ウミドリの灯りゆく町 第5話

 正午を過ぎた頃、ようやくカイが帰宅した。昨日から一睡もしていないのではなかろうか。

 帰って早々、彼は「すぐ近くまでクジラが来ているかもしれない」と話した。


 僕は冷水を浴びせられたように思考が一瞬まっさらになった。


 カイは心配しつつも、はっきり僕に指示を出した。


「僕はこれから町の皆の避難誘導をするから、レイナちゃんは最低限必要なものをまとめて逃げる準備を。

 すぐに迎えに戻るよ」


 僕を励ます時間もないのだ。それほどの緊急事態だと思い至ると少し冷静になれた。


 震え出しそうになる手に「大丈夫」と言い聞かせながら支度をした。

 三十分後、彼が戻ってきて即座にマンションを出発した。


 今まで行ったことのない抜け道をするすると行くカイに必死についていく。

 マンホールの下に降り、汚臭を我慢して三十メートルも歩けば、また地上に出て……。


 見えない敵を背に感じながら、カイと支え合うように夢中で逃げた。

 共に逃げている住民を励ましながら、誘導しながら、警戒を怠らず走り続ける。


 逃げ延びた先は雪原だった。雪に埋まっているが、この辺りはバイパス道路の両脇に田畑が続いている場所だ。


 その地点で十数台の車が待っていた。カイは車を動かせる住人に先に逃げるよう指示し、クジラのいない安全な道を確保させていたらしい。

 後は全員が車に乗り込み、バイパスに沿って人の住んでいる町を探しながら進むという。


 ここまで来ればしばらくクジラは追って来られない。

 というのも、クジラは人々を捕えアジトに移送するためトラックに乗ってくるが、それはクジラのアジトと襲撃予定の町との往復分のガソリンしか積んでいない。

 彼らは多く人々を連れて帰ることより、今いる構成員の逃亡防止を優先するのだ。


 避難してきた皆が無事を確認し合い、ほっと息をついた。

 疲れと安堵の混じった汗まみれの顔が並んだ。


「汗が冷える前に次の町に着かないと。皆、もうひと踏ん張り!」


 カイが声を張って、皆の顔に活力が戻ってきた。


 冬空の下の野宿は電気製の暖房器具が使えない現代では命取りだ。例え、車の中でも暖房が使えないことは同じだ。


 空を覆う冬雲の切れ間から、不意に光芒が差した。

 逃げる過程で家族と離れてしまった面々の再会が叶い、ほころんだ顔がちらほら見えた。

 皆が車に乗り込み、次の町を目指した。




 避難した先で辿り着いたその町には潮風が吹きつけていた。

 僕らは既に無人になっているアパートを発見し、その一室に仮住まいすることを決めた。


 次の住み家に着いて始めにすることの手順をカイに教わった。

 まず安全の確保。

 硝子の破片等危険物が落ちていることを考慮して土足で上がる。

 物置部屋から大量の段ボールや雑誌類を見つけたので、割れた硝子の修復に使った後、二人で寝床とキッチンに三重、四重に敷き詰めた。これで少しでも暖房のない寒さを紛らわすのだ。


