第12話 もう死んじゃう
ある夜、バイトから帰宅してドアを開けると、キコちゃんが玄関で倒れていた。
「…キコちゃん!」
俺は慌てて蹲ってキコちゃんの様子を窺ったけど、キコちゃんの顔は落ち着いて安らいでいて、小さな体は微かに呼吸に従い上下しているのがわかった。
俺を待っていて、寝ちゃったんだな。早くベッドに運ばないと。
切なくなるほどいじらしい彼女の体を拾い上げ、人形用の小さなベッドに下ろして布団を掛ける。するとひとりでに彼女はころりと丸まって、そのまま起きることはなく眠り続けた。俺は部屋の灯りを豆電球だけにして、静かにシャワーや着替えを済ませた。
眠りは、まだ訪れない。
俺は布団に入り、目を開けたままでいた。自分の両目が闇の中で静かに光っているのを、まるでそれを外から見ているように想像する。
タオルケットの手触りは変わらずにざらざらとして手に面白く、薄い敷布団は硬い床を感じさせるけど、もう慣れた。枕もいつもと変わらない。でも俺は、大きな変化のために必死にまた脳味噌を空転させていた。
俺は、キコちゃんが好き。そしてキコちゃんも、多分、俺が好き。
でもこれは、単純なハッピーエンドなんかじゃない。だってキコちゃんは…、とそこまで考えて、俺はぱちぱちと瞬きをして考えを遮る。いや、キコちゃんは素直でいい子だ。俺はそんなキコちゃんが好きで、それで満足なはずじゃないか。でも、キコちゃんと俺は…。いや、いけない。そんなことを考えようとしちゃダメだ。でも、俺たちは…。
いよいよ眠たくなって意識がなくなるまで、傷のついたレコードが空回りするように、俺はそうやって、考えてはやめるのを繰り返した。
日々が、悩みを醸造していく。
俺はある日、バイトの時に店長が贔屓の客にだけ使う皿を落とし、慌てて引いていた足を下ろした時、その皿の端を踏みつけて壊してしまった。
「てんめえ!最近ほんっとーにたるんでるじゃねえか!身染みてやれ!馬鹿!」
店長はそう言って、俺の頭を強かに2回殴った。
辞めたいな、この仕事。初めてそう思った。
俺は多分、いろいろなものに追い詰められていた。昼夜考え続けていて、その考えはまったく進まないこと。考えていては、眠れないこと。そんな生活は俺から体力を奪い、冷静さを奪い、気力を削り取っていった。そして、いつもより強い痛みに打ちのめされた俺の心に、恐怖が生まれた。
限界を超えた疲労が蝕んでいた俺の心が見た恐怖は、自分の重い体を支えている一本の糸が垂れている先にある、真っ暗な奈落だった。
でも、「俺が仕事を辞めたら、困るのは俺だけじゃないんだ」と、自分のロッカーを睨みつけ続けながら、俺は吐き気をこらえた。
真っ暗な中にぽつぽつと街灯が灯る薄暗い道は、歩道が狭い。二車線の広い車道はひっきりなしに車が通るのに、歩道はもう誰もいなかった。俺は、さびしく、悲しい気分だった。家で待ってくれているキコちゃんのことを考えていたのに。
なぜだろう。なぜ俺は今、こんなに悲しいんだろう。それは、彼女とのことが悲しいからだ。
もし俺たちが心を結びあったとして、自分たちの間にある大きな違いに、新しい関係を馴染ませられないかもしれない。恋愛というものが実際にどんなものなのか俺にはわからないけど、俺とキコちゃんのどちらもが満足できる交流が、果たして俺たちにできるのだろうか。
キコちゃんが小さいことに、俺はもうあまり不満はなかった。それについては考えに考え飽きて、俺はある日、「そんなことどうだっていいじゃないか!俺は彼女が好きなんだから!」と振り払うことができた。では、何が問題なのか。
キコちゃんは、素直で、頑張り屋で、優しい。
それに比べて、俺はどうだろう。
キコちゃんは多分、俺のことを自分のような人だと思い込んで、心を開いてくれたんだろう。でも俺は、彼女にそばにいて欲しかったからなんとかいろいろ考え出しただけで、本当は薄情で冷たい奴だ。
俺は今まで、人と関わることを避けてばかりだった。周りの機嫌や気持ちを考えるのなんて、面倒だった。
だから、もしキコちゃんに自分の気持ちを伝えて「一緒にいて欲しい」と求める時、一体彼女に何をしてあげればそうしてもらえるのかが、一つもわからない。彼女が俺から離れたくなんてならないようにするには、どうすればいいのかが、本当にわからない。それに、いつか何も知らない俺が考え違いをして、彼女の期待を大きく裏切ることになることだってあるかもしれない。
俺は、どうしたらいいんだ…?
