唇にキスをする。そして持っていた毒入りの小瓶をあおった。すると、終わりの瞬間はすぐに訪れる。苦しみがないと言えば嘘になるが、それでもジュリエットと同じ場所にけるのであれば本望だ。やがて僕の身体はジュリエットの横に倒れ、最後の時を迎えた。


 しばらくして、周囲から声がかかる。少し意識にもやがかかっているが、どうやら幕とやらがりたらしい。


「朝霧君、お疲れ様。さぁカーテンコールがあるから速く立って!」


 須賀さんの声。その声を聞いて、俺の意識は一気に覚醒した。


「あれ? え? 終わった?」


 完全に寝起きのような様子の俺を見て、須賀さんを始め、クラスメイト達がドッと笑う。


「何それ。ちゃんと最後まで演技がんばってたじゃない」


 演技。そう、演技だ。俺は今までロミオの演技をしていた。あまりよく憶えていないが、最後のシーンでちゃんとジュリエットにキスをしたはず。


 キスと言っても、これはあくまでお芝居。本当にキスをしたのではない――と思う。このシーンは男子達からも不評で、削るべきだと散々言われていたのだが、脚本兼演出の須賀さんはこれを一蹴。あくまで振りをするという形で導入された。練習中でも容赦なくキスの振りをさせられたので、男子達から向けられる視線が、酷く痛かったのを憶えている。


 すぐ側にいた皇さんに目を向けると、彼女は顔を赤らめ、俺から視線を逸らしたところだった。


「皇さん、どうかした?」

「ううん。何でもない! ちょっと目にゴミが入ったみたいで!」

「大丈夫!? 俺が見ようか?」

「大丈夫だから! 自分で取れるから! 亮輔君は少しあっち向いてて!」


 かたくなに拒否されてしまう。こんな反応をする皇さんを見るのは初めてだ。


 とにかく、幕の向こうではまだ拍手が続いている。カーテンコールをするなら早い方がいい。俺は須賀さんの指示に従い、キャスト達と肩を並べて整列する。立ち位置は列の真ん中。当然隣にはジュリエット役である皇さんがいた。皇さんは俺の方をチラチラと見やっては視線を逸らすというのを繰り返しており、中々正面を向こうとしない。


「皇さん。カーテンコールで幕が上がるから、そろそろ前を向かないと」

「あ、ああ、うん。そうだよね!」


 すごく焦った様子の皇さんも新鮮だが、今はカーテンコールに集中するべきだろう。


 幕が上がり、再びスポットライトが俺達を照らす。あらかじめ決めてあった通りの動きでキャスト一同が挨拶を済ませ、最後に主役である俺と皇さんの出番がやって来た。俺は観客に手を振ってから、深々と頭を下げる。どこからか俺を呼ぶ声がするのは、たぶんうちの両親のものだろう。次いで皇さんが頭を下げると、拍手はより一層大きくなり、歓声は最高潮を迎えたのだった。

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