ウミドリの灯りゆく町
葛
第1章
ウミドリの灯りゆく町 第1話
意識を取り戻して最初に、閉じた瞼に冬陽の眩しさを知覚した。薄く目を開ければ、見知らぬ部屋のベッドの上だ。劣化した壁。他人の匂いがした。
疲弊した体を叱咤しながら、柔らかなマットレスに肘を立てて上半身を起こした。
「まだ寝てていいよ」
ベッドの脇から気遣うような青年の声が飛んできた。
僕の心臓は早鐘を打ち、何も言葉が出ない。
「まずは初めまして」
嘘吐き。僕は心の中だけで詰った。
彼は僕がここにいる経緯を教えてくれた。僕を安心させたかったのか、子守歌でも歌い出しそうに微笑んでいた。
「君を最初に見つけた時はびっくりしたよ。なにせ雨の中、瓦礫の散乱した道路に血塗れで倒れてたものだから。……君が怪我をしていたわけじゃなかったんだね」
深く響く落ち着いた声。
「君のワンピースについていた血は……」彼は言い淀んで、すぐに「いや、一先ず無事で良かった」と当たり障りのないことにすり替えた。
僕は耐え切れない心境になっていた。
「君は、僕を助けるべきでなかったかもしれないよ」
僕の声は枯れていた。意識を失う直前まで硝煙の中を駆け抜けていたのだからおかしな話じゃない。それでも、嗄れ声が恥ずかしかった。
彼は僕の言葉を聞き流し、僕にカーディガンを貸してから、唐突に尋ねた。
「あ、君の名前を教えてくれないかな? これからどう呼べばいいのか分からないから」
僕は口を開きかけて、しかし答えられなかった。名前がないわけではない。ただそれをここで名乗るのは憚られた。
僕の意図を汲み取ったように彼はベッドの側の本棚から分厚い本を一冊引き抜いた。
パラパラと数枚めくって、あるページに目を留めると「レイナ、とかはどう?」と目線を向けてきた。
僕は小声で「レイナ」と反芻した。彼は笑みを深めて頷いた。
僕は知っていた。彼が開いた本は辞書であり、「レイナ」などという名前は載っていないと。
「僕はカイというんだ。よろしくレイナちゃん。必要になった時に、君の事情を尋ねることにするよ」
暗に今は僕に何も聞かない、と宣言した。
白々しい「初めまして」の儀式が済んだ。
これから先、僕らは知人だ。つまり何をしてもいいわけだ。
僕は腰辺りまで垂れた自分の髪の束の根元を左右で掴んで、ツインテールを作った。
「カイ君、これは何でしょう?」
青年――カイは目をぱちぱち瞬かせて、眉間に深く皴を刻んだ。黙考する間、ちょっと寄り目になって僕を凝視した。
彼がぽん、と手を打った。
「タカアシガニのハサミ!」
「ん? どの辺が?」
「ん? え、違った? 大喜利じゃないの? ……何が正解なの? これ正解あるの?」
カイは首を右に左に傾げては、僕に問い掛けを繰り返した。
僕は、彼がいつ僕に揶揄われていることに気付くのか、内心わくわくしながらそれをおくびにも出さず、長い髪を振り回して待っていた。
朝の少し眩しすぎる光が部屋に差し込み、僕らを包んだ。
亀裂の走る窓の向こうには寂れた町並みが見下ろせた。冬の澄んだ空気が殊更に町の荒廃を際立たせていた。
この地区の住人が皆、着の身着のままで夜逃げしてそのまま放置されているような状態だった。
それから僕はカイと共に行動することになった。帰る場所などなかったからだ。
☆
五年前、人々は電気の使い方を忘れた。
その症状が少なくとも日本国内全土で起こっていた。
電気というものが存在していることは知っていてもその仕組みが分からない。あらゆる電気製品の使用方法が分からない。
その症状は、電気忘却症、略して「電忘症」と名付けられた。
当然、メディアというメディアが使用不能になった。
テレビ、ラジオ、その他のマスメディアは勿論のこと、携帯機器、パソコン、全てのソーシャルメディアを使用できる人がいなくなった。
電源を入れようにもその方法が分からず、そのうち充電が尽きるが充電の仕方が分からない。
生活のほとんどを頼ってきた製品の多くがただのガラクタとなり果てた。
そんな最中、現れたある集団が人々を無差別に誘拐し始めた。
彼らは殺害、暴行、破壊活動をほぼ行うことなく社会を更なる混乱に陥れたのだ。
彼らは何者なのか。何を目的としているのか。
五年経った今もその問いに応えられる者はいないが、いつしか人々は彼らテロ集団を、大口を開けて人々を吸い込んでしまう「クジラ」に見立てて、そう呼ぶようになった。
クジラは、会社員、農家、役人、主婦、老人、小学生その他あらゆる人々を際限なく誘拐した。
銃で脅し連れ去るのだが、人々の連行先は不明なままだ。
捕まれば洗脳され、クジラの構成員となると噂された。
そうなるとまもなく政府、行政、交通、医療の公共機関が市民にとって意味を成さないものになった。同時に法律、ルール、マナー、憲法もないに等しくなる。
政府が何かを発表しようにも手書きの回覧板では限界があり、自衛隊・警察が事態鎮圧に乗り出そうにも、通報の仕方を覚えている人は皆無であり、航空機・船舶・鉄道などを動かそうにも真っ先にクジラに襲われ機能不全となり、病院は医療関係者が医療機器の使い方を忘れ、助かるはずの命の多くが消えていったために、人々の信用を失った。
その状況下でそれまでの職業概念は覆され、新しい職業が次々と誕生した。
その筆頭に挙げられる人々は使用不能となったメディアの代わりに情報を伝達するコミュニティを作り上げた。
通信機器が存在しない中、クジラの現在位置から生き別れた家族の捜索まで、生き延びるために必要な情報を口伝える人間たち。
メディアに代わり情報を伝える彼らは、どこまでも足を運び、情報網を広げながら人々の生活に溶け込んだ。
五年が経った現在で、彼らは「情報屋」、あるいは「渡り鳥」と呼ばれている。
以前は当たり前であった運輸業が渡り鳥を介してようやく再開すると、商売が普及した。
ただし、企業団体を作ればクジラに発見されやすくなるため、まだまだ個人経営規模の商売だ。
クジラに連れ去られず生き残った人々は少なかった。
相変わらず無政府状態ではあるが、人々はクジラから身を隠しながら小さな町を点々と作り、暮らすようになった。
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