俺がふと立ち止まって見た空には、濃灰色の分厚い雲が垂れこめていた。端の方には、薄ぼんやりとした光がぽーっと灯っている。
せめてあの月が見えたらよかったのに。
俺は、「今からまた、キコちゃんに気持ちを隠して過ごさなきゃいけない」と考えながら、ノブに手をかける。心が雑巾のように絞られる痛みを感じながら、ドアを開けた。
「おかえりなさいませ!一也さん!」
俺はその声を聴いて、びたりと動けなくなった。俺が帰ってきて、大喜びしてくれたキコちゃん。それはいつもと変わらないはずなのに、干からびた俺の心にふれた彼女の微笑みは、俺が望むよりもずっと優しかった。俺は挨拶も忘れて、彼女を見つめた。
キコちゃんに会えたことの嬉しさを感じた直後、その見返りかのように、俺の胸に悲しみが込み上げる。キコちゃんは初めは不思議そうに、そしてすぐに心配そうに俺を見上げた。隠さなきゃと思うのに、キコちゃんにこれ以上嘘をつきたくなくて、目を逸らせなかった。
「どうしたんですか?一也さん…」
俺の心に、口に出せない言葉が次から次へと湧き続けた。それは今にも涙となって、俺を食い破りそうだった。
そうだ。君は簡単に“そんなこと”ができる。でも俺は、君のためと思って初めてそうしたんだ。自分以外に優しくしたいなんて思ったのは、初めてだった。そうしたら君は笑ってくれるかなと思って、それだけが欲しくて。俺の優しさは、そんな幼いものでしかない。
君が少しの間でたくさんくれた笑顔は、俺の幼い考えなんかより、ずっと大きな力を俺にくれたんだ。「自分じゃ彼女には釣り合わない」と思って、それを受け取るのを拒んでいた間、俺は君の存在がどんなに大きかったのかを思い知らされた。
俺は、君が好きなんだ。すごく、すごく好きなんだ。いいや、それじゃきっと足りないはずだ。そんな二文字の言葉じゃ、俺が今泣いているわけは言い表せない。
俺は多分、キコちゃんがいなくなってしまうことを考えたくない。そのあと自分がどうやって生きるのかが、もうわからなくなっている。だから、俺とキコちゃんがもし近づけたとしても、彼女が俺の人となりを見抜いた瞬間、飽きられてしまうんじゃないかと思って、俺は怖くて仕方がないんだ。
俺は今まで、そこそこ満足して生きていたと思っていた。そして、それは多分確かだった。でも、一度見つけてしまうと、もうそれなしには生きられないものがあるんだ。
ダメだ。そうとわかったからには、もう彼女に言わないと。そうでないと、俺は今すぐ死んでしまうかもしれない。
「一也さん…どうして泣いてるんですか?何かあったんですか?」
俺は彼女のところまで跪いて、そっと手を差し伸べる。すると彼女は俺を心配してくれるのか、すぐに登ってきてくれた。俺は片手で彼女の体を包んで、落ちないようにして自分の胸元に彼女を引き寄せた。
「キコちゃん…」
「は、はい…」
彼女の声は、少し不安げだった。キコちゃんの温もりが俺の手に収まるほどに小さいことが、愛しくて、切なくて、俺の涙をもっと後押しする。彼女が苦しくないように、俺はそっとそっと彼女を抱きしめた。その形を初めてはっきりと感じた俺の胸が、とくとくと高鳴る。
そうだ。俺はこれを言わないと、あまりの苦しさに次の呼吸ができないんだろう。眠ることさえできなくなるに違いない。
「一也さん…」
涙で喉が詰まって痛むので、俺はなかなか喋ることができなかった。でも、もう待っていることはできなかったから、俺は泣きながら、一口一口、喉からちぎるような声を出す。
「俺は…君が、好きだ…!」
「えっ…」
腕の中のキコちゃんの、ためらいがちなもじもじとした動きがぴたっと止まった。俺の背中に、さあっと冷たい緊張が走る。
「えええええ~っ!?」
彼女があんまり驚くものだから、俺は泣きながら笑った。
つづく
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