 昼間あれだけ歩き続けたのだからカイは疲れ切ってすぐに寝息を立てた。

 僕は彼を起こさぬようアパートを抜け出した。


 向かうのは、クジラのアジト付近だ。

 途中、鍵が刺さったまま放置された車を発見し、使わせてもらう。


 目的の場所に到着すると、廃墟と化したショッピングモールからドローンを探し出した。

 ビデオカメラをドローンに括りつけ、それを夜空の中へと放った。

 ビデオカメラの映像をリアルタイムで映し出しながら、ドローンを操作した。




 最初に映ったのは、ただアジトに背を向けて立ち尽くす人々だった。


 クジラのアジトには壁も柵もない。が、その外と内は明確に区切られている。

 壁の代わりに、人が立って警備しているのだ。

 一人分の肩幅で等間隔にアジトの街をずらりと囲っていた。


 クジラの制服を着せられた老若男女に、信仰を守ろうという意志や、従おうとしない外の人間らへの敵愾心は見出せない。

 恐らく彼ら構成員は言われるがまま虚ろにそこに立っているのだ。


 それが彼らの仕事で義務で生活だった。


 彼らの頭上を飛び越え、ドローンの侵入は難なく成功した。


 クジラはアジトに監視装置を設置していない。

 それは、クジラの構成員のほとんどが電忘症であり、電気製の機械を見ただけで怯える者も多いからだ。

 彼らにとって動いたり音を立てる電気機器は幽霊と同じように恐ろしい物なのだ。


 それに監視カメラを設置したところでそれをチェックできる電忘症でない人間がほぼいないため無用の長物だった。


 人間で作られた柵を超えた先には、工事の騒音が絶えない区画があった。

 クジラのアジトはいつでも工事中だ。

 その音にドローンの飛行音が掻き消されるので好都合だった。


 そこを過ぎ去れば白。

 建物も道路も真っ白に塗装された街だ。

 警備の仕事以外のクジラの構成員はここで労働をする。


 仕事は与えられるものであり、選べない。

 ビニールハウスを仕事場と与えられた人間は野菜を栽培し続け、裁縫部屋を仕事場と与えられた人間は服を縫い続けていた。


 中でも圧倒的に人数の割り当てが多いのは自転車を漕ぎ続ける仕事だ。

 人々は「この労働が電力発電なのだ」と説明されるが、決して理解はできない。


 労働をする人間は外から連行された人々であり、皆、電忘症だ。

 本当にこんなことが電気を生み出すのかは誰一人確信を持てない。


 それら人々の仕事部屋の上をドローンが飛行した。


 途中、トラブルがあった。

 高層ビルの窓際にいた壮年女性がドローンを発見したのだ。とは言え、そのような事態が起こり得ることも織り込み済みだった。


 女性は窓を開け放ち、興味を引かれたようにドローンに近寄った。


 僕は女性がすぐさま悲鳴を上げなかったことに安堵した。

 マイクから女性に話し掛けた。


「あなたの頑張り、いつも見ていますよ」


 生気のなかった女性の顔が、映像越しでも分かるほどぱっと華やいだ。


『ほ、本当ですか?』


 彼女は、僕の飛ばしたドローンがクジラの寄こした機械であると信じ込んで喜んだ。

 彼女らは承認欲求を満たしてくれる存在をいつも待ち焦がれているのだ。


 ここでの仕事には何の評価も与えられない。

 過程でどれほど頑張ろうと他人より成績が良かろうと誰も見ていないので、誰からも褒められない。

 手を止めようと仕事の出来が悪かろうと誰からも注意されないので、始めのうちは皆サボるが、退屈をやり過ごすために結局仕事をするしかない。


 僕は、続く言葉に出来得る限りの労いを込めた。


「いつもこの組織に貢献してくださるあなたに、心ばかりのお礼です。

 これを差し上げましょう。他の人には内緒ですよ」


 予めドローンの先に結び付けておいた蓄光キーホルダーに、女性は今ようやく気付いた様子だった。

 蓄光キーホルダーは、太陽光や蛍光灯の光を吸収し暗いところで緑に光るキーホルダーだ。


『まあ、懐かしい。光るのよね……』


 女性は目尻に皴を寄せて微笑んで、しかし徐々に沈鬱な表情になった。


『ありがたいことですけど、その、やっぱり頂くのは遠慮しておきます』


 女性は悲しそうに辞退した。


 無論、それが狙いだった。


 彼女にはどうやったら蓄光キーホルダーが光るのか分からないのだ。

 太陽光に当てるにしても建物外に出て良いのは移動時間だけ。

 

 そして、彼女には当てるのが蛍光灯の光でも良いことは分からない。

 女性は、使用方法も楽しみ方も理解できない物をわざわざ受け取らなかった。


 僕は自分でそう仕向けたくせに、自分の行いの非情さが胸を塞いで仕方なかった。


 その後も三人ほどにドローンを見られたが同様のやり方でくぐり抜けて進み、指導部屋の上も飛んだ。

 その部屋の窓には鉄格子が嵌っていた。


 クジラではサボることは自由だが、ただ一つ「他人の仕事の妨害をしてはならない」という規則があった。

 それを破った者がそこに投獄されるという――。


 一瞬、マイクが甲高い笑い声のような音を拾った。

 風が途切れた瞬間、それが子供の泣き声だと知った。


 工事現場の方面に回り込み、そちらの窓から指導部屋の中を覗いた。

 その方がドローンの発する機械音が工事の騒音に誤魔化されてくれると思ったからだ。


 頭髪に白いものの混じった初老の女性がドローンに気付いた。

 彼女は興味を引かれたようにふらりと寄ってきた。


 僕は先程までと同様に、


「こんにちは。あなたの頑張りをいつも見ていますよ」


 初老の女性は沈痛そうに否定した。


『……私にはそんな言葉を掛けてもらえる資格はないんです。

 今後一生、ここの子供たちに償いながら生きていきます……』


 女性は子供の呼び掛けに振り向き、後はもうドローンを意識する素振りも見せなかった。


 アジト一帯の偵察を終え、ドローンが引き返してくる。

 最後に構成員の並ぶ境界に戻ってきた。


 そこでカメラが捉えたのは、一台のトラックだった。

 トラックは外からアジトに近付いてきて構成員らの前で止まった。


 車の荷台から降りてきたのは十二、三歳の少年。

 運転席から降りた人物はフードを被っていた。

 駈け出そうとした少年の腕を掴み引き摺ったフードの人物は、そのままクジラの構成員に少年を引き渡した。

 少なくとも少年は確実に嫌がっていた。


 風が強く吹き付けたようだ、少年を連れてきた人物のフードが捲れた……。




 ――僕は映像を見終え、張り詰めていた息を肺から押し出した。

 無意識にツインテールの髪の毛先を摘まんで引っ張っていた。


 僕にはこの映像を見ても、クジラの行っていることの善し悪しを断定できなかった。

 だが最後に見た少年の姿は、見過ごせない、と思った。

 だから、僕は今ここにいるのだと